13.心ここにあらず
カランっ……。
マクシミリアンが弾いた剣が音を立てて道場の床に落ちた。
「あっ……」
久し振りに練習生がいる時間に道場に顔を出した彼は、トビアスと手合わせをしていた。彼は声を上げると、床に転がる練習用の摸擬剣を拾い上げようしている。その動作が若干緩慢に見えて、マクシミリアンは目を眇めた。
「トビアス」
普段は出さない低い声で、弟子入りした金髪の学院生の名を呼んだ。
「今日は帰れ。心ここにあらずじゃ、何も身に付かない」
摸擬剣を手にし、振り返ったトビアスの顔は蒼ざめていた。
「でも、俺……」
マクシミリアンは剣を持たない右手を腰に当て、溜息を吐いた。彼の利き手は右手だが、実力差の大きいトビアス相手には左手で対応する事にしている。この頃腕を上げた生意気盛りの金髪小僧相手に、そろそろ利き手で相対しても良いか……と考え始めた矢先のボンヤリに、何か不調を抱えているのだと直観したのだ。
「怪我したら元も子も無いだろ?自分を見極める目を持つ事も大事な訓練だと思えよ」
「自分を……見極める……」
木偶の棒のようにマクシミリアンの台詞を繰り返し空を見つめる様子に、やはり只事では無い雰囲気を感じる。二人が手合わせしていた道場の一角で演武のおさらいをしていたファイトも、トビアスの異変に手を止めて駆け寄って来た。
「どうした?トビアス」
トビアスはファイトと目を合わせてから、それには答えずにゆっくりと俯く。ファイトがマクシミリアンに視線だけで問いかけると、彼はただ肩を竦めて苦笑した。
そう言えば、とファイトは気付く。昼間食堂で顔を合わせた時もトビアスの様子が僅かにおかしいと思ったのだ。
「お前学院でも何か変だったな?……そうだ、昼飯半分残してたよな」
トビアスもファイトも競うように鍛錬を続けているから、お代わりを要求する事はあっても出された食事を残す事は滅多に無かった。トビアスが食べられないのは、ヒューン地方名産の虫の佃煮くらいだと、ファイトは承知している。昔は好き嫌いが激しかったらしいが、道場に通い満遍なく色々な食材を摂取するよう指導を受けて以来、彼は好き嫌いを無くすよう心掛けるようになったようだ。苦手な物もほとんどなくなったと聞いているのに。
「腹の具合でも悪いのか?なら屋敷でハーブティー、飲んで行けよ」
見習い騎士となってから時間の都合がつかない為、子供クラスの受け持ちを外して貰った。だからマクシミリアンが見ているのはファイトとトビアス、そのほか数人の学院生のみである。今日はこの二人以外顔を見せていないので、三人一緒に抜ける分には問題ない。
返事もしないトビアスを、ファイトとマクシミリアンは道場から引きずるようにして、母屋へ連行したのだった。
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柑橘系の淡い香りが漂う。コリント家の敷地内にはマグノリアが林立する森がある。その花弁を用いて作るハーブティーは、胃腸の調子を整える効果があると言われている。些細なものなら、コリント家の住人は皆これで不調を解消して来た。
「トビアス、何かあったのか?」
マクシミリアンが尋ね、ファイトも兄のクロイツに似た碧い瞳でトビアスの榛色の瞳を覗き込んだ。もともと年の割に成長が早かったトビアスは、学年で十番以内に入るほど体格が良い。童顔気味のマクシミリアンと並ぶとどちらが成人した見習い騎士なのか、迷う者もいるだろう。
そんな比較的しっかりとした体格の金髪の青年(に見える少年)が、悄然と両手でカップを抱えて俯いている。
「昨日の小テスト、そんなに悪かったのか?」
トビアスが苦手とする農地経営学の小テストが本日返却されたらしい。ファイトの台詞にマクシミリアンもつい共感を覚えてしまう。ちなみに農地経営学は必修科目でマクシミリアンの従妹のレオノーラが担当講師となっている。マクシミリアンにとってもそれは苦手科目であり、赤点の穴埋めのため園芸部へ強制入部させられた経験がある。他人事とは思えなかった。
心配そうに覗き込む二人の視線に、とうとうトビアスも観念したように頭を振った。
「―――実は昨日屋敷から呼び出しを受けたんだ」
道場では敬語を使うようになったが、基本身分第一主義のトビアスはマクシミリアンにもタメ口だ。ファイトも道場外でその辺りを注意するのはもう諦めつつある。
「ゲゼル侯爵から?」
「ああ。呼び出されて開口一番告げられたよ。―――アドラー家と進める予定だった縁談を、取り止めると」
「アドラー家……祖父同士が勧めていたと言う、クラリッサとの縁談をか?」
マクシミリアンはそれを聞いて複雑な思いを抱いた。
クラリッサからゲゼル家が手を引くと言う知らせは、彼女に恋する男としては正直言って朗報だが―――トビアスがクラリッサに好意を抱いている事は誰の目にも明らかで、今彼はクラリッサに相応しい男になるべく、日々の鍛錬や勉強に勤しんでいる。メキメキと頭角を現しつつある矢先の決定にショックを受けている彼の前で喜ぶ気には到底なれなかった。
「そうだ―――俺は婚約者候補から外されたんだ。代わりに兄とクラリッサの縁談が持ち上がっているらしい」
ベルンシュタイン邸のバルコニーに現れた、目の前の金髪小僧の面影を宿す傲慢な男が頭に浮かんだ。一気に不愉快な気分に見舞われ、マクシミリアンはつい眉を顰めてしまう。
「は?まさか。アイツ―――いや、お前の『兄上殿』はヴァルドール伯爵家のご令嬢と婚約済みなのだろう?」
あの時は婚約者をエスコートしていた筈だ……マクシミリアンはアロイスの腕にしがみついたご令嬢を思い起こしていた。
「それが近いうちに解消されると……言われたんだ。何でも婚約者のレルシュ嬢に婚姻を結べない深刻な事情ができてヴァルドール家側から婚約解消の申し出があったらしい」
ざわりと騒ぐ胸の内を押さえて息を呑んだマクシミリアンの気持ちを代弁するように、ファイトが頓狂な声を上げた。
「はあぁ?!じゃあ婚約が駄目になったからと言って、あの『アドラー家の至宝』と言われるクラリッサ様を『兄上』様に横取りされたって事か……?それってトビアスに酷過ぎるし、何よりクラリッサ様に対しても失礼じゃないか!」