1、
忌々しい。
呪詛の言葉しか出てきそうになかった。上河攻は、札幌時計台の隣に建つ無愛想な高層ビルの一階にたどり着き、突然振り向き、追跡者がないかを確認した。綿密な尾行点検の末のダメ押しだ。追跡者がいるはずはない。電停から十分かからない距離を、三十分かけて帰庁したのだ。昔は馬糞風、いまはスパイクタイヤに削られた道路の粉じんをたっぷり浴びた上河は、背広の肩を軽く掃った。街は平穏だ。昨夜、定山渓鉄道豊平駅に対戦車地雷が仕掛けられたというのに。
上河の勤務先は、このビルの五階にある。時計台の鐘が鳴るのを聞きながらエレベーターに乗った。一階は旅行代理店、二階は生命保険会社の事務所。要するにさまざまな「支店」「営業所」が同居するビルの一角に、これまた「支店」の一つに過ぎないのが上河の職場だ。五階の廊下は春とは思えないほどに冷え切っていた。時計台を見下ろせるから、この窓は南を向いているはずだ。なのにこの冷え切り方はどうだ。路面電車がカーブを曲がる耳障りなフランジ音がここまで聞こえる。つい最近まで賑やかだった地下鉄工事の槌音は絶えた。軌道敷設も終わり、今秋から試験電車の走行が始まるのだ。駅前通りを掘り返し、オリンピックに合わせて建設が進む市営地下鉄南北線が開通すれば、路線が重複する区間の路面電車は廃止される。マイカーが手の届く商品になると、途端に道路は車だらけになった。市内の渋滞はひどくなる一方だ。おまけにオリンピック関連工事の資材を積んだトラックが行き来する。札幌の街は変わりつつあった。
本州資本の不動産会社の事務所の隣。国家公安機構内務第二課北海道局。ただし表札は出していない。都道府県警察でも、陸海空軍でもない、第三の実力組織。新卒よりも警察や軍出身者の中途組か出向組が大半を占めていることからも、この組織の異色さが分かる。上河も高校を卒業後に警察官採用試験を受けて、北海道警察の一巡査となった。交番勤務を一年、それから真駒内の警備部機動隊へ異動。巡査部長に昇進したが、紆余曲折を経て今ここにいる。
「遅かったな、上河」
顔も上げず、課長の渡部が声をかけてきた。渡部は課員を足音だけで聞き分ける。脱帽時の敬礼……お辞儀を軽くしてから、上河は渡部のデスク前に立った。
「豊平駅の件は、どうだ」
渡部が顔を上げる。黒髪の七三分け。黒縁のメガネに三つ揃え。小役人然とした風体だが、うかつに触るとこちらが切れる。国家公務員上級職のなり損ねと揶揄されることもあるが、経歴から実績まで、食えない男であるのは三年仕えて上河自身が思い知っていた。
「道警の公安と、捜査一課が縄張り争いですよ。内ゲバは連中だけで勘弁ですね」
「で、結論は」
「未遂で済んで何よりです。昨夜の非常呼集には驚きましたが」
「ソ連製対戦車地雷か。物騒なもんだ」
「緊急配備を掛けたのに、道警はマル被を逃がしちまった」
「捜査一課は臍を噛んでるかもしれんが、公安はほくそ笑んでるかもしれん」
渡部は「公安」を「ハム」と呼ばずに「公安」と言った。渡部の経歴は課員の間でもはっきりと知る者はいない。勤務中、デスクについているときでさえ腰のホルスターにブローニング・ハイパワー九ミリ拳銃を挿していること、九ミリ口径は陸軍制式拳銃と同じであること、なのに警察関係者に人脈があること、それらが渡部の謎をより深くしている。
「お前の印象は?」
渡部はショートピースを取り出し、四つ折りに畳んだ新聞の上で数回葉を詰めてから、マッチで火を点けた。窓を背にしており逆光気味で表情はつかめない。そもそも渡部は表情を出さない。この後報告書を求めるだろうに、まず上河から言葉で第一印象を訊く理由も渡部なりにあるのだろう。
「爆発してたら、犯行声明が出たんでしょうが。『赤い鳥』がやったのか、『イルワク解放戦線』の手によるものか。道警は『赤い鳥』だと断定しています」
「若い男がスーツケースを持って、午後八時ごろ、豊平駅構内をうろうろしていた」
「ええ、その筋です」
「時限起爆装置は手作り。なのに、爆弾はソ連製。ちぐはぐだな。それに、『赤い鳥』はいままで爆弾テロは一件も起こしていない。去年の国鉄仙台駅爆破で犯行声明を出したのは『イルワク解放戦線』だ。ならば、仕掛けたのは『イルワク解放戦線』のほうだと思わんか?」
「マル被は『学生風の』若い男です。『解放戦線』に学生はいません。簡単な消去法だ」
「そう簡単に決めつけるな。是永教授のほうはどうだ」
渡部は表情を変えず、ショートピースを吸う。
「北大で一番過激なのは農学部です。経済学部の是永は、ダミーじゃないんですかね。『赤い鳥』の闘争資金の供給源なのは間違いなさそうで、学生連中も確かに出入りはしていますが、むしろ、自治会が単独でやってる感じです」
「なるほど。小樽港のデモは、連中の発表で何人動員したんだっけな」
「一万五千です」
「見てきたんだな?」
「いいとこ五千ですね。そっちの報告書、まだでしたか」
渡部は無言で煙を吐き出す。それが返事だった。上河は自分のデスクの引き出しの鍵を開け、ペーパークリップで留めた写真つき報告書を渡部に手渡した。
「現像は総務に出したんだな?」
「当たり前です、その辺の写真屋に出せる代物ではありません」
報告書本文より前に、クリップで留めた十数枚のキャビネ版のモノクロ写真に鋭い視線を渡部は向けた。小樽・勝納埠頭に先週から寄港している海軍の空母が写っている。
「『赤城』か。こっちは、重巡『妙高』……。お前は射撃の腕前はいいかもわからんが、写真はまだまだだな。シャッタースピードと露出の関係もわかっていないようだ」
「そっちは真駒内でも東千歳でも教わりませんでしたから」
「望遠を使うときは被写体ぶれに気をつけれ。手配写真に使えんようじゃ、意味がない」
「顔ぶれはいつもどおりですよ、と言いたいところですが、『赤い鳥』に混じって『解放戦線』がいました」
「ふん。共同戦線を張るっていうのは本当らしいな」
写真を検めるようにしながら、渡部は短くなったピースをガラスの灰皿に押し付けて、続けざまに二本目に火を点けた。
「追い詰められてるんじゃないですか。もともと思想が相容れないはずの『解放戦線』と『赤い鳥』が共同戦線なんて。民族主義過激派と、極左暴力革命団体ですよ」
「ウチも、捜査資料は道警から提供を受ける。道警機動隊の手に余るような事態になれば、ウチの特機が出る。共同戦線を張ることもある」
「治安維持って目的は同じです」
「機動隊出身のお前から見て、どうだ。小樽港の流れがそのまま札幌に来たら、ウチの出番はあるか」
「まだなんとも。五千人程度なら、道警機動隊で十分です。連中、シュプレヒコールを上げてるだけで、投石も火炎瓶もなしです」
「まあ、相手は海軍さんだからな。『赤城』はこのあとカムラン湾か」
「さあ、そこまでは」
「新聞くらい読んでおけ」
報告書の下で四つ折りになっているのは、北海道の地元最大のブロック紙だった。脇には二番手の地元紙「北海新報」もある。朝日・毎日・読売の全国紙に日経、渡部は出勤してからすべての新聞に目を通す。産経がないのは、北海道で産経新聞の日配がないからだ。
「日米安相条約絡みで学生連中が国会を取り囲んだのが懐かしく感じるな」
「私は向こうの様子を知りません」
「おれも知らん。ただ、状況は知っている。主催者発表で二十万人がデモをやった。同時多発的に首都圏の大学は封鎖。警視庁は大変だったべな。結局それが引き金で連中は警視庁に潰されたが」
すべての写真をなめるように見終わった渡部は、そのまま上河が書いた報告書に目を走らせた。
「まるで他人事ですね」
「ああ、他人事だ。道庁本庁舎が取り囲まれたら話は変わるがな」
「しかし……段階が変わった気がします」
声音を変えて、上河は直立不動のままで言った。渡部が報告書から顔を上げた。
「なぜだ」
「対戦車地雷というのは、穏やかではありません。日曜大工程度のパイプ爆弾だったのが、ここに来て対戦車地雷ですよ。尋常ではありません。小樽港で手榴弾でも『赤城』に投擲されたら、事態が変わります」
「いいか、『赤い鳥』も『解放戦線』も、口やこの手のアジビラでは勇ましいことを言ってるが、所詮は雑兵だ。お前、東千歳で何を習った? 武器は素人の学生風情が扱えるか? 兵役を猶予されてる学生が」
「……課長も北大卒じゃないですか。それに『解放戦線』の主力は学生ではありません」
「まぜっかえしはいい」
北海新報の横にあったチラシ然とした紙を一枚、渡部は上河に突き出した。
「『赤い鳥』の会報だ」
「どうやって入手したんですか。これ、外に出てこないような代物ですよ」
「ルートを持ってるのはお前だけじゃない。お前もいつまで『考える筋肉』でいる気だ? レベルが変わったと感じたなら、次の報告書にはその辺をぶち込んで来い。引き続き是永教授の自宅の警戒と、『赤い鳥』北海道学生部会の様子は週報で提出しろ。武器の使用の可能性を感じたらすぐ報告だ。ただし、推測はやめろ。事実だけを書け。手短にな」
「豊平駅の件は?」
「明日の朝刊が届くより早く、おれに出せ。お前が報告書を出さない限り、おれは帰れん。シュークリームでも食って頭でも冷やしてから書け。お前の地元で旨いシュークリームを食ったぞ」
「『梅屋』ですか」
「こっちに出て来たらひいきにするんだがな。早く書け」
「もう一件、外出の予定があります」
「例の記者か」
言い当てられて、上河は返答がわずかに遅れた。公安組織の課長を伊達で張っているわけではないのだ。部下の行動、人脈、それらすべても監視の対象なのだ。
「上河。何としても、札幌で花火を上げさせるわけにはいかん。再来年はオリンピックだ。道警に持って行かれるなよ」
「課長、……オリンピックが、そんなに大切ですか」
上河が言うと、初めて渡部が訝しげな顔をして三本目のピースに火を点けた。
「なに?」
「浮かれ過ぎだと思いませんか。あんなものは降ってわいたお祭りですよ」
「貴重な意見だな。だが、オリンピック招致成功がなければ、地下鉄がこんなに早く作られたか? 東急が定鉄を買収して、藤野まで高架複線にしてくれたか?」
部屋を出ようと姿勢を変えていた上河は再び渡部に向き直った。
「だから余計に違和感があるんですよ。オリンピックがなければ、地下鉄もなく、こんなお祭り騒ぎにもならず、東急が定鉄を買収することもなかったかもしれない」
「東急が定鉄を傘下に入れたのは、オリンピック招致が決まるずっと前だ」
「けど、複線高架化なんて、手を付けてなかったじゃないですか」
「選手村が真駒内にできるからだ。もともと市が南北線を真駒内まで作る予定だったが、東急の複線高架化に便乗した。平岸からは相互乗り入れだ」
「内地にしてやられたってわけだ」
「お前、言ってることが連中に似て来たな。監察の連中に目をつけられるんでないぞ」
「わかってますよ」
「あと」
三本目のピースを灰皿に押し付けて、渡部が鋭い視線を向けた。
「情報は殺すな。記者との関係だ」
「わかりました。……課長、ひとつ、いいですか」
「なんだ」
「煙草、吸い過ぎです。肺ガンで死にますよ」
「由緒正しいピースで死ぬ方がいい。AK-47で撃たれるよりもな」
「行きます」
上河は自身も腰に下げたホルスターの重さを確かめた。コルトM1911A1、四五口径拳銃だ。こちらは北海道警察の私服警官が所持するものと同じだ。予備弾倉は二本。
部屋を出る際、ちらりと渡部を意識した。渡部はもう、部下の存在を忘れた様子だった。
時計台前で観光客が立ち止り、複雑な表情をしているのを横目に見た。毎度の光景だ。有名な札幌時計台の前で立ち止まる市民はいない。立ち止まり、カメラを構え、あるいは落胆の表情を露骨に浮かべるのは、内地からの観光客と相場は決まっている。理由は簡単だ。観光客が勝手に抱く北海道のイメージと、現実の札幌時計台の姿の落差にがっかりするからだ。「これぞ北海道」という風景はたいてい日高山脈の向こうだ。札幌の都心部は味気ない地方都市の中心街と大差ない。一昔前までは木造の商店が建ち、石造りの建物がニセアカシアの並木に映えていた。北原白秋が歌った光景は、だが、札幌オリンピックの声とともに消えつつある。
渡部課長のデスクにあった有力ブロック紙の本社前から、大通沿いに歩く。北海道拓殖銀行本店前の角を右折すると、駅前通りに入る。路面電車が警笛を鳴らしてすれ違う光景もあと一年半と少しで見納めだ。札幌市営地下鉄南北線はこの路面電車が走る駅前通りの真下で建設中だ。路面電車が走る札幌の風景を、少なくとも上河は嫌いではなかった。雪の降りしきる冬はなおさらだ。東欧や北欧のような、異国の雰囲気があるからだ。
昭和三九年の東京オリンピックの記憶がまだ新しい。文字通りの突貫工事で東京の街並みは大きく変わった。米英との緊張を避けるためにやむなく大陸から全面撤退し、世界恐慌による大不況で疲弊し、昭和十四年にドイツに端を発した欧州大戦の混乱は、当初昭和十五年に華々しく開催が予定されていた東京、札幌オリンピックを中止に追い込んだ。欧州大戦が昭和二十年に落ち着くと、ソ連や長い内戦が続く中国と対峙しながら、経済不況からの立て直しを図った。徹底的に破壊しつくされた欧州、ソ連、そしてイギリス支援を名目に欧州大戦を戦ったアメリカ。日本は無傷だったが、大戦による世界的混乱は日本を経済大国の座から引きずり下ろすに十分だった。東京オリンピックは、大国復帰を象徴するイベントだった。代わりに江戸情緒のほとんどを埋め立て、解体し、無味乾燥なコンクリートの街並みに作り変えてしまった。札幌でも同じことが起きるだろう。
北一条通を渡る。もうすぐ左手に赤レンガの北海道庁旧本庁舎が見える。ここは掛け値なしで一目の価値ありだ。背の高い道庁本庁舎ビルと道警本部が間近に迫るが、時計台の落胆も、赤レンガ庁舎を見てもらえれば払拭できるかもしれない。それ以外は、東京の引き写しに過ぎない。本州資本の会社の支店だらけだ。保険会社、銀行、エトセトラ。このあたりに北海道発祥の企業の本社はほとんどない。上河の苛立ちはそこにも起因する。都心部の一等地はみな本州企業が陣取っている。不意に石炭を燃やす煤煙の臭いを嗅いだ。国鉄札幌駅の五階建てがもうすぐそばに見える。もう一件の外出先は、そこだ。
札幌駅と東京駅で大きな違い……乗降客数以外で指摘するならば、建物の出入り口に扉があることだ。去年『イルワク解放戦線』を名乗る民族主義過激派団体に爆破された国鉄仙台駅もそうだが、寒冷地特有で、駅構内へ入るには扉を開く必要がある。平日の夕方近い時間、札幌駅のコンコースは混み合っていた。通勤、通学の乗降客が動き出すにはまだ早い。大半が長距離列車の乗客だ。煤煙の臭いが強くなる。北海道ではまだ蒸気機関車が現役で頑張っているからだ。それを目当てに渡道してくる鉄道ファンも多いと聞く。上河ら公安職にとってやっかいなのは、撮影機材を抱えた鉄道ファンと、凶器、あるいは武器を仕込んだ荷物を抱えた警戒対象との区別作業が発生することだ。札幌オリンピックを契機に渡道者が増えたのも厄介だった。とりわけ警戒すべきは建設工事に従事する労働者たちだ。彼らに監視対象団体の人間が紛れ込むのはたやすい。海産物の行李を背負った中年女性とすれ違いながら、上河はさりげなく周囲をうかがう。うかがいながら、コンコース脇の階段を二階へ上がる。煤煙とディーゼルエンジンの排気ガスの臭いに混じって、食欲を掻き立てるいい匂いが漂ってくる。レストラン「ミカド」がそこにあった。
「いらっしゃいませ」
みどりの窓口の国鉄職員に見習ってもらいたい愛想で、客席を廻るウェイトレスの一人が声を出した。鈴の音のような声。上河は敢えてそのウェイトレスに顔を向けなかった。
店内は七割ほどの席が埋まっている。ここは数年前までただの立ち食いそば屋だったが、オリンピックで乗降客数が増えるのを見越した知恵者が国鉄内部にいたのか、二、三年前に駅事務所の一部をぶち抜いて、それなりの広さのレストランに改装してしまった。功を奏したといっていいだろう。閑古鳥が鳴いている様子はないからだ。上河は店内を見回してから、まっすぐに窓際の席へと向かう。すでに記者はそこにいた。
「よう」
べっこう柄のメガネに口髭。真冬も着ていたトレンチコートを脇にたたんで、元北海新報社会部記者の山本英一郎が軽く手を挙げた。上河は無言でテーブルを挟んで座る。
「遅かったな」
山本は読んでいた文庫本に栞を挟み、閉じた。「紀伊國屋書店」のブックカバーで本のタイトルはわからなかったが、彼が何を読んでいるのか、上河には興味がなかった。
「お前が早すぎるんだ」
「記者が取材対象より先着するのは基本中の基本だ」
山本の前のお冷のグラスは汗もかいておらず、三分の一ほどが残った状態だった。十五分、いや三十分はすでにここにいるのか。上河が席に着いた途端に、ウェイトレスが注文を取りに来た。鈴の音の声。
「お前、何にする」
山本がメニューを差し出す。
「いらん。食ってきた」
「あ、スパゲッティミートソースね」
「かしこまりました」
メモを取ると、年若いウェイトレスがちらりと上河を見た。お客様は? の顔で。
「ブレンド」
「食っていけよ。ここのミートソースは旨いぞ」
「いらん」
ぶっきらぼうに言うと、ウェイトレスも心得ている。一礼して去った。
「記者クラブってのは便利なもんだな」
いきなり本題に入られた。山本の言葉に、セブンスターを取り出しかけた手が一瞬止まる。
「朝刊の締め切りギリギリの時間に記者発表されたんじゃ、こっちはついて行けねェべさ」
「お前んとこは、経済専門だろう」
山本はいま、月刊の道内経済専門誌の記者をしている。タブーに挑戦がモットーだというが、事件報道が主力の紙面ではない。
「吹っ飛ばされかけたのが、定鉄の豊平駅だったってのは、ニュースバリュー十分だ。おっと、定鉄じゃなかったな、札幌急行鉄道だった」
「サツキュウじゃ言いにくくって仕方ない」
「そのうち慣れる。慣れる前に吹き飛ばされなくてよかった。ソ連製対戦車地雷ってのは本当なのか?」
「記者クラブにそう発表したんだから、そうなんだろう。おれは直接見たわけじゃない。現場には行ったがな」
「おれも行った。が、いつもと何にも変わりゃしない」
「犯行声明は出てないんだな?」
「おれに訊くか?」
「北海新報の警察担当に後輩がいるって自慢してたじゃねェか」
「現時点では届いてない。どうなんだ。『赤い鳥』か『解放戦線』か、どっちの筋で読んでるんだ?」
言って山本は残りのお冷を飲み干した。上河もよく冷えた水を口に含んだ。
「ウチは、『赤い鳥』で読んでる」
「各社、そこは触れてなかったな。おれはてっきり『解放戦線』だと、つまり仙台駅の続きかと思ったが」
「類似点は、『駅に爆弾を仕掛けた』ってことだけだ。仙台駅で使われたのは自家製鉄パイプ爆弾だ。逆に言うと、それ以外に共通点がない。軽々に『解放戦線』だと断定できないし、どうせ知ってるだろうから言うが、道警が取り逃がしたのは学生風の若いあんちゃんだ。そこで聞きたいが、山本、札幌の学生運動ってのは、どのレベルまで浸透してるんだ?」
「レベルってなんだ?」
「北大で盛り上がってるのはわかるが、ほかの大学まで飛び火してるかどうかだ。お前んとこ、地元企業に強いだろう。たとえば北海学園だとかはどうなんだ?」
「自治会では同調してるな。『赤い鳥』の北海道学生部会が食い込んでるかどうかまではわからんが」
山本の言葉を聞いて、上河はセブンスターに火を点けた。内務第二課室で一本吸うつもりだったが、渡部に立て続けで三本吸われて追い出された格好だったから、何時間かぶりの一服だ。
「三月に大通で決起集会やってたが、たいした規模じゃなかったな。お前の元職場はずいぶん好意的に書いてたが」
「回りくどい言い方をするな。新報は道新がリベラル路線だから、差別化してるのさ。もっとも、学生運動は全国的にもう下火だろう。いま活動してるのは、もう出来上がったプロの連中だ」
「だから気にしてるんだ。札幌は流行に敏感らしいが、そっちまで敏感になられても困る。道警機動隊はいつでも出動可能な臨戦態勢を崩してない。北大でバリケード闘争なんてやられたら、オリンピックは吹っ飛ぶぞ」
「それは困る。オリンピックがなくなれば、札幌は借金しか残らん」
「だから気に食わないんだ、おれは」
「まあ、石狩湾重工業地帯が軌道に乗れば、そっちの方が歓迎されるだろうが」
「東急が石狩まで線路を敷くんだってな。いつ開通予定だった?」
「五三年」
「八年後か。ずいぶん先の話だな」
「南北線の新琴似延伸と同時開業だ。港自体はもう着工したし、出光や日石が石油備蓄基地を作るっていうし、流通業も建設業も製造業も、こぞって土地を買いあさってるよ」
「あの原野が重工業地帯になるなんてのは、たちの悪い冗談みてぇだ」
「お前にしてみたら、警戒対象が増えるってことだべ?」
「企業が来れば労組も来る。いまじゃ労組が来れば労働争議だ。するとヒダリのシンパもやってくる。北海道が赤い大地になるのは困る」
「トマトが赤くなると医者が青くなるってか? お前らが赤いのが来ると青くなるんじゃ、おれたち善良な市民は困るな」
「お待たせいたしました」
会話が一区切りつくのを見計らったように、鈴の音の声が湯気を立てたスパゲッティと、上河のコーヒーを運んできた。
「これこれ」
髭面が子供のように表情を崩した。ミートソースは缶詰ではなく、ここの料理長が毎日手作りしている。トマトソースは鷹栖や平取で栽培される露地物のトマトから作った濃厚な味で、挽肉は道内の契約畜産家から仕入れているのだと、山本は目を細めて語る。「よくご存じですね」とウェイトレスが嬉しそうに笑う。上河にしても、ここのブレンドコーヒーはいけると思っているが、わざわざ口に出してほめたたえる必要は感じない。ウェイトレスが去ると、山本は器用にフォークでスパゲッティを絡め取り、すすることなく口に運んだ。
「本題はなんだ」
半分ほどスパゲッティを食べ、口を動かしながら山本が訊いた。
「豊平駅の件を話に来たわけじゃないんだべ? 何が知りたい?」
道警時代の同僚から、山本の記者ぶりは聞いていた。いわゆる「敏腕」の部類に入る男だったという。そうでなければ、上河は山本と情報交換を続けなかった。
「単語だけだ。『第三恭順区』。『整備指示書紛失』。憶えはあるか?」
フォークに巻きつけたスパゲッティを口に運び、咀嚼してから、注ぎ足されたお冷を山本は飲む。それから鋭い目つきで上河を見た。
「オロフレ峠。夕張。それが第一と第二だ」
「恭順区なんて言葉、連中らしくないと思った。『解放区』ならわかるが」
「おれも同感だ。東京の連中なら『解放区』って呼んだべな。第三がどこを指すのか、ウチはまだつかんでない。……お前はどの筋から聞いた?」
「ネタ元は明かせないって言いたいところだが、『協力者』からだ」
山本ならばここまで言っても差し支えない。公安警察が監視対象組織内部で育成するいわばスパイを「協力者」と呼ぶのは知れ渡っていることで、だいたい山本本人も、マスコミ関係の「協力者」の一人だからだ。協力者へは様々な便宜を図る。金銭であったり、職位であったり、様々だ。山本に対しては、国家公安機構……国公機がつかんでいる「情報」がそれにあたる。協力者と運営者間では何よりも信頼関係が重視される。信頼関係が崩壊しかければ、何らかの圧力で追い詰めることになるが、山本との関係は良好だ。情報がおかしな洩れ方をする心配はない。漏れればすなわち上河も道連れになる。
「こっちは、札幌の企業同友会関係から聞いた。組合活動で学生とつながってるのがいるんだな。第一恭順区が恐るべき『総括』の舞台になったオロフレ峠で、第二恭順区が炭鉱の荒くれ者たちの飯場に間借りした夕張で、第三がどこにあるのかは、おれも知らない」
「長沼はどうだ?」
「空軍の地対空ミサイル基地の隣だぞ? そりなにあれはただの立てこもり小屋だろう」
「『赤い鳥』の連中が地元の農家をそそのかして反戦活動の拠点にしちまったじゃねェか」
「拠点になってないから安心しれ。けどまさか、お前から『第三恭順区』が出るとは思わなかった。そっちの読みで『第三』は何なんだ?」
「オロフレ峠の代替施設じゃないのか。兵隊ごっこの拠点だろうが、豊平駅の件で調べないわけにはいかなくなった」
山本がスパゲッティを全部平らげた。食事中は遠慮していたセブンスターに上河は火を点けた。山本は煙草を吸わないから、露骨に嫌な顔をされた。
「で、『整備指示書』ってなんだ?」
目の前に漂う煙草の煙を手で振り払い、山本が訊いた。
「しらばっくれやがって。知ってるんだろう」
上河は煙を天井へ向けて吹きあげた。
「まあ、国公機が第三恭順区を狙ってるってのが分かっただけでもよしとするか。どうせおれとの話は、お前の取材の裏取りなんだろう?」
「立場が逆だ」
「おれもそうだから気にするな。『整備指示書』の件な、あれは絶対に表に出ないぞ」
「そういうたぐいの話か」
「ちょっと待て」
山本は遮り、手を上げてウェイトレスを呼んだ。セブンスターを吸いながら、上河は窓の向こうへ顔を向けた。四月の暮れはじめた札幌の中心部が見える。建設中のビルの資材つり上げ用クレーンがやたらと目立つ。紅白か。そうか、建設を祝ってるんだな。外の照度が下がっているため、ガラス窓にウェイトレスと山本のやり取りが映って見えた。山本は記者としての技術なのか、それとも生来の気質なのか、やたらと慣れ慣れしい口調でウェイトレスにアイスクリームを発注していた。町村農場ね、おいしいよね。あ、私も好きなんです。君、高校生? いえ、北大の二年生です。どこ出身? 旭川です。山本が自分に話を向けないか心配になるが、無視を決め込んで、ゆっくりとセブンスターを吸った。ウェイトレスが去ると、二焼け顔を残したままの山本がこちらを向いていた。
「かわいいね、いまどきの子は」
「あっちもこっちも仕事中だぞ。少しはわきまえろ。で?」
「なんの『整備指示書』なのかは、つかんでるんだな?」
「戦闘機だ」
「それがニ八式戦だってこともだな?」
「千歳の部隊だろう?」
「一致したな。話しても構わないようだ。二八式戦の緒元から行くか」
「手短に頼みたいんだが」
「なぜ二八式戦なのか、それが重要だからだ」
「空軍の最新鋭戦闘機だ」
「本州ではいまでも二〇(ニーマル)式戦闘機が主力だ。あのまっすぐしか飛べないような戦闘機だぜ。ありゃ、昔の海軍のゼロ戦と同じ発想だ。エンジンが非力だから、強引に機体側を軽くするしかなかった。ベトナムでさんざん苦労してるってのもうなずける」
「で」
「インドシナ紛争に派遣された二〇式は、アメリカ空軍のF-4(ファントム)が大活躍するのを尻目に、せいぜいが連合艦隊に接近する北ベトナム軍のMiG戦闘機を追い払うくらいしかできなかった。で、中島飛行機が開発したニッパチ戦は二年前に制式配備。千歳の二個飛行隊は、最初の実戦部隊だ。だから『二八式要撃戦闘機の整備指示書紛失』だ、正式には」
聞いて上河はかろうじて無表情を保つ。
「……大問題だな」
「大問題だ。だから絶対に報道されん。いろんな意味で、報道したら潰される」
「そのネタは事実なんだな?」
「千歳の飛行第五四戦隊の戦隊長が五月一日付で小牧の輸送機部隊に異動になる。引責だ」
「そうか」
「それ以上訊かないのか」
「訊いたら答えるのか?」
「内容による」
「『赤い鳥』か」
三本目のセブンスターに火を点けた。タイミングよくウェイトレスがアイスを運んできた。ウエハースだけ欲しいと上河は思ったが、真っ先に山本が音を立ててかじっていた。
「『解放戦線』が戦闘機の整備指示書を必要とする理由がない。対戦車地雷でいうお前の消去法と同じだ」
「言い換えれば裏が取れてるわけじゃないんだな?」
「お前はどうなんだ?」
山本はスプーンを口へ運び、続く言葉を濁した。そっちの協力者から聞いてないのか? あわよくばその情報まで吸い上げようとの腹積もりで。
「想像に任せる」
ちびりちびりと飲んでいたブレンドコーヒーが空になった。話も切り上げ時だろう。必要な情報の裏は山本から取れた形だ。それにしても、整備指示書紛失の件は事の重大さを裏付けているようで上河は薄ら寒い思いがした。何かが始まっている。何かだ。