12.婚約者候補
ダウム邸の茶会から暫くして、女学院寮にアドラー公爵から馬車が差し向けられた。公爵邸は王都でも王宮に程近い瀟洒な邸宅が立ち並ぶ地区に位置している。女学院が存在する文教地区もその区域に接して設けられているため、徒歩でも余裕で移動できる距離ではあるがクラリッサのような公爵令嬢が気楽に外を歩けるものでは無い。
午前中に文での知らせを受けて、事前に侍女に指示していたので帰舎後すぐに馬車に乗り込む事が出来た。明日から二日続けて休みとなっているが、トルデリーゼに付き合って衣装を誂えたり彼女の指示で茶会へ参加したりと多忙な日々を過ごしたクラリッサは休みの間に幾つか課題を片付けたいと考えていた。最終学年として自治会長にも任ぜられており、運営に関する資料に目も通さなければならない。
しかし貴族院の議長を務めるアドラー公爵が多忙な政務の合間を縫って連絡して来たのだ、クラリッサに断る選択肢は無い。何より最近ほとんど顔を合わせていない、温和な父と会える貴重な機会を彼女が不意にする訳は無かった。
クラリッサが到着すると、すぐに家令のマルコに応接室へ誘導された。
「ただいま戻りました」
アドラー公爵と夫人のトルデリーゼが並んでソファセットに腰掛けていた。クラリッサはゆったりとドレスの裾を摘まんで挨拶をし、促されるまま向かいのソファに腰掛けた。
「急な呼び出しで驚いただろう?学院の方は大丈夫か?」
アドラー公爵が目を細めてクラリッサに尋ねた。愛娘に久し振りに会えて、自然と彼の眉尻も下がる。考えに幼い所があった愛らしい末の娘が、近頃大層落ち着いて来て匂うように美しくなったと社交界で評判になっているのを漏れ聞いている。あながち噂も言い過ぎでは無いと、親馬鹿にも実感している処だった。
「はい、順調です。幾つか前倒しで手を付けて置こうと思っていた案件があっただけですので大丈夫です。お父様に久しぶりにお会いする方が私には優先事項ですわ。お忙しいようですが、体調にお変りはありませんか?」
「ああ心配ない。ところで早速要件に入っていいか?」
「はい」
「ゲゼル家の婚約者候補の事なんだが―――」
クラリッサは息を呑んだ。
覚悟は決まっていた。いつまでも我儘を通し続ける事が無理だと言う事も知っていた。
彼女が女学院を卒業するまで残り一年も無い。卒業後直ぐに婚約を発表するならもうそろそろ相手を決定しなければならない。贅沢にも選ぶ余地を与えられていると言うのに、クラリッサはこれまで明確に婚約相手を選択していない。選んでしまえばとんとん拍子に婚約式まで決められてしまうのは目に見えていた。だから彼女にとって有力な婚約者候補はゲゼル家の次男、トビアス以外にいないのだ。そろそろ本格的に準備を進めるために『婚約者候補』から『候補』を外す事を両家が話し合ったとしても早すぎる事は無い。
(とうとう……)
クラリッサは父の通達を聞き入れるため目を閉じて、息を吐いた。
近頃トビアスはすっかり落ち着いて、子供っぽい意地悪を言わなくなった。もともと昔なじみで気の置けない関係だ。身分も釣り合うし少し年下ではあるが、年齢を重ねれば気にならなくなるだろう。話をした事も無い相手に嫁ぐよりはずっとマシな筈だ。なによりトビアスはクラリッサを憎からず思っている。今まで態度が分かり難くて彼女には全く伝わっていなかったが。
「……あちらの当主から新たな提案を受けた。トビアスでは無く嫡男のアロイスとの縁談を進めてくれないかと」
パチリと瞼を開き、クラリッサはアドラー公爵の表情に見入った。
静かで穏やかなその表情には、動揺は一欠片も浮かんではいない。胸のざわめきを抑え、彼女は公爵の隣に腰掛けるトルデリーゼに問いかけるような視線を向けた。
すると彼女は冷たい美貌を僅かに綻ばせ、頷いた。
どうやら冗談では無いらしい。戸惑いに任せ、クラリッサは口を開いた。
「あの、何があったのですか……?私てっきりトビアス様との婚約を進めるお話なのかと」
アドラー公爵はコホンと一つ咳払いをした。
娘の疑問は尤もだと彼も思っている。敏い娘に事情を誤魔化すつもりは無かった。
「公には伏せられているが、どうやらアロイスの婚約者が―――別の男と駆け落ちしたらしいのだ」
「駆け落ち……?ですか?」
俄かには信じられなかった。
クラリッサは夜会で顔を合わせたレルシュの黒い髪と青い瞳を思い出した。アロイスの腕に縋りつくように飛び込んできた彼女は、どう見てもアロイスに政略結婚以上の感情を抱いているように見えた。自分に向けられた怪訝そうな視線の中に、微かに独占欲が浮かんでいたような気がする。
確かにアロイスは茶会で『彼女が最近自分以外の男性に関心を持っている』と言うような発言をしていたが、だからそれを戯言としか認識していなかった。
しかし彼の見立てが当っていた……と言う事になるのだろうか。
「それは……本当なのでしょうか……?誤解では無く?」
不審そうに尋ねる娘に、父である公爵は頷いた。
「どうやら事実らしい。アロイスの婚約者、レルシュ=ヴァルドールが平民の男と駆け落ちをして、すぐに追手に捕まったらしい。今は屋敷に幽閉されているそうだ。駆け落ちの事実は彼女の口から直接そう語られたようだ」
「でもレルシュ様が見つかったのなら、ヴァルドール家はその事実を揉み消したりしなかったのでしょうか?上手く行くとは限りませんけれど……」
「駆け落ち前にヴァルドール家のご令嬢は、アロイスに手紙を出したらしい。少しでも情があったのか、事情を記して勝手な行動を詫びる内容だったそうだ。結局それが元でアッサリ捕縛されてしまったようだが―――随分正直なお嬢さんらしいな、政略結婚の相手を裏切る時に断りを入れるなど」
「では婚約者のレルシュ様に裏切られて、アロイス様から婚約破棄を提案されたのですね?それでお相手がいなくなって、トビアス様と話が進みそうな私に鞍替えを……?つい先日アロイス様にお会いした時はそのような事はおっしゃっておりませんでした。それに短期間で、其処までゲゼル家の方針が変わるなんて急すぎると思うのですが」
眉を顰める娘にアドラー公爵は苦笑した。確かに婚約者だったご令嬢が何をしたとしても、アドラー家には何の責も無い事で、虫の良い話である事には違いない。
ヴァルドール家は良港を持ち、豊かな水産資源に裏打ちされた少なからぬ富を抱えている。それ目当てにゲゼル家が、ヴァルドール家と縁を持とうと縁談を進めた事は一部の者の目には明白だった。そしてヴァルドール家の勢いが良くなったのはここ十年ほどの事だ。それまでは片田舎のむしろ伯爵家としても地位の低い家柄だった。富を背景にゲゼル侯爵家と繋がりを持つ事を彼の家が切望していた事も社交界では周知の事実だった。
するとそれまで黙っていたトルデリーゼが助け舟を出した。
「同じゲゼル家に嫁ぐのなら、嫡男の方がクラリッサには相応しいと思うわ。もともとトビアス様はゲゼル家の爵位の内伯爵位しか継げない事になっていたのだし……資質としてもアロイス様の方が振る舞いも洗練されているし、領地経営や侯爵の補佐として貴族院での評判もまずまずと聞いているわ。それに正直に言うと、私はいくらお義父様の勧めがあったとしても、トビアス様では貴女の伴侶は荷が重過ぎると考えていたの」
トルデリーゼの言う事が尤もだと言う事は、クラリッサにも理解できる。
けれども彼女には妙な違和感があった。何よりここ最近のアロイスの発言や行動に、嫌悪感を抱かされたばかりだった。それをどう伝えて良いか判断に迷う。
具体的に伝えるには―――クラリッサがマクシミリアンに寄せる思慕について匂わさざるを得なくなる。しかし曖昧な反論は、二人は求めていないだろう。
「……トビアス様も……最近は大人になられたと思うのですが……」
「あら、貴女。もしかしてトビアスを気に入っていたの?散々嫌っていたでしょうに」
「それは……」
クラリッサが言い淀んでいると、アドラー公爵が静かな声で言った。
「クラリッサがどうしてもトビアスと婚姻を結びたいと言うなら、あちらにそのように提案する余地はあるが、そう言う訳では無いのだろう?」
「……ええ」
確かに『どうしてもトビアスと添い遂げたい』とクラリッサは考えている訳では無い。と言うかマクシミリアンで無ければ誰であろうと彼女にとっては同じだった。ただトビアスはマクシミリアンを慕っており、彼を悪しざまに言ったりしない。その一点だけでクラリッサとってアロイスよりトビアスの方が数段ましな相手に思えた。
「あの、ただ私……こんな事を言っては失礼かもしれませんが……アロイス様が苦手なのです。お父様やお祖父様に勧めていただいている縁談でこのような我儘を言って良いとは思いませんが」
クラリッサは切なそうに目を伏せた。
その様子を見て、公爵と夫人は目を合わせた。クロイツへの執着以外に我儘を言った事の無い娘が、珍しく歯切れの悪い言い方をしている事に気が付いたのだ。
俯く娘を見て二人は頷きあった。
「ねえ、クラリッサ。……お父様も貴女に無理強いしたいなんて思っていないわ。卒業後すぐに婚約式をするなら今お付き合いを御受けするのが良いタイミングと言うだけで。ずっとトビアス様が第一候補だと思っていたから、戸惑う気持ちも分かります。直ぐに決められる事じゃないなら、何度か席を設けてお互いを知る機会を作れば良いわ。正式なお話はその後にして、他にも縁談の申し込みはあるのだからその方々にもお会いすれば良いのよ。まだじっくり考える余地はあるわよ、ねえ貴方?」
トルデリーゼがクラリッサを安心させるように微笑み掛け、それからアドラー公爵に同意を促すと、公爵もしっかりと頷いた。
「何しろ急な話だ。トルデリーゼの言ったように急ぐ事も無い。まあ三年も五年も引っ張られては困るがな」
茶目っ気を出して冗談めかした口調でアドラー公爵が肩を竦めると、クラリッサはホッとして思わず笑顔になった。
「それにゲゼル家とヴァルドール家の問題も、まだ正式に手続きが済んだ訳では無い。しかしゲゼル家の面目を潰した事実には変わりはない―――今後ヴァルドール家からしかるべき処に申し出て、尤もな理由を拵えて婚約破棄の手続きをすすめる事になるだろう。おそらく病気や……妊娠機能の不全とか、そう言った理由になるだろうが」
「……そうですか。お気の毒ですね」
それでは、レルシュは今後他の貴族との結婚も望めなくなるだろう。駆け落ちでしかも相手が平民となると……捕まってしまえば添い遂げる可能性も見込めない。表立って醜聞を広めるよりはと言う判断なのかもしれないが、彼女にとってはかなり酷な状況である事には変わりない。
クラリッサは沈痛な面持ちで視線を下げた。
以前なら正式な婚約者のいる身で身分違いの相手と逃げるなど―――家族や領民を裏切る行為に同情する気にはなれなかっただろう。クラリッサは矜持の高いお姫様で、クロイツと言う身分も資質も申し分無い王子様に憧れていて、レルシュのような自殺行為に等しい愚かな行為に興味の欠片も抱けなかったのだから。
けれど貴族とはいえ身分の離れたマクシミリアンに心を寄せている今のクラリッサには、レルシュの行いは他人事とは思えなかった。婚約が整った後に、万が一―――自分の気持ちをマクシミリアンが受け入れてくれると言ってくれたなら。それを冷静に無かった事にできる自信は無い。自分だって彼女と同じ―――愚かな行為に傾いてしまう可能性が無いとは限らない。
ただ、きっと。
誠実で思い遣りのあるマクシミリアンは、周囲を裏切るような行為は選択しないだろうと、クラリッサは思う。
そしてそう言う彼だから、彼女は彼を好きになったのだとも。
「わかりました。アロイス様とお話してみます。まずはお茶にお招きいたしましょうか」
顔を上げ微笑むと、両親が彼女を包み込むような瞳で見守っていた。
そこに確かな愛情があるのを感じて、やはり自分はレルシュのような思い切った真似は出来ないだろう―――そう、クラリッサは改めて確信したのだった。