51.領主館客室にて
わざとライムントを煽るような傲慢な態度を取ったフリーダは、何事も無かったように宴席でパクパクとご馳走を平らげ続けた。細い体の何処にそんなに入るのかと、少し下がった場所から驚きを込めて観察してしまう。それくらい天晴な食べっぷりだった。
すっかり満足した後には戸惑いオロオロしている従僕を呼び寄せ、漸く用意された客室への案内を頼む事にしたようだ。マクシミリアンは彼女の後に続き客室に辿り着いた後、迷った末王都から彼女に付き添って来たらしいもう一人の護衛に言伝を頼む事にした。主であるフリーダの行状について、マクシミリアンよりもっと距離のある壁際の位置からではあるが、一部始終眺めていた彼は全て承知したと言うようにしっかりと頷いてその指令を果たす為に立ち去ったのだった。
客室には応接室があり、奥の扉を開けると寝室。それから手前の扉には浴室と手洗場も一つずつ備え付けられていると言う申し分ない造りだった。フリーダにソファで待機して貰い、手早く各個室の点検を済ませる。暫くすると遣いを頼んだ護衛が、フリーダの荷物を携えて戻って来た。
「それだけですか?」
荷物の少なさに思わず声が出る。今をときめく王太子妃候補の一人、エッガース侯爵家の御令嬢にしては少なすぎる。王都からここまでは長旅であったし、これからの滞在を考えてもあり得ない少なさだ。大きなトランクと小さなトランクが一つずつ、王立騎士団の平騎士並みの荷物量である。
「荷物の事?ああ、半分は仕事道具よ」
「着替えのドレスとか……そんな小さいトランクに収まるんですか?」
姉の御伴を散々させられたマクシミリアンであるからこそ、驚かずにはいられなかった。
「替えの制服が一着、羽織物の他数点あれば十分よ。洗って干せば良いのだし」
言葉を失うマクシミリアンにフリーダは薄い笑みを見せた。と言っても冷笑と言う方が相応しいようなせせら笑いだったが。
「政治に少しでも興味のある貴族なら……私がエッガース侯爵の庶子で、一時期市井に近い場所で暮らしていた事くらい、ご存知の筈だけれど」
庶子。なるほど、無意識に嗅ぎ取っていた違和感はそれだったのか、とマクシミリアンは納得する。同じ侯爵令嬢である従妹、レオノーラでさえもう少し令嬢らしい部分がある、と自然に比べてしまう理由が分かった。かしづかれ慣れた令嬢特有のおっとりした仕草とか、浮世離れした発言はフリーダには全く見られなかった。学院で教育を受けた文官とは言え、そう言った育ちは滲み出る物だ。勿論彼女の所作は完璧に美しいし、姿勢も食事の作法も申し分ない優雅さを兼ね備えていたのに。だから違和感を抱いたのだ。
現実的と表現した方が適切だろうか?例えばレオノーラを例に挙げると、農業などの得意分野に関して言うならばフリーダよりずっと細かい事情や価格などを把握しているのだろう。彼女はそう言った部分の専門家である。最近数年は薬草や畑そのものではなく、農作物の流通に関しても手を広げているから、関連する商品の価格にも詳しくはなったようだ。
けれどもそれ以外、そう、フリーダが即座に指摘したような踊り子や楽団と言った世事になるとからきしだった。箱入りの所為か政治にも他人にも興味が無い。これは本人の特性であるかもしれないが、そのままでいられると言う事はつまり、興味を持つ必要が無いのと同義だ。―――現宰相の地位は盤石、跡継ぎの兄も有能でアンガーマン家の権勢に揺るぎは無い。嫁したバルツァー家の祖父は将軍職も務めた経験のある高名な退役軍人、義父は文官として活躍し、夫であるクロイツは近衛騎士、しかも王太子の側近と言う出世頭。その上勿体無くも彼女の仕事環境に多大な理解を示して、その他の雑事を全て取り上げると言った甘やかしようだ。浮世離れし続ける事ができるのは周りの環境がそれを許しているからだ。
一方同じ仕事人間と言っても、切れ味の鋭い抜き身の刃のような空気と言葉を放つフリーダがそのようである理由の一端が分かった。常に神経を尖らせて立場を守らなければならない立ち位置に居たからこそ、なのだろう。
(これは一筋縄では行かない筈だな)
なら、何故あんな苛烈な表現を使ったのだろう?と訝しむ。そのような育ちであれば、貴族の、しかも血統にしか寄る辺がない男のプライドをへし折る事が、如何に危険なのかと言う事を否でも把握している筈だ。世間知らずのご令嬢の失言であれば、まだ理解できたものを。
「では何故あのような……」
「納得いかないって表情ね」
フリーダはひっつめ髪を纏めた櫛を、片手でサッと抜き去った。すると真っ赤な髪がバサリと肩に落ちる。櫛をテーブルに置きソファから立ち上がる。そして斜に構えたままいなしていたマクシミリアンに真正面から向き直り、口角を二ィと上げたのだ。
彼はギクリとした。眼鏡を外し、その燃えるような赤茶色の瞳でマクシミリアンを見据えるフリーダが、別人のように妖艶な雰囲気を纏ったからだ。
ゆっくりと彼女はマクシミリアンの前に歩み寄り、眼鏡を持たない左手を伸ばす。マクシミリアンの肩に手を伸ばし、目を細めた。背の高い彼女と、最近少し伸びつつあるとは言っても平均より少し背が高い程度のマクシミリアンの瞳の高さは近い。彼女が少し伸び上がっただけで、赤い瞳に飲み込まれそうな錯覚を覚えた。
フリーダはニンマリと笑うと、眼鏡を持った腕をマクシミリアンの首にまわし、鼻先が触れるほどの距離に顔を近づけて呟いた。
「何があっても守ってくれるんでしょう、コリント家の秘蔵っ子さん?政治に疎い分、剣術の腕は超一流だって言う噂を、証明してくださる?」
「貴女は―――」
咄嗟に問いかけようとした言葉を飲み込んだ。ここはいわば敵の懐で、ライムントが用意した客室であるのだから誰が聞き耳を立てているか分からない。だからこそこの距離で彼女は囁いたのだと、気が付いたからだ。ただ、その意図を計りかねていたのは自分だけでは無いらしい。扉を背にして控えていた、サラリとした黒髪を靡かせた護衛が一瞬足を踏み出そうとして、堪えた様子が目の端に映ったから。
彼女はクスリと笑うと、次の瞬間サッと身を引いた。それから如何にも楽しそうにこう言い放ったのだ。
「旅の疲れを落としたいわ。一緒に湯屋に行くつもりなら、このまま突っ立っていても構わないけど?」
「……は、失礼しました。扉の前に控えておりますので、何かあればお声を掛けてください」
護衛としての態度を取り繕い、冷や汗を拭いもせずに頭を下げた。彼女はそれには答えず、すっかりマクシミリアンなどには興味を失くしたと言わんばかりにスタスタと浴室の方へ歩き出したのだった。毒気を抜かれ一瞬固まったマクシミリアンだが、直ぐに自分を取り戻し黒髪の護衛と視線を合わせて、素早く扉の外へと下がったのだった。