32.後悔先に立たず
「さいあく……さいあくよ……」
クラリッサは自室のベッドに体を沈めて呻いていた。
ゲゼル邸のバルコニーからマクシミリアンに背を向けて逃げ出した後、カーを探し出し「もう帰りたいの……!」と訴えた。そのまま独り夜会を飛び出し、馬車に乗り込んだのだ。
カーはまるで何もかも承知している、とでも言いたげな薄い微笑みを湛えて、少し瞳を潤ませて俯くクラリッサの頬に―――口付けを落とした。
「ゆっくり、お休み。ゲゼル侯爵とアロイスには俺から挨拶をしておくから」
「ありがとう、お兄様。あの……」
「ん?」
「バルコニーに、その……マクシミリアンを置いてきぼりにしてしまったの。お兄様が私の相手をわざわざ彼に頼んでくれたと言うのに」
「ああ……マックスが何か失礼な事でも、言って来たのかい?」
何でも無いような調子で、問いかけるカーにクラリッサは首を振った。
「違うの……私が……っ。―――ううん、ただ具合が悪くなっただけ。それでロクな説明もしないで出て来ちゃったから。マックスは侍医を呼ぼうかって心配してくれたのに」
「……さっそくヘタレたか……」
「え……?」
ボソリと低い声で呟くカーの言葉が聞き取れず、クラリッサは聞き返した。
するとカーは薔薇の蕾が綻ぶような微笑みを湛え、麗しい妹の頬にスルッと手を伸ばした。
「何でもないよ。マックスには俺がちゃーんと話を付けとくから、心配しないで帰りな。顔色が悪い、早く屋敷で休んだ方がいい……」
「お兄様、最近優しい……」
すると銀色にけぶる瞳を僅かに大きく見開いて、クラリッサは思わず呟いたのだ。
「惚れ直した?」
ニコリと微笑む薔薇の騎士に、クラリッサは真顔で首を振った。
「ううん、何だか―――少し気味が悪いわ」
「プっ」
カーは噴き出して、クラリッサの頬をむにっと摘まんだ。
「それでこそ、勝気で高慢な我が妹だよ。クラリッサ!さあ、ここは『気味が悪いくらい優しい』お兄様に任せて、馬車で帰りなさい」
「……ふあい……」
頬を摘ままれたまま、クラリッサは頷いたのだ。
頷いて馬車に飛び込み、自室へ帰って来たものの……侍女の手でドレスと装飾を剥ぎ取られ、お湯につかりすっかり余計な物を落として夜着に着替えたクラリッサは―――そこで我に返り、ボスン!とベッドにうつ伏せに飛び込んだのだ。
そのままボスボスボスッ……と、衝動に任せて緩く握った拳を叩きつける。
決して人前ではそのような姿を晒す事が無いクラリッサだ。人前でなくとも、ほとんどそんな行動を取る事は無かったのに―――今日は何だか色々な物が胸の奥に込み上げて来てしまって、全く制御がきかない。
何故あんな態度を取ってしまったのか?
嫉妬する権利も無いのに嫉妬し―――結果、八つ当たり。
「さいあく……最悪よお~~」
このモヤモヤした心の内をどう整理したら良いのだろう……?
「ひょっとしてペトロネラなら……いえ、駄目よ」
どの面下げて。
明らかにマクシミリアンに恋情を向けている彼女に、自分の心の内を打ち明けて、今後マクシミリアンにどう接したら良いかなんて―――尋ねる事ができるものか。
けれどもあんなおかしな態度を取って置いて―――今更どうやって謝れば良いのだろうか。
友人でさえいられなくなったら―――好きでも何でも無い、尊敬も出来そうもないアロイスと婚姻関係を結ぶなんて全く意味が無くなってしまう。いや、政略的な意味合いはあるのだろうし、祖父の気持ちを汲む事はできる。でも―――それなら、マクシミリアンと友人関係さえ維持できないなら、全く知らない相手と結婚した方がまだきっと、ずうっとマシな筈だ!
そう、いっそ王都を離れて―――辺境の領地に嫁いだ方が良いのではないか。そうすれば、マクシミリアンの事を思って悶々とする事も無く、ただ嫁いだ相手に尽くす事に専念する事ができるのに……。
ああ、戻りたい。
クラリッサの胸に、美しく澄み渡った泉が蘇った。
あの無邪気に笑い合った頃に戻れたら良いのに。まだあの頃は。不穏な未来を予想してはいても、明るく彼と目を見交わして笑い合う事が出来た。
『また何度でも。また来ましょう』
―――彼は確かにそう約束してくれたのに。
「そうだ……」
クラリッサは泉の前でバスケットを抱えてチョコンと立っている……茶色い瞳の、無表情で冷静な彼女を思い出した。
レオノーラに相談してみよう。
彼女は未だにマクシミリアンの想い人かもしれない。
それでも―――子供の頃から一緒に育ったと言う彼女なら。マクシミリアンについてよく知っている彼女なら、クラリッサがマクシミリアンとまた元の関係に戻るためにどうしたら良いか、淡々と的確な助言を与えてくれるかもしれない。
藁にも縋る思いだった。
クラリッサはこうして、かつての恋敵である……レオノーラ=バルツァーのもとを訪ねる事を決意したのであった。




