20 様々な準備
四月中旬になって、ようやくお輿入れの日程調整のため、話し合いをしたいと織田家からの使者が来た。
ぼんやり五月の中頃という話しか決まってなかったからな。
ここは俺が差配するのが筋なのだが、何せこの身体なので、フットワーク良く動きまわるというのがなかなか辛い。
半兵衛にこんなことを任すのは気が引けたが、「吉凶を占うのも軍師の仕事なれば、吉事であるお輿入れの手配もその一環」と言って快諾してくれた。
今は領内が土木工事ラッシュだし他に頼める人が居ないのも事実。
財政の切り盛りを兼久君に振る事が出来たので、半兵衛の仕事が少し減ったから頼めたという部分もあるが、俺以外で名の知れた武将は彼しかいないのだからな。
俺の名代として、小谷と岐阜と清洲の間を駆けずり回ってもらう事となった。
織田からの使者は桑山重勝という人で、丹羽長秀の与力だそうだ。
いちおうゲームにも登場する程には実力のある武将のようだ。
ゲームでは桑山重晴という名で出てくるが、それは後に改名した時の名のようだ。
彼も戦の準備で忙しい丹羽さんに代わって、お輿入れの準備を手伝わされているのだろう。
なんとも慌ただしい時期にお輿入れをする事になってしまったものだな。
本来なら戦を仕掛けるのは7月の予定だったから、もっと余裕があったはずなのだが、まあ将軍様に頼まれては断れないわな。
日程の希望としては、「5月20日から末日までの間の、佳き日」とだけある。
この辺の慣わしとして、お輿入れはそれこそ大名行列のごとく、何百人もの女中やら使用人やらと護衛の者を引き連れて、お市様は文字どおり輿に担がれ小谷城までゾロゾロと徒歩で向かう。
なので、行程だけで丸一日かかるので、天気が重要なのだ。
五月は五月晴れという言葉もあるように、晴れが多いイメージがあるが実は天候が不順な時期である。
梅雨を目前にして、ちょうど季節が入れ替わる時でもあるため、梅雨のように何日も雨が降り続く事もある。
つまり、一日晴れる日を選んで出発しなければならないのだ。
だから、その時になってみないと分からないので、実質5月20以降の晴れの日という事になる。
受け容れ側も、それを見越して、いつ来ても良いように待機しておく必要があるのだ。
聞いたところでは、浅井側は既に準備は整えてあり、5月1日からでも大丈夫なようにしてあるというので、こちらは問題は無さそうである。
ともかく、半兵衛に任せておけば大丈夫だろう。
そんなさなか、茂吉から気になる情報がもたらされた。
それによれば、大津市中で俺の事が噂になっているという。
それも悪い噂だ。
なんでも、大谷に捕まると奴隷にされるとか、若い娘は手込めにされた挙げ句売り飛ばされるとか、盗みや放火もし放題で、とんでもない乱暴者だとか言いたい放題である。
俺は女なんだから手込めにはしないだろうと、普通に考えれば分かりそうなものだが、もう明らかに六角による情報操作が行われているようだな。
これは俺が大津を狙っているという関白の情報操作に対抗する措置なのか、それとも単なる嫌がらせなのか。
ともすれば俺を歓迎するような動きが起きる事を牽制する狙いがあるのだろう。
まあ、甲賀衆が居るのだし、それぐらいのことはしてくるだろう。
問題は、それに比叡山も加担しているということだ。
その動きはちょっと、見逃せないな。
彼らとはあまり最初から敵対したく無かったのだが、俺が火薬の購入を断ったものだから、自分達に靡かないと判断して潰しに掛かるつもりのようだ。
お寺さんなのに、こういう政治的な動きを見せるから焼き討ちされちゃうんだよ。
まあ、元々は自分達の方が先に園城寺に対し打ち壊ししたり焼き討ちしてた訳だから、仏罰が当たったんじゃないかと思うけどね。
茂吉に相談したところ、すぐにそれを打ち消すような噂を流すのはむしろ逆効果で、噂が行き渡り、皆が忘れかけてきた頃に「本当は凄かった大谷吉子」という噂を流すのが良いという。
それが王道だというのは俺も分かる。
だが問題はいつ下火になるかだ。
はたしてあと二月あまりで、収まるだろうか。
敵は更に追加の情報もドンドンと流して、下火になるのを防ごうとするだろう。
疑心の炎が最高潮の時に攻め入るのはなかなかしんどい物があるよな。
だからといって下手な懐柔策は余計に疑心を招くので、ならばむしろこれを利用してはどうかと茂吉は提案してきた。
つまり、ひどい目に遭いたくなかったら、今のうちから“大谷吉子詣で”をしておけば許されると言って、神社のような物を作って、そこで免罪符になるような、例えばブロマイドを配って家に飾っておけば、ひどい目には遭わず、逆に御利益があるという噂を流す。
実際にその免罪符をもらった家には、施しをするなどして扱いを良くしておけば、全員に施しをバラ撒くより効果的だという。
いやぁ〜、そういう個人崇拝的なものには、もの凄く抵抗があるけど、この時代じゃそれもアリか。
明らかに宗教っぽい勧誘の仕方だが、入口はそれでも、その後きちんと近代的な教育を施せば、良い方向に向かうかも知れない。
何やら後々禍根を残しかねない、あまり良い策とは思えないが、時間も無い事だし、それで行くか。
茂吉にはGOサインを出して、ブロマイドの増刷を進めようとしていた時である。
悦子さんが、教育中の教員ら8名と前田玄以を伴って、再び訪れてきた。
なんだ?ついに直訴に来たか。
そうまでして?
と思ったが、どうやら当事者間で教育を開始する方針で意見が割れており、俺に意見を求めてきたようだ。
教師たちは領内一律に、5歳から10歳の子供たち全員に同時に教育を開始したいと思っているが、悦子さんと玄以さんは俺が指示したとおり、教師としてのスキルが水準に達した者から順次教育を開始するべきと思っている。
確かに理想を言えば、一律に開始するのが望ましいのだが、まだそこまでの体制が整っていないのが現実だ。
学校すらまだ無く、当該年齢の子供全員が教育を受ける義務があると定める法律も無い。
仮にすぐに学校を建てたとして、子供が通ってこなければ意味が無い。
法律で縛る事は出来ても、働き手を奪われた親たちの反感を買うばかりで、しかも、教育の効果が出るのは何年も先の話だ。
時間は掛かっても、体制を整える事が先であり、教師たちの熱情は理解出来るが、現実の厳しさに打ちのめされるのは多分彼らの方だろう。
ただ、教師たちの言うとおり、教育の始め方が難しいのも事実。
自分らに何の利益も無いのに、ただ昼飯代が浮くというだけで子供を学校に通わせようと思う親は居ないだろう。
ここでは残念ながら、子供の将来よりはまず親たちの現実が先なのだ。
働かせた方が金になるし、それが教育になると思っている者が大半だ。
これを覆さない限り、一律の教育はなかなか難しいだろうな。
そうだなぁ、ここでもこの免罪符を使うか。
いわゆるラジオ体操方式というか、ポイントシステムというか、授業を受けたらハンコをもらって、10日通ったら米一貫とか、そんなニンジンをぶら下げてやる必要があるだろうな。
そして、このブロマイドがある家庭には、税の優遇も受けられるようにしておこう。
教育をエサで釣るのは本当に良く無いことなのだが、まあ、出席簿代わりにもなるし、とっかかりとしては良い方法かも知れないな。
どこか空いている家を借りて、当面は2〜30人の少人数から始めてみるとするか。
とりわけ貧乏で、子供が多い地域が狙い目だろうな。
伊志原村あたりが候補地かな。
という感じで、領民教育の第一歩を周囲からせがまれる形でスタートさせた。
そうやって続けてみて、生徒が100人ぐらいになったら、校舎を建てて本格的に学校を始めるとしよう。
さて、大人しくしてろと言われたからといって、本当に引き籠もってしまうわけには行かない。
杉谷善住坊の狙撃を受けて、すっかり立ち消えになってしまった鰻の養殖プロジェクトを、もう一度再起動すべく、鰻漁をやっている漁師を交えて話をする事にした。
前にも書いたとおり、琵琶湖で漁をするには周辺の領主に断りを入れ、琵琶湖の対岸にあっても延暦寺の麓にある堅田の了解が必要となる。
養殖という前例の無い手法を、果たして彼らが理解出来るかは疑問だが、一応筋を通しておいた方が良いだろう。
日本において養殖が行われたのは江戸時代に鯉の養殖が行われたのが最初とされている。
貝類などは、もっと古くから行われていただろうが、泳ぎ回る魚を囲っておくのは大きな施設が必要となるし、なかなか大変だっただろうと思う。
鰻の養殖に至っては、本格的に始まったのは明治に入ってからだ。
鰻の生態は現代でも正確な事は分かっていないが、海で生まれた稚魚が川を遡上し淡水で育ち、再び海に戻って産卵する。
産卵場所が特定出来て無いため、卵からの完全養殖は未だに出来ないのだが、稚魚を放流して育てる手法は、当初から行われてきた。
比較的に生命力の強い魚なので、その川に根付いてしまえば放置しておいても勝手に育つ。
だが養殖業として成功させるには稚魚であるシラスウナギの確保がカギとなる。
大抵は孵化してすぐ、他の魚のエサとなり大幅に数を減らしてしまうので、卵から孵せれば一番良いのだが、残念ながらそれは現代に至っても出来ていない。
なので、川の河口などで待ち構えて網で捕らえるしか無い。
琵琶湖の鰻は多くは淀川からの遡上なので、河口は堺港の近くではある。
ただ、あの辺の漁業の実態が分からないからな。
今井さんに聞かないとダメだな。
兼久君は知ってるかな?と思い聞いてみると、やはり漁業の事は詳しくは知らないようだ。
だが、俺が鰻を稚魚から育てて産業にしたいと話すと、途端に目の色が変わった。
「それは絶対に儲かりますから、是非やりましょう!いや、やらせて下さい!」と、言うなり堺にスッ飛んで行った。
いやあ、凄まじい行動力だな。
なんか俺がつぶやくと、兼久君が実現してくれるみたいな、そんなドラ○もん的な感じになりつつあるな。
まあ、俺は楽で良いけど。
そんなドラ○もん的な存在のもう一人、鐵之助が珍しく俺を訪ねてきた。
かつて、何もする事が無い頃は意味不明な物を作っては俺に見せに来た時期があったが、最近は無限連発銃の生産に掛かり切りだったし、それでなくても俺が無理難題を押しつけるので、自分から何かを持ってくるということは全く無くなっていたのだ。
ふうむ、何か嫌な予感がするねぇ。
まさか、美紀さんに子供が出来たとか?
それは杞憂だったようだが、工房まで行かないと見れない物らしく、身重だし面倒くさいと思ったが、鐵之助の言う事なら疎かにしてはいられない。
わざわざ呼び出してまで見せたい物って何だろうと、期待半分、怖さ半分で工房までやって来た。
「こんなのが出来ちまったんだがよ」と、見せられた物は、俺の眼から見ても斜め上、この時代の人間からは理解不能の代物だった。
連弩の架台に乗せられたそれは、原形をほとんど留めていないが無限連発銃だったものだろう。
それを6丁筒状に束ね、その外周を取り巻くように、らせん状のダクトのような物が巻き付いている。
仕組みはちょっと変わっているが、間違いない。
ガトリングガンである。
その証拠に、回転させるためのハンドルが付いている。
給弾方式が謎だが、これがちゃんと作動するなら大変なことになるぞ。
聞けば、一応試し撃ちをしてみたらしい。
つまり、ちゃんと撃てたってことか。
単純に重力を使った給弾方式だが、薬莢は使わず、粒状の火薬をダクトを通して直接薬室に送り込む方式のようだ。
それと弾丸を別々に給弾して、薬室内で一緒にする、ある意味先祖返り的な仕組みだが、そのメカニズムを動作させる力が銃の反動を利用したものだった。
つまり、ブローバック方式である。
銃の反動で銃そのものが後退する動作を利用し、銃が後退しきった時に薬室が筒から露出するようにして、その瞬間に次弾を供給する方式のようだ。
薬莢や弾帯が銃に残ってると、こういう動作は逆に出来なくなる訳だ。
つまり撃った瞬間には、もう次弾は装塡されているのだが、一周回っているうちに、火薬を詰め直して、火縄から引火させる粉火薬を、最後に火穴に詰め込む動作を行っている。
そのために、らせん状の複雑なダクトが必要だったようだ。
この銃、というか巨大兵器の外見を特徴付けているもう一つの要素が、銃身付近が太い円筒状になっている事だ。
銃身を束ねた所をさらに覆うように筒を被せた形状になっている。
無限連発銃の問題として、銃身の冷却があったのだが、これはそれに対する一つの回答なのだろう。
昔の重機関銃を知っている方はピンと来ただろう。
そう、水冷方式だ。
この筒には水が入っているのだ。
やっちまったなぁ、コノヤロー!
もう、重さについては考えない方が良いだろう。
人力での移動はまず無理だし、馬車で牽引することが前提なのだが、イロイロと下準備が大変な兵器ではあるな。
野戦で使うには、かなり多くのハードルをクリアしないとならないだろう。
その苦労に見合う実力があるなら良いが。
だが、その実演を実際に見て、兼久君をすぐに呼び戻さなくては、と思った。
なにせ、火薬と鉛玉が尋常じゃ無い量が必要になるからな。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
鐵之助がまたやった!
普通なら家老確定だけど、民主主義なので平のままですww
引き続きお付き合いのほどよろしくお願いいたします。




