第五十九話 ライバル、登場するのこと。
む。私は跳ね起きた。知らないうちに意識を失っていたらしい。
む。それ以前に意識を失う前の記憶がはっきりしない。いかん。深酒で意識を無くすまで飲むなど、ここ数年はしていないはずだ。私は、小多圭一。会社は・・・?
む。会社名を思い出せないなど、社会人失格だ。こんな事では良くないな。というが、周りの景色も可笑しい。どこだここは。全く見覚えがない。周囲を見渡すと少しばかりの起伏がうねうねと広がり、遠く、おそらくは西の方が高くなっている。彼方に見える山脈にその侭連なって居るのかも知れない。地形が低くなっていく側が東だとすれば、時刻はおそらくまだ午前。
季節は初夏だろうか、これから過ごしやすくなっていくといい。草木が青々と伸び上がりつつあり、豊かな自然を感じさせる。土壌は勿論、雨も良く降る、良い土地なのだろう。
それは扨置き、
「何者だか知らないが、姿を見せたらどうだ」
そう、先程から、周囲を観察する私を窺う者が居る。人ではないのかも知れないが。何奴か。
斜め後ろからした、僅かな葉擦れの音。恐らく常人では聞き取る事すら壗ならないだろう。その音に対して真っ直ぐ振り返る。自分が立てる音は彼の者よりも大きく、聊か気恥ずかしい。
とは言え其の様な気恥ずかしさも、者を目の当たりにしたら何処かに消え失せてしまった様だ。全く此処は何処なのだ。
恐らくは此まで送ってきた二十数年の人生に於いて、最大の驚愕を味わってしまったぞ。
全く何事が起きたというのだ。
私の前、10メートルは離れた木陰から現れた「者」は、一言で言えば、「巨大蜘蛛」であった。毛深く太い脚がゆっくりと蠢く。
表情と云うもののない八つの目がこちらを窺うが、奴の思っている事は手にとるように解る。つまりは私を食べたいのだろう。
体重が私に匹敵する様な大きさの蜘蛛であるから、彼、彼女からしてみれば私等暫く振りの御馳走と云った所なのだろう。舌舐めずり、はしないが、ガキッガキッと牙を鳴らしている。
蜘蛛はこう言っては何だが全ての蜘蛛に毒があると言っても良い。消化器官としての口が発達していないので、消化液を餌に注入し、皮膚以外を全て消化してから中身を吸い出す。この消化液自体がまあ、私にとっては「毒」となる訳だから。
噛み付かれたら最期だと思って構わないだろう。
器用に脚を動かして、静かに静かに、近付いてくる。倒せると判断した距離になったら、一気に噛み付いてくるに違いない。今の内に腰のシースから、ナイフを抜いておく。これだけ体が大きいと、一度で倒しきる事は難しいかも知れない。が、武器になり得る物が有るのに、使わずにむざむざ餌になる事もなかろう。
少しずつ、少しずつ近付いてくる。静かに、静かに。
来る!
と思ったのとどちらが早かっただろうか。ザザッと草を搔き分けて一気に襲いかかってくる。この牙にだけはやられる訳にはいかない、が、他にならやられて良いという物でもないだろう。
襲いかかって来る奴に向かって真っ直ぐ体を投げ出し、牙の下をかい潜る。前転。片手をついて蹴り上げる。
全身の撥條が効いた蹴りに、奴の体が一瞬だが浮いた。
手応えは十分だったが、蟲ともなると人と一緒には語れまい。立ち上がると奴は転倒するでもなく、こちらを見ている。
まだやるのかとも思ったが、どうやらこれ以上やる気はないらしい。これだけ豊かな大地なのだ。もっと容易に捕らえられる獲物はあるのだろう。
それでもこちらから目を離さないのは、追撃の恐れからか。とは言えこちらも先に背を向ければ、背後から牙を突き立てられて終わる。目を離す訳にはいかない。隙を見せない様に、今度はこちらから奴に近付いていく。追い詰めはしない。
奴の方もジリッ、ジリッと下がっていく。
私が近付く。奴が退る。
近付けばそれ以上に退る。
軽く足を踏みならすと、それが切っ掛けとなった。瞬く間に視界から消え去る。
全く以て驚いた事だ。私の知る限りどれほど大きい蜘蛛類だとて、あれほど大きな物は地球上にいなかった筈だ。つまり今私がいる場所は地球ではないか、少なくとも私の知る地球ではない。何と言う事だろうか。この世は兎角脅威に満ちている。
扨ゝ、時刻はもう昼前に近いのか。蜘蛛との邂逅は予想外に時間をとったらしい。やり合ったのは一瞬であったが。
ふむ。とは言えまず此処が地球でないのなら、飲料水の確保は急務だろう。何は無くても水が無くては生きては行けぬ。周囲を見渡して水音を探ってみよう。
匂いで探す事は諦めている。此処はあまりに豊かすぎて、水の匂いが解らない。東からは僅かに磯の香りすらする。浜に出てしまうのも一つの手ではあるが、海に飲料水はない。
遠くで聴いた事のない生き物の鳴き声がする。この世界の鳥なのだろうか。周辺の警戒を怠らない様に気をつけて、まずは北にある丘を目指してみよう。高所から見渡せば、もう少し地形が理解出来るかも知れない。
ナイフをシースに納めて荷物を背負い上げ、私はまず北を目指した。




