0話「序」
普通に生きる。波風の立たない人生を、凪いだ海を漂うように過ごして終える。それが小学生の頃から願い続けている人生の目標だ。ある友人は目標の達成に対して、確かな口調で「君の生き方では無理だと思う」と笑った。何も言い返せなかったのは、それまで普通に生きることを念頭に置いて生活していたにも関わらず、結果として、普通に生きることを無意識的に避けてきたからだ。自分の気持ちに、素直に生きている自信があった反面、それは普通に生きるための足枷でしかなかった。今では友人の言葉に納得している。つまり、おかしいことに異議を唱えただけで普通に生きられないのであれば、自ら、その無意識的な言動を修正しなければならないのだ。
自宅近所のコンビニに、遅めの昼食を求める真夏の昼下がり。レジカウンターを前にして声を荒げる男性客の腕を掴んでしまった俺は、大学生になっても未だに修正が効かない己の性分をこれでもかと呪っていた。男は嫌がる女性店員の手にメールアドレスが書かれた紙を持たせた上、目に余るほど、粘着質な態度で絡んでいた。店員の様子を見てもなお、一向に引かない男のポジティブ思考にも目を見張る。この程度の事態が静観できない俺のことを、当事者の二人はそれぞれ視線を泳がせて窺っていた。出方を探っている点では、こちらとしても同様だ。振り返った男の目には、野生動物にも似た鋭い眼光が見受けられた。
「なんだよ、邪魔するなよ」
「店員さんが嫌がってるじゃないですか。もう、やめませんか?」
「お前にそんな事を言われる筋合いは無いだろ!」
俺の手を振り切るつもりなのか、悪に対抗するためと言わんばかりの力が男の腕に入る。同じく、悪に対抗するための力で腕を強く握り返すと、その些細な抵抗はすぐに収まった。男の肩越しに目が合った店員は、綺麗な茶髪のポニーテールに子犬顔が可愛らしい女の子だった。なるほど、心惹かれるのも無理はない。年齢は高校生ぐらいだろうか。豊かな胸元に光るネームプレートには白鳥の二文字があった。
「とにかく、今後は白鳥さんに近付かないでくれませんか? 彼女は僕の恋人ですから」
「は? 付き合ってるのか……?」
咄嗟に頷く店員を目の当たりにした男は、明らかに動揺していた。しきりに、俺と店員の顔を見比べながら後退りする。終いには背中から商品棚に突っ込むと、その衝撃で彼の足元に幾つもの菓子箱が音を立てて転がり落ちた。コンビニ店員にアドレスを渡すだけの欠陥が羞恥心にあったとしても、この状況に反応できるものではあるはずだ。きっと恥ずかしいに違いない。男は数秒間の沈黙を挟むと水面に上がった魚のように口の開閉を繰り返し、脱力した表情を浮かべて店内から去っていった。発言する余力も無かったようだ。ヨタヨタと覚束無い足取りで、駐車場の縁石に蹴躓いている。
レジカウンターには男が会計をするはずだった商品がそのままの状態で並んでいた。週刊誌とペットボトル飲料水だ。まるで、飽くまで店員ではなく商品が目的なのだという男の見え透いた嘘と主張が表れているように見える。欲望はなるべく隠したかったようだ。放心していた店員の眼前でわざとらしく手を振ると、彼女は「あっ」と呟き、カウンターの上を手短に片付け始めた。
「ごめんね、急いでいるから」
「はい。あの、大丈夫です」
とにかく腹が減っていた。二人分の弁当と惣菜をカウンターに置いて、早々に会計を済ませる準備に入る。母さんに言われて仕方なく昼食を買いに来たが、これでは自宅で何か作った方が早かったかも知れない。
店員は何事もなかったかのような淡々とした態度で商品のバーコードを読み取っていった。ポイントカードを出して料金を支払い、会計を終えてレジ袋を受け取る。足早に店から出ようとする俺の腕をカウンター越しに掴むその寸前まで、彼女は無表情だった。子犬のような顔をして、涙ぐんだ目でじっと見つめられては抵抗する気も起きない。
「なんですか?」予想外の足止めに疲れが押し寄せる。
「なんですかって、そちらこそなんですか。お礼ぐらいさせて下さい」
「嫌ですよ、お腹が減っているので」
「えっ」
パッと腕が離される。これを好機と捕らえて店から出ようとすると、カウンターから飛び出した店員が自動ドアの前に仁王立ちした。早く帰宅して昼食を摂らないと、どうにかなってしまいそうだ。
「ちょっと! ちょっと待ってください!」
「お礼は要りません」
「嫌です!」
「あ、そうだ。さっきは恋人だなんて言ってしまって、すみませんでした」
「そんなことはいいですから、お礼をさせて下さい。ちょっと待ってて下さいね? そこから動かないで下さいね!」
勢い良く言い放った店員はカウンター裏の奥、恐らくスタッフルームへと消え去った。一見すると気の弱そうなお嬢様にも見える容姿だが、そんなことはないらしい。実際に行動力があるからこそ、俺は店内で待たされている。暇を持て余して、雑誌コーナーで立ち読みを始めた頃に帰ってきた店員の細い手には、先程の男が渡していた紙の切れ端とは別の小さな紙が握られていた。桃色の愛らしいキャラクターデザインが施されたメモ紙だ。嫌な予感がした。いや、当人がついさっきまで同じ迷惑を被っていたのに、そんなわけがない。
「あのー、これ、私の携帯の電話番号が書いてあります。良かったら、迷惑じゃなければ、電話して下さい!」
そうして、俺の手に紙を握らせる。彼女は嫌な予感通りの人物だった。
「正気?」
「大真面目です! ええっと、それと、お名前を聞いても?」
拒否をしても、きっと、帰宅させてくれないのだろう。やはり、抵抗するだけ無駄な気がした。
「島原塔矢です」
「じゃあ連絡して下さいね? 塔矢さん!」
猫のようにじゃれついてくる声が、とにかく不快だった。
「約束は出来ません。次に来た時は、普通の客として扱って下さい」
言い捨てて、彼女から逃げるように店外へ出る。エアコンが効いた店内と、店外の熱気による気温差が身体に悪いのだろうか、やけに頭が重く感じた。
店員には悪いが、約束できないことは言葉にしたくなかった。それに、これから連絡をしなければならないのも面倒な話だ。俺は普通に生きていくことが目標で、その目標の達成に彼女を必要とはしていない。余計な波風は立たせたくないのだ。
俺はメモ紙を丸めて無造作にポケットへ入れると、アーク豊嶺への帰路に着いた。