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 ライラックの花が民家の軒先で揺れていた。信号待ちで止まった守意は、この季節にしては汗ばむ陽気にトヨタ・パブリカの運転席で窓を半分ほど開けていた。そこへ、ライラックが香った。つい一か月少々前に満開のエゾヤマザクラとソメイヨシノの下を、神波千夏と歩いたばかりだった。北海道の季節の巡りは、冬を除けばみな駆け足で過ぎて行く。信号が青になり、クラッチをつなぎ、アクセルを踏む。いつも守意の運転は慎重すぎるほどだ。黒煙をぶつけるようにして、平ボディに建設資材を満載したトラックが追い越して行った。国道五号を車は西区西宮の沢を小樽方向へ走っている。この車に乗るときは、たいてい目的地は小樽だ。守意は胸ポケットからハイライトを取り出して、火を点けた。口にくわえて、窓を全開にした。まだ海まで距離はあるのに、不意に潮の匂いを感じた。あの日を思い出していた。札幌駅から旭川行きの普通列車に乗り、深川から留萌本線に乗り換えて、あの港町へ向かった日のことを。


 暦はまだ三月。札幌駅のホームで、花びらのような雪が舞うのを見た。ハイライトを二本喫う間にやってきた普通列車はディーゼル機関車を先頭にした旧型客車を牽いていた。

 札幌を出た普通列車は、札幌の市街地を抜けて江別駅を過ぎ、国道十二号線に並んで石狩平野を進んだ。列車が夕張川を渡ったころには、効きすぎる暖房に、船を漕ぎだしていた。微睡ながら車窓に目をやると、雪で覆われた田畑はまだら模様になっていた。いつしか大ぶりの牡丹雪は止んでいた。

 岩見沢を過ぎると、蒸気機関車D51牽引の長大な石炭列車とすれ違った。空知地方の炭鉱地帯から、室蘭本線を経由して室蘭港まで石炭を輸送する列車だ。石炭列車は、故郷の樺太でもよく見かけた。だから、D51と石炭列車、そして雪景色のセットは、守意に故郷を思い起こさせた。守意は十八歳まで、樺太最大の都市である豊原市の郊外、(いくさ)(がわ)で育った。実家は大規模農家だ。朝鮮半島から出稼ぎに来た労働者もいたし、ロシア人もいた。経営の規模は大きかったが、そうしないとやっていけない事情もあったのだと思う。実家はいまごろ兄が継いでいる。もう四年、樺太には帰っていない。懐かしいという感情もわずかにあったが、いま守意の裡を支配しているのは、静かなる闘志と、道民に対する敵意だった。

 深川駅で留萌本線に乗り換えた。タンク機関車C11が、客車三両を牽いて、雪深い山地へ分け入るように単線の線路を走った。乗客は少なかった。留萌の町に近づくと、守意の気持ちは冷えていった。緊張と、警戒。

 留萌の町は、樺太の港町に似ていた。赤や青のトタン屋根ばかりが目立ち、潮の匂いと魚の匂い、そしてここにも蒸気機関車と石炭列車の姿があった。羽幌炭田から石炭を積み出し、日本海航路で道外へと運び出すため、留萌の港は市街地よりもよっぽど活気と喧騒に満ちあふれ、そこここにロシア人の姿があった。ロシア人の姿がやたらと目立つのは小樽港も同じだったが、小樽には北海道開拓の玄関口としての役目を担った重みがある。だが留萌の港には、そうした香気はほとんどなく、労働者たちの濃密な匂いがあった。どことなく樺太の玄関口である大泊(おおどまり)の町を想起させた。

 守意は留萌駅を出ると、雪解け直後のくすんだ舗道を、港に向かって歩いた。錆だらけの鉄橋を、日本海沿いに北上する羽幌線の気動車が走っていく。ほっかむりをした港町の女性たちはうつむき加減になにやら行李を担ぎ、守意とすれ違って背中を丸め、過ぎる。守意は立ち止まり、何気ない風をよそおって、尾行がないかを確認する。ロシア船の出入りが激しいということは、それだけ官憲の目の数も多いはずなのだ。もっとも、不法入国などを取り締まる部署と、活動家をマークする警察の部署は違う。こういうときに、皮肉でもなく行政の縦割り構造をありがたく感じる。故郷で実家の父や兄が辛酸をなめさせられている地元の役所の堅物ぶりは、高校生の時分にいやというほど見ていた。役所に何かを頼みに行っても、結局のところ部署間をたらいまわしにされるのだ。

 倉庫街に入ったところで、先方から声をかけられた。

「時間よりずいぶん早いな」

 煙草の匂いがした。建物の影から、こぎれいなコートをまとい、鳥打帽を浅くかぶった痩身の男が現れた。

「住本さん、お久しぶりです」

 守意は立ち止まらない。住本も立ち止まらず、守意の歩に合わせて倉庫街を進む。

「飯、食うか」

「深川で食べてきましたよ。幌加内(ほろかない)そばっていうのを」

「立ち食いか」

「改札から出たところにありましたよ」

「改札から出たのか」

「留萌まで乗り継ぎだって言ったら出してくれましたよ」

「そばだけか。ほかには何も食ってないのか?」

「十分です」

 住本は頬をそぎ落としたような鋭利な印象の顔を崩さず、目元だけ笑った。目じりに笑いじわが寄った。人懐っこそうな顔だが、彼のコートのポケットには拳銃が入っているはずで、右手の指のどれかは、その銃に触れているはずなのだ。いつでも抜けるように。守意を警戒してではなく、守意が連れて来たかもしれない、招かれざる客に対応するためだ。

「駅の売店のそばじゃな。今度は深名線に乗って来い。幌加内駅を降りたところにある『笹木』ってそば屋はうまいぞ。天丼食べてみれ」

「そば屋で天丼ですすか」

「天丼がうまいそば屋は、そばもうまいんだ?」

「幌加内なんて、どこだかもわかりませんよ」

「北海道に熱を入れている割に、疎いんだな。地名に明るくないと、うまくいかねぇべさ」

 住本は本州資本の農機具・建機販売会社に籍を置いている営業マンだ。それこそ北海道をくまなく歩き回っているに違いない。もちろん、守意の故郷である南樺太にも何度も渡っていると話していた。

「ちゃんと勉強してるか」

「その辺は自信ないです」

「本業をおろそかにしたら駄目だ? しっかしみったくねぇ靴履いてんな?」

「節約してるんですよ」

「ほどほどだ。なんでも」

 住本の歩く速度が気づけば早足に近くなっている。さり気なく自分のペースで相手を歩かせるのも、営業の心得なのかもしれないと守意は思う。歩いた先に、淡い緑色をした三菱キャンターが停まっていた。平ボディの小さなトラックだ。どこかで見たことのある色だと守意は思ったが、それが一年後に走り始める予定の札幌市営地下鉄南北線の電車の色に似ていることを思い出し、表情には出さず、苦笑した。キャンターの運転席に人影があった。エンジンもかけたままだ。マフラーからはうっすらと水蒸気が上がっている。春は名のみ。やはり寒い。

「おれの同僚みたいなもんだ。安心しれ。大丈夫だ?」

 住本はキャンターのボディを平手で軽くたたいた。エンジンをかけたまま、運転席の男が降りてきた。

〈こいつはおれの同志だ。約束の物を出してやれ〉

 ロシア語だった。

「住本さん、いつからおれはあんたの同志(タワーリシ)になったんです。だいたいおれはコミュニストじゃありません」

「お前、ロシア語も話せるのか」

「樺太出身ですから」

「勉強しないと話せないべ。なして話せる?」

「ロシア人はうちで何人も働いてますよ」

「そうか。言葉に達者なのはいいことだ? けどあれだ。こいつはロシア人じゃないんだ? 国境の向こうから来てる」

「国境の向こうからなら正真正銘のロシア人じゃないですか」

「もともと樺太にはロシア人は住んでないべ」

「あんたの組織の人間ですか」

「だから同僚だって言ったべさ」

 運転席の男は守意と住本のやりとりにはまったく興味を示さず、仏頂面のままで、荷台の荷物からカバーをはずした。段ボール箱がいくつも載っている。住本が働く大阪が本社のメーカー名が入った箱だ。男はその箱のうちのひとつを手繰り寄せた。重そうだった。荷台には砂が浮いているのか錆なのか、箱は引き寄せるたびにざらざらと音を立てる。

「お前、露助が嫌いか」

 思いもよらず低い声で住本が言う。ライターを擦る音。

「『チェリー』じゃないですか」

「吸うか? お前は、相変わらず労働者の煙草だもんな?」

 一本差し出されたのを手のひらで押し戻すように遠慮すると、住本はうまそうにチェリーを吸い込んだ。発売されて間もない煙草だ。

「突撃銃なんて、いやいやいや、最近の学生さんだら、物騒だもな?」

 住本は笑いもせずに茶化してくるが、それを承知で守意に武器を調達しているのだ。辛気臭い顔して取引してたら、シャケとゴショイモ物々交換してたって目立つべさ? いつか住本はそう言ったものだ。

「順調に行ってるんかい?」

 箱の中身を検めようとする守意の横で、住本はキャンターにもたれ、チェリーを吸っている。吹く風に煙が散らされる。曇天の上にここは日陰で、本当に寒かった。

「勉強の話じゃないですよね」

「オリンピックまであと二年か」

「二年切ってますよ。開会式は再来年の二月三日です」

「そうか。札幌は盛り上がってるんかい?」

「住本さん、いまは旭川でしたっけ」

「住んでるのはな。出張出張また出張だ? ゆるくないわ。身体がこわい?」

「旭川ってどんなところですか?」

「第2師団司令部がある。とにかく(しば)れる町だわ。お前、樺太から札幌出るんなら、何回も通るべさ、旭川だら」

 住本が「旭川」と言うと、守意には「あさしかわ」と聞こえる。生粋の道産子であるらしい住本の本当の出身地は聞いたことがなかった。

「稚内で汽車に乗ったら、ちょうど夢の中なんですよ。旭川は」

「『宗谷』か」

「なんですか?」

「いつも乗ってる汽車の名前だ? 『宗谷』だべ?」

「あんまり気にしたことないんで覚えてないですよ」

「おれはそういうのを覚えてないと商売にならんのさ。旭川にもたまには寄れ? ラーメンでも食わしてやるから。うちには来るなよ、男の一人暮らしで、たいしたあずましくないからな」

 住本は足元にチェリーを落とし、上等なのか定かではないが、くすみもない革靴ですりつぶすように消した。守意は箱の中身に自動小銃AKS-47を確認する。予備弾倉と予備弾薬。弾薬を包んだ金属缶にはしっかりとキリル文字がプリントされている。これだけで五キロを超えそうだ。守意は小さくうなずくと、携えてきたトランクを住本に渡す。住本が必要なのはトランクの中身だけ。空になったトランクに、AKS-47を入れて守意は帰るのだ。

「いつも大変な思いさしてるな」

 荷台にトランクを置き、住本が今度はその中身を検める。傍目には何の変哲もない書類の束だ。だが、書類の表紙には、「部外秘」のスタンプが押してある。

「全部、というわけにはいかなかったんですが」

「それは仕方ないべさ。新聞で読んだ?」

 書類のページをめくりながら、住本が言う。

「まあ、これも物々交換だ? 金のやりとりよりはまあ気持ちいいもんだな」

「そういうもんですか」

「だいたいその場で現金払いなんて、最近は流行んないんだ?」

 守意のトランクの中身を、運転手の男が取り出した書類カバンにそっくり移しかえた住本は、初めてこの日笑顔を見せた。

「だいたい、住本さん、それ、どうするんですか」

「飛行機キチガイに売るんだ? 空軍の最新鋭戦闘機の運用表なんて、誰が欲しがるって、その手の愛好家だけだべさ?」

「どんな愛好家ですか」

「おれは、お前らがその鉄砲使って何したいんだか詳しくは訊かん。そういうルールだべ? だから訊くな? 知らんくていいことは知らんでいいんだ? わかるしょや、そったらことくれぇ」

「ええ」

「しっかしあれだな、寒いな」

 運転手の男はさっさと車内に戻ってドアを閉めてしまった。エンジンはまだかけたままだ。ディーゼルエンジンの排気ガスが臭う。蒸気機関車の煤煙よりはましかもしれないと、留萌港で石炭列車の入れ替えか、盛大に湧き上がる黒煙と、響き渡る汽笛の音に思う。

「凍れるってのとはまた違うもな。いま時期の寒いのは沁みるわ。カムイ君よ。カニ食ってかないか?」

「カニですか」

「おんなじ船に乗ってきたんだ?」

「いいですよ」

「それは同意したってことかね」

「だいたい、運転席の人、不機嫌そうだ」

「あいつはいっつもあんな顔だ。国籍はソ連にあるかもわからんが、ウィルタだ」

「それで『解放戦線』に入ってるってことですか」

「おれとおんなじさ」

「住本さんはアイヌの血が入ってるんでしたっけ」

「どんくらい入ってるのかはもうわからんけど。言葉も話せんしね?」

 北海道のアイヌはすっかり日本人に同化させられ、もともと文字を持たなかったが故、アイヌ語を母語としてしゃべることができる人間はもう、老年の域に到達しつつあると聞く。

「お前は生粋の和人だもな」

「樺太人だ、って言ったところで、日本人ですね。樺太語があるわけでもないし」

「樺太も北海道も、内地の連中からしたらいまでも『外地』だべさ? 仕事してても腹くそ悪いもね」

「住本さんでもそう思うんですか?」

「おれの上司は大阪出身さ。こっちに何年も住んでるってのに、関西弁が全然抜けないしょ。なんだかこっちは漫才聞いてるみたいな気持ちになるんだわ。そんなのが幅利かせてるのがうちの会社だ?」

 住本の会社で大阪出身ということは、おそらく本社か親会社から送り込まれてきた社員ということだろう。住本は地元採用で総合職ではない。だからいくら営業成績が良くても、北海道内か樺太の営業所を転々とするだけで、大阪本社へ引き抜かれることもないのだろう。だから営業の合間に、こうした「他社製品」を一般に流す暇もできるのだ。

「一丁だけですか」

「足りないか。足りないべな」

「頼んだらもっと手に入りますか?」

「なぜ必要か。必要数量に裏付けがあれば、調達するさ。ただし、紙には書くんでない。おれに直接言えよ? 本当は手袋はいて歩きたいとこなんだ?」

「住本さんが検挙歴あるとは聞いてませんよ」

「スピード違反で去年捕まったさ。拇印を押したぜ」

「登録されてませんよ」

「そんなもんかね。お巡りだらはんかくさい奴らばっかしだもな。まっすぐの国道をクルマでただちょっとスピード出しただけで、『ウウー』と来たもんだ」

 パトカーのサイレンだけ低い裏声で真似て、住本は小さく笑った。

「で、カニ食ってけ。三杯あるんだ? ここで三民族合同サミットだ?」

「うらぶれてますね」

「カニは立派なもんだ。毛ガニだ毛ガニ。重たいぞ。持たしてやりたいとこだが、足が早いからな。札幌に着くころには腐ってるわ。だからここで食っていけ。セルゲイにも紹介しとくわ」

「中の人の名前ですか」

「おれとおんなじ。ウィルタの名前を付けてもらえず、ロシア名だ。ひどい話だな。ソ連も日本も」

「そうですね」

 言ってから、守意は自分の言葉にまったく感情がこもっていないことに思い至るが、しかし一度言ってしまったセリフを反復するのもかえって良くないかと飲み込んだ。

「中さ入るべ。お前はちゃんこいしおれはこのとおりスマートだから、三人乗ったって平気だ? なんなら駅まで送ってってやるわ」

「それはいいですよ。目立ちすぎるから」

「まあな。そりゃそうだな」

 ハイライトを吸いたいと思ったが、住本の誘いに従い、守意はキャンターに乗り込んだ。運転席の男は結局一言もしゃべらなかった。日本語を解さないのか、それとも守意としゃべりたくなかったのか、あるいはもともと無口な男なのか、守意も余計な言葉を一切話さなかったのでわからなかった。

 車内で三人、ただひたすら無言で毛ガニを食べた。住本の言うとおり、身のぎっしり詰まった立派なカニで、茹で加減も塩加減も申し分なかった。


 あれから三月(みつき)。留萌で見た同じ日本海が国道五号線を走る守意の目に飛び込む。パブリカは小樽市銭函に差し掛かる。真っ青な空に、さらに濃い青の海。水平線は空に溶け込み、波頭も見えず、凪の海だった。そして、小樽へ向かうのは二月(ふたつき)ぶりだ。あのときは残雪が目立った。いまは新緑が眩い。

 北海道の日本海沿岸は、留萌からさらに北、羽幌あたりまでは概ね断崖の続く険しい様相を呈している。石狩から留萌へは目下国道の建設が進められているが、浜益から増毛へは断崖と急峻な暑寒別山地が難所を形成しており、いまだ陸の孤島が存在している。銭函から小樽市街へ至る国道五号線は、開拓以来の重要性から整備されているものの、岩場と岩壁が連なる異様な風景は大差がない。函館本線は海岸線にへばりついて波をかぶり、国道は仕方なく山道を行く。パブリカはトヨタらしいそつのないいい車だったが、ちょっとした登り坂ではアクセルペダルを床まで踏み込まないとすぐに速度が落ちた。それでも守意は束の間のドライブを楽しむような気持を抱く。それは北海道にようやく訪れた賑やかな季節のせいだ。強い日差しと、長い昼。パレットに溶いたばかりの絵具のように鮮やかな緑。樺太でもそうだった。守意は六月が一年で一番好きな季節だ。ただの学生として季節を素に感じ謳歌できたらと思わないでもない。そんな弱気が顔をのぞかせるとき、守意は果てしない畝を這うように進む家族の姿と、横柄で居丈高な農協職員や、東京から配属された農機メーカーの若い社員の視線を思い出すのだ。この土地を開拓したのは、父祖であり、おれたちだ。北海道もそうだろう。連中の好きにはさせない。

 張碓の大カーブに差し掛かると、谷をまたぐようにして札樽バイパスの巨大なトラス橋の架橋工事が見渡せた。行き交うトラックは荷物を満載し、朝里へさしかかる登り坂を喘ぎながら走る。やがていくつかのカーブを過ぎると、小樽の町が見えてくる。春の空に黒く煤煙がたちこめているのは、国鉄小樽築港機関区の蒸気機関車が吐きだしたものだ。パブリカは機関区の横を抜け、小樽の市街地へと入る。

 急峻と呼んでさしつかえない地形に町は作られていた。平地は港から小樽駅周辺へわずかに広がるだけで、町は斜面を這いあがるように広がっていた。故郷、樺太は大泊(おおどまり)(とう)()といった北方の港町の趣は、この小樽ではほとんど見られない。石造りの倉庫や、よどんだ運河、かつてニシン漁や本州との交易船でにぎわった「北のウォール街」の面影がそうさせているのだろうか。いまも直江津や舞鶴へ定期航路がある。守意はハンドルを埠頭へと切る。どうも住本との合流は、こうした場所が多くなる。

 勝納埠頭は春先、「赤い鳥」と「イルワク解放戦線」のデモ隊が集結し、海軍艦艇を出迎えた場所だ。小樽港で満載排水量四万トンもの艦艇が入港できる施設が勝納に限られているためなのだが、今日は入港している船舶の姿はなかった。倉庫街のはずれに車を止めると、セイタカアワダチソウが日差しを浴びて背を伸ばしていた。外来種だ。港湾地区ではよくみられる植物で、生命力が強く、しぶとい。パブリカのエンジンを止め、降りる。

「三月振りか。元気にしてたか」

 またも後ろから声をかけられた。警戒しているつもりでも、住本はその裏をかく。煙草の匂いがした。案の定、住本は火のついたチェリーをくわえていた。

「まあ、おかげさまで」

 抑揚なく守意は答えた。住本は口元を歪めるようにして笑った。

「中で話すか」

 髭の剃り跡も青い細いあごをしゃくった先には、古びた倉庫が扉を開いていた。さびの浮いたフォークリフトが軒先に置いてある。まるで中を見せないがために置いてあるように。守意はわずかに警戒した。が、目の前にいるこの男は敵であるはずがなかった。そう信じているからこそ行動できる。

「なんも、おっかないことなんてねぇべ? 入んな」

 見透かされたように言われた。逆に住本が守意を、守意の側を警戒している証左かもしれない。守意は靴の裏で、コンクリートに浮いた砂を感じながら、薄暗い倉庫内へ進んだ。

「閉めるからな。いろいろ物騒だからよ」

 案の定だった。鉄の扉を、住本が閉めた。すぐさま、天井の蛍光灯が灯った。中は中量ラックが並び、鋳鉄管や継手の類が整然と仕舞われていた。住本の会社の取扱商品の数々だ。彼は勤務中ということだろうか。

「そっちに事務所があるべ?」

「ええ」

「まあ、茶でも淹れるわ」

 詰所のような小ぢんまりとした、しかしやはり整然とした事務所だった。人の気配はない。人がいた形跡もない。普段は使われていないのだろうか。思ったことを疑問として口に出すのを、今日の住本の表情はためらわせた。

「カムイ君。君はいま四年か」

「ええ」

「就職活動はどんなもんさ」

「特にしていませんよ」

「ウチに来るか。履歴書持って来たら、とりあえず面接さしてやるわ」

「住本さんが面接してくれるんですか」

 座れと言われないかぎり、守意は椅子につかない。住本も立ったまま、二本目のチェリーに火を点けていた。スチール製のデスクの上には、アルミの灰皿が一つあったが、使われた形跡はなかった。

「面接は大阪から人事担当者が来る? それともカムイ君くらいになったらあれか、ウチみたいな系列子会社じゃなくて、親会社の方でないと受ける気しないか」

「どっちみち、大阪の会社ですよね」

「ああ。そうだ。上司はみんな関西人だ。研修も二週間、尼崎の独身寮にぶち込まれて、ひたすらあっちの拠点めぐりだ? 午後は夜まで難波の本社で座学。で、終わったら難波の餃子屋でビールだ。あれは悪くない。こっちには、ああいう気の利いた店がないもな? 東京よりいい。東京は気取ってるだけで高いわ、旨くないわ、なんもかんもあずましくないもな?」

「そうですかね」

「カムイ君は東京に行ったことはあるんかい?」

「高校の修学旅行が、京都・奈良・東京ですよ。お決まりの」

「行きも帰りも、寝台か」

「ええ」

「青函連絡船な」

「ええ」

「その津軽海峡にトンネル掘ってるってのが、おれにはいまいち信じられないもな」

 道民なら誰でも知っている。昭和二九年の洞爺丸台風。青函航路が壊滅した日。一夜にして五隻の青函連絡船が沈没し、一二〇〇名以上の人命が海に飲まれた日。夢物語だった海底トンネル構想が実体化する契機になった悲劇だ。

「晴れて、北海道も内地と地続きか。いつ完成するのか知らないけんど」

「新幹線を通すっていうんです。八〇年代中ごろまでには、札幌まで新幹線が延びてきますよ」

「道新で読んださ。一月だったか。東北・北海道新幹線を、昭和五十年代中ごろまでに開通させるって計画だべ? 正気の沙汰とは思えねェ」

「札幌オリンピックだって、最初はだれも本気にしちゃいなかったですよ」

「まあ、立ち話も落ち着かないわな。座ったらどうさ。さっきから気にしてるようだけんど、ここにはカムイ君とおれしかいない」

 言葉どおり信じていいのか守意はうなずかなかった。代わりに、座った。回転椅子がキシキシと嫌な音を立てた。住本もデスクの端の椅子を引き寄せて座った。そちらの椅子も嫌な音がした。

「場末の倉庫なんて、こんなもんだ。枚方の工場の敷地なんて立派なもんだったが、ウチの会社でこのざまだ? 北広島の物流センターがようやく自社物件になっただけの話で、それだって、建機から農機から合成管に鋳鉄管まで、ごちゃ混ぜだ」

「いいんですか、その貴重な倉庫におれを入れたりして」

「構わんさ。君は大学四年だ。就職活動中の学生に職場を紹介してた。そう言っとけば、関西弁の所長なんて文句も言わんよ」

 チェリーをアルミの灰皿でもみ消し、住本は首元のネクタイをわずかにゆるめた。会社名入りのジャンパーは洗濯が行き届いており、清潔だった。こうして会えば、住本が民族系過激派と官憲が監視対象にしている「イルワク解放戦線」の構成員であることを忘れてしまう。だからこそ、官憲、特に公安は殺気立っているのだ。学生運動はわかりやすい。ゲバ棒にヘルメット、アジテーションに籠城。レッテル貼りもたやすい。だが、労働組合を素地に、草の根に組織力を広げつつある組織は、だれが構成員なのかがわからない。公安お得意の捜査活動であぶりだすのだろうが、北海道は国鉄に炭鉱と、労働争議に「強い」団体を抱えて、さらに札幌オリンピックで沸き立っている。有象無象の類が、青函連絡船に乗ってやってくる。あるいは、宗谷海峡を渡って南下してくる。仕事を求めて。あるいは、守意のような思いを抱いて。

「だれの差し金だ」

 テーブルの上で両指を組み、じっと守意を見据えて、住本が低く言った。

「花火を定鉄の駅に仕掛けるなんて話は、おれは聞いていない。学生部会の意向なのか」

 瞬きせず守意を射る住本の目は、堅気の会社員のそれではなかった。活動家の目だ。

「わかってるさ。定鉄は東急に買収された。実質、もはや北海道の企業ではない。本州資本による北海道の植民地化が着実に進んでいる。そうした日帝の野望をくじくために、われわれは本気であると見せつけた……。犯行声明にそう書くつもりだったか」

「それは、住本さんのところの話じゃないんですか」

「おれを怒らせようとしてるのか」

「違います」

「なら言え。だれが指示した。場合によっては、おれはお前らと手を切らなければならなくなる。おれはあくまで、カムイ君、君の思想に共感しているだけだ。学生運動には批判的な声もある。おれは君らの背後にいる『赤い鳥』に共感しているわけじゃない。君は言ったな、いつか。これは独立戦争なんだと。その言葉が気に入ったから、武器を供給しているんだ。『赤い鳥』の兵隊ごっこに手を貸すつもりもないし、無差別テロなんてもってのほかだ。まあ、あれが仕掛けられたのが霞ヶ関だったら話は別だったが。なぜ札幌の、市民が利用する地元の駅に仕掛けたんだ?」

 言うと住本は三本目のチェリーを取り出して火を点けた。守意もハイライトを吸いたかったが、ここに痕跡をできるだけ残したくなかった。椅子に座るときですら、衣服の袖を使った。指紋は残していない。

「ウチも同じですよ、住本さんの会社と。知ってるでしょう、東京から『赤い鳥』の生き残りを、北海道学生部会で匿ってるってわけです」

「なぜ甘んじて受け入れた。君がいながら」

「おれは、学生部会に籍を置いているだけなんです。書記ですらない」

「ならなぜ執行委員室に出入りができるんだ?」

「それは、住本さんがわかってるんじゃないですか」

「武器の供給減だからか」

「そんなところです」

「『銃が人を殺すのではない。人が人を殺すのだ』」

 住本は守意から視線を外し、低くそう言った。

「何の引用ですか。物騒な」

「全米ライフル協会の誰かが言ったのさ」

「全米ライフル協会?」

「アメリカの憲法では、国民が武装し自衛する権利が明記されてる。あの国では、男の子がある程度の年齢になると、父親が銃をプレゼントするんだそうだな。自分の身は自分で守れ。自分の家族や、自分の愛する人間は、自分の手で守れってよ」

「そうなんですか」

「さあな。そのわりに、よその国の戦争に加担するのが好きなようだが」

「それがどうしたんですか。住本さん、大のアメリカ嫌いでしょう」

「おれは、アメちゃんも露助も嫌いだ。けど、自立自衛、独立独歩の精神だけは認めてやらんきゃならねぇべさ。この国ではそれをわかっていない連中が多すぎる。特に、北海道ではな」

「で、さっきの格言は何ですか」

「皮肉ったんだ。分からないかい? 君に渡した花火やAKに人格があるわけじゃない。道具を使うのは、人間だ。人間の持つ意思だ。包丁は板前が持てばうまい挿し身を作る道具になるべ? たけんど、キチガイに包丁渡したらどうなる? そういうこったべ」

「……おれは、おれたちがそうだとでも」

「君がそうだと言ったわけじゃない。なあ、いま、ウチの会社じゃ、クォリティコントロールって概念が入ってきたんだ。品質管理さ。商品の品質を徹底的に管理して、お客さんに引き渡すんだ。ウチはその辺、しっかりしてる。なあ、カムイ君よ、おれが君に引き渡した『商品』は、いずれもそうした工程を経てる? だけんど、トラクターをきちんと農家さんが使ってくれるか、鋳鉄管をしっかり水道屋が正しい施工で埋設してくれるか、そこんとこは、ウチの責任でない。意味は、分かるべ?」

「ええ、」

「失望させるな。カムイ君。君が君らの闘争に積極的にかかわらない理由は知ってる。検挙歴もない。しかしだ。おれが苦労して手配した道具を、正しく使おうとする努力だけはしてほしい」

 港のどこかで汽笛が鳴った。

「君は、こないだ、海軍の空母が入港したとき、ここへは来たのかい?」

「いえ。官憲が監視してます。わざわざ来る理由がない」

「小樽港が事実上の軍港化してもいいのかい?」

「そうは言ってませんが、おれは相乗りに賛成したわけじゃない。住本さん、『解放戦線』のウエじゃ、『赤い鳥』と共同戦線を張るってことに異論は出なかったんですか」

「出たさ。暴力革命を標榜している新左翼と、民族の自立を目指すおれたちが、相容れるはずがないってね」

「おれもそう思いますが」

「まあ、あれだ? おれが君に『道具』を供給してるのと同じ理由だ。それで、共同戦線やむなしという話になった。『解放戦線』は動員力がどうしても『赤い鳥』には劣るからな」

「手段は選ばないってわけですね」

「それは君らのところも同じだろう。いいか、言っておく。おれは、君の思想に共感してるから、これからも『道具』の供給は続ける。だけんど、駅に花火を仕掛けるような真似は金輪際やめてほしい」

「……次の執行委員会で言っておきます」

「整備指示書の件では世話になった。どうやって入手したのかずいぶん訊かれたが、答えてない」

「助かります」

 やおら、住本が立ち上がる。

「長話にするつもりはなかったんだ? 悪いな。モノは用意できてる。こっちだ」

 事務所を出る。かすかに煤煙の臭いがした。国鉄小樽築港機関区には、まだ六十両近い蒸気機関車がもくもくと煙を上げている。この倉庫は、機関区から目と鼻の先だった。構内で入れ替えに動きまわっている機関車の短い汽笛がまた聞こえた。


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