2.泉の伝説
「それにしても綺麗な泉ですね。水底までクッキリ見えて何だか神聖な気持ちになります」
後片付けをし、荷物を纏める作業を護衛達に託した後、クラリッサは泉のほとりに立って名残惜し気に水面を眺めていた。
「シュバルツ国七大名泉の一つです」
「何それ……初めて聞いたんだけど」
レオノーラの説明に、マクシミリアンがすかさず問いかける。この泉に慣れ親しんだ彼にもなじみの無い情報だった。
「マルグレーブ学院長と私で選定しました。透明度、植生、水質、水生動物の種類と生息数、地域への貢献度……などを基準にしています」
「この泉はどういう特徴があるんですか?」
クラリッサが尋ねると、レオノーラは背の高い彼女を見上げて微笑んだ。
「透明度と水質も素晴らしいですが―――何よりも植生でしょうか。ピトヒロが生育できるのは特に清涼で濁りの無い水の湧く場所に限られていますから。……それと、この泉には素晴らしい伝説があるんです」
クラリッサは少し目を見開いて、興味深げに背の低い教師の瞳を覗き込んだ。
マクシミリアンは物語や演劇に全く興味を示さないレオノーラが『伝説』などと言うドラマティックな物を評価するなんて、珍しい事があるものだと思った。新婚生活で少しは情緒に変化が見られるようになったのだろうか……従妹も随分人間らしくなったものだと、感心しつつ、尋ねる。
「どんな伝説なんだ?」
従兄が先を促すとコホンと一つ咳をして、重々しく教師レオノーラ=アンガーマンが口を開いた。
「……病に掛かった恋人の為、若い娘が毎日泉に浸かり泉の神様にお祈りを捧げました。泉の神様は娘の祈りを聞き届け―――ピトヒロの苗を娘に託しました。娘は泉のほとりに苗を植え―――やがてピトヒロはこの泉周辺に群生するようになりました。ピトヒロを収穫して恋人に毎日食べさせると、次第に恋人は丈夫になって行き、すっかり元気になりました」
「素敵ですね」
「アイテムがあの薬草じゃなければもっと、素晴らしく聞こえるんだがなぁ」
クラリッサは素直に感想を言い、ピトヒロの匂いを大の苦手とするマクシミリアンは溜息交じりにコメントした。
「大事なのはピトヒロの苗を何者かが授けた……と言う所です。現実にピトヒロは元々この地に根付いていたのではなく、誰かが持ち込んだ種によってある時から群生するようになったらしいのです。アンガーマン家の資料と照らし合わせて判明しました」
「あの……とっても気になるのですがその後、恋人同士の二人はどうなったのですか?」
クラリッサがウズウズした様子で問いかけると、レオノーラは首を傾げた。
マクシミリアンには仕草の理由にすぐに思い当たり、クラリッサに補足する。
「レオナは興味の無い事に関する記憶力が極端に低下するんです。色恋事には特に疎くて記憶が途切れているのだと思います……スイマセン」
すると不満気な様子で、レオノーラが挑戦的に従兄を見上げた。
「マックス、私も最近少しはそう言った事に詳しくなって来たんですよ……?人妻を舐めないでください!……ちょっと待ってください、えーと……」
「『人妻』って……!実際、覚えてねーじゃん」
マクシミリアンが笑いながら突っ込みを入れると、クラリッサもつられたように笑った。
暫くそうして二人が笑い合っている横で、眉を顰め記憶の倉庫を探っていたレオノーラがポンッと掌を拳で叩いた。
「あ!そうです!思い出しました―――恋人は元気を取り戻した後、免除されていた軍役を背負わされてそのまま戦争に行ってしまったそうです」
「ええー……」
「まぁ……」
思いも寄らない悲しい結果にマクシミリアンは少し引き気味に声を上げ、クラリッサは肩を落とした。
「なんかエグイ結果だな」
「そうですか?エピソードに現実味があって、伝説の信憑性が高くなるから良いと思いますが……実際に起こった事を下敷きにしているのかもしれません。それほど素晴らしい薬効がピトヒロにはあるのだと伝説は強調しているんです。病気で臥せっていた男性が従軍出来る程度までに回復したのですから。だから一部巷では―――ピトヒロを若い男性に食べさせるのは縁起が悪いと、言われていたりもします」
「縁起が良くても、食べたくないけどな」
「うーん、ちょっと匂いが独特ですよね」
「でも慣れると病みつきになるんですよ。だから『若い男性に食べさせない』と言うのは、後からのこじつけじゃないかって説もあるんです。沢山食べる若い男性に食べさせてしまってはすぐに無くなってしまうので、彼等を締め出して家にいる女性と年寄りで美味しい貴重な珍味を分けて食べる為に考え付いた方便では無いのかと」
レオノーラの説明に耳を傾けていたクラリッサが、少し表情を硬くしてポツリと呟くように声を発した。
「……この物語は結局悲恋で終わってしまうんですね。本当にあった事だとしたら―――恋人を元気にしようと頑張った女性が気の毒ですね。結局自分の所為で二人は離れ離れになってしまうのですから」
「うーん、そうですか……なるほど。そう言う見方もあるんですね」
クラリッサの反応を珍しがるレオノーラに、マクシミリアンは呆れた。
普通の女性ならクラリッサのように悲恋の方に反応を示すのが、当たり前だと思ったからだ。苦手なピトヒロの植生とか発生起源などマクシミリアンにとってどうでも良いことだったから、尚更そう思った。
「植生に関係しないお話だったので詳しく記憶していないんですが、伝説の物語自体には続きがあるんですよね……。最後はどうなったんでしたっけ……?うーん……」
レオノーラは腕を組んで少し思案したが、諦めた。そして少し話題を方向転換する。
「あ!そうそう話は変わりますが、確か平民の若い娘さん達の間でもこの伝説は有名なんですよ。中には恋愛成就を願ってこっそり泉に浸かる人もいるそうです。それから、失恋した乙女が水底に沈んでいると言う噂もあって……」
「ええ?!」
「本当ですか?」
「いえ、死体の件は眉唾です。第一この泉の特徴である素晴らしい透明度で―――水底の物は全て見えてしまうのですから、女性が沈んでいればすぐ発見されると思うんです。周辺の山の管理をお願いしているインメル家の方々が、定期的に巡回していますので」
「恋愛成就のために泉に浸かる人間がいるって事自体は事実なのか?」
「そうですね、毎年何人か監視の目を盗んで実行しているようです。毎年一~二名インメル家から報告が上がります。彼等に見つかってない案件もあるかもしれないので実際はもう少し多いのかもしれませんけれど―――あら?また気温が下がったようですね。そろそろ帰りましょうか」
頬を撫でる風が更に冷たさを増したのに気が付いて、レオノーラは馬を纏めている護衛の方に視線を移した。すっかり準備は終わっているようだ。
レオノーラがそちらの方へ歩み出したので、マクシミリアンも自分の馬の元に行こうとして―――クラリッサがジッと水面を見つめているのに気が付き、立ち止まった。
「……クラリッサ?」
声を掛けると彼女は振り向いた。
「どうしました?」
そして言葉も発せず、彼女は問いかけるマクシミリアンの顔を見つめる。
憂いのある表情にドキリとして、マクシミリアンは微かに動揺した。アドラー家の至宝と呼ばれる美貌、銀の髪に銀色の目の―――特別な女性にそんな風に見られて落ち着いていられる男性が何人この世にいるだろうか、とふと考えた。多分全員今のマクシミリアンのように慌てるだろう事は、間違いない。
長い時間に思えたが、ほんの数秒だったかもしれない。
やがて銀色の睫毛をそっと伏せ、クラリッサが首を振ると―――その場の妙に甘やかな均衡が破れた。
「何でも無いわ―――本当に素敵な場所だな、と思っただけ。……また来たいわ。マックス、また連れて来てくれる?」
ホッとして、マクシミリアンは力強く頷いた。
「ええ、何度でも。―――また来ましょう」
「約束ね」
「はい」
ふわりと笑う儚げな表情が胸に痛かった。
一体いつまで、こうして傍にいる事を許して貰えるだろうか―――と美しい公爵令嬢の微笑みを胸に焼き付けながら、マクシミリアンは思ったのだった。