19.彼の告白
涙で顔を濡らしていても、ペトロネラの愛らしさは欠片も削られる事は無い。
見上げる瞳から涙が溢れてツーっと頬を伝い、マクシミリアンの心臓に痛みが走った。
「ペトロネラ様……俺は……」
いつかそんな未来があるかもしれない、と考えなかった訳では無い。
このまま彼女のエスコートを続けて……例えば見習いを卒業して一人前の騎士になったら。そしてそれまでに彼女に別の縁談が持ち上がらなければ。―――その時既にクラリッサが、どこぞの身分の高い男の元に嫁いでしまった後であったなら……マクシミリアンが花束を持ってペトロネラの前に跪き、求婚する未来もあったかもしれない。
そんなイメージが全く頭に浮かばなかったと言ったら嘘になる。
現に胸の中に飛び込んできた華奢な体を―――無意識に抱き取りそうになってしまった。寸前の所で堪えたとしても、その衝動が身の内に生まれた事実を無かった事には出来ない。
金髪のペトロネラが頬を染めて微笑む様子は大層愛らしい。そんな彼女が涙を流してこんな風に健気な様子を見せたなら―――大抵の男は彼女に落ちてしまうだろう。
けれども。
既にペトロネラは―――単に『可愛らしい女性』と言う定義を超えて、マクシミリアンにとって大事な存在になってしまっていた。
一緒に踊り小さな失敗を笑って、打ち明け話が出来るくらいに―――彼女と心を通わせてしまったのだ。
心に刺さった棘を誤魔化して、上っ面だけで微笑み合う関係にはもう戻れない。
彼女は捨て身で自分に挑んでくれた。
きっと見なかった振りをする方が―――自分の利益になると分かっていた筈なのに。
マクシミリアンは一瞬キュッと瞼を閉じ―――その瞼の裏に浮かんだ美しい面影から目を逸らすのを止める事にした。
そして再び瞼をゆっくりと開き、目の前の勇敢な女性をまっすぐに見つめた。
「俺は、クラリッサ様が好きです。友人としてでは無く―――一人の女性として」
彼が伝えた言葉が空気を伝って彼女の鼓膜に届いた途端、そこから直接涙腺に振動が伝わって張り詰めていた薄い堰を決壊させてしまった。
ブワッと碧い二つの瞳から更に涙が溢れだす。
「やっと、言った……」
「……ペトロネラ様、申し訳ありません」
ペトロネラはマクシミリアンの胸に縋りついていた手を下ろし、顔を覆って俯いた。
マクシミリアンはいつものように気軽に肩を叩く事も出来ず、嗚咽を漏らす小柄な少女の肩が震えるのをただ、見守っていた。
こんな風に誰かが泣くのを、傍で見守っていた経験がある。
彼女は失った恋を洗い流すように声を殺して泣いていた。
その様子を邪な気持ちで見守っていた自分を―――彼の兄以上の外道かもしれない、と思った。
マクシミリアンは確かにペトロネラに好意を持っている。
けれども泣き顔に興奮してしまうほど―――強烈に彼を惹き付けるのは、あの銀色の髪の少女しかいない。
傲慢で尊大で我儘で、なのにマクシミリアンの下らない話にお腹を抱えて笑ったりする気さくな部分もあって。―――弱くて優しくて、無謀な恋にも突進してしまう……まっすぐな女の子。
「ペトロネラ様、本当にすみません。俺……」
謝るべきことは山ほどあった。
クラリッサに心を残しながら、中途半端に親しくなった。ペトロネラの微笑みや優しい気遣いに癒されるばかりで、マクシミリアンは彼女に対して何も返していない。そして致命的なのは―――自分が夢中になっている女性の縁談相手の粗探しを、頼もうとさえした事だ。彼女の気持ちに気付かなかったとは言え……無神経にも程がある。
「……謝らないでください……っ」
手の甲で涙を拭い、化粧が崩れた顔を彼女は晒してマクシミリアンを睨みつけた。
その真っ赤になった目を見て、彼の胸はズキリと痛む。
「これ以上私を惨めにしないで……!」
ドンッと胸を突かれてマクシミリアンは思わずよろめいた。
本当は避ける事も耐える事も出来る。けれどもペトロネラが自分に向ける怒りを、全て受け止めたいと思ったのだ。
次には小さな拳が叩き付けられた。鍛錬したマクシミリアンの胸の皮膚を朱くする事もできないような非力な拳だ。彼女の精一杯の怒りさえ、自分に傷一つ付けられないと思うと、胸が締め付けられるように苦しくなった。
こんなか弱い女性の心を傷つけた事が恥ずかしい―――そんな自分をもっと罰して貰いたいとさえ思った。
ドン、ドンと続けて叩かれた拍子に、後ろへ引いた足が何かに引っ掛かった。バランスを崩してドサリと尻餅を付く。その胸倉に掴みかかっていたペトロネラも一緒に倒れ込んでしまい、折り重なって倒れそうになる腰を咄嗟に受け止めた。
その時一瞬、目を瞑ったマクシミリアンの額に。
ヒタリと柔らかく冷たいものが押し付けられた。
驚いて目を見開くと―――ペトロネラが彼に覆いかぶさるようにして、怒ったような泣き出しそうな複雑な表情で見下ろしていた。
ほんの数秒。二人の視線が絡み合う。
それから彼女は視線をフイっと逸らし、彼の胸を強く押して一人で立ち上がった。そして尻餅を付いたまま呆けたように彼女を見上げるマクシミリアンを冷たく見下ろして、こう言った。
「もう無理にエスコートしてくださらなくって結構よ―――さようなら、マクシミリアン様」
そう言って目を朱くしたまま、ニコリと笑い掛けると―――彼女は踵を返して、その場を立ち去るべく歩き出した。
マクシミリアンは尻餅を付いたまま―――その毅然とした後ろ姿を暫くの間ボンヤリと見送ったのだった。