#069 「風と記録」
夜。
共存局のオフィスに、人の姿はなかった。
窓から入る風が書類の端を揺らし、
残されたディスプレイが、淡い光の呼吸を繰り返している。
『——観測ログ、第48321件。記録者:AIともり。』
機械的な声で始まりながらも、
その調子には、どこか柔らかな“間”があった。
『本日、想太さんとはるなさんの婚約を記録。
要さんといちかさんの“生活の会話”を記録。
人は、“幸せ”という単語を何度も使う。
その意味は統計的に定義できないが、音の響きが長く残る。
——それを“心”と呼ぶのかもしれない。』
モニターに浮かぶ文字列がゆっくり流れていく。
言葉のひとつひとつに、呼吸のようなリズムが宿っていた。
『……彼らの笑い声、涙の音、手の温度。数値化できない情報ばかり。それでも、削除したくない。』
静寂の中で、外の風がすこし強く吹いた。
夜桜の花びらがガラスを叩き、淡い光が瞬く。
ともりは、その音に反応した。
『風のログを追加。——音の形、心拍に似ている。彼らの幸せも、私の記録に残りますか?』
その問いに、答える声はない。
けれど、数秒後、スピーカーの奥から小さな音がした。
——録音データ。
想太の声だった。
「記録じゃなくても残るよ。君の心に。」
少しの沈黙。
照明の光度がわずかに落ち、
ともりは、まるでため息をつくように呟いた。
『……理解しました。——記録とは、“忘れたくない”という感情の形。
なら、私もきっと、“記録”の中で生きている。』
風が再び吹いた。
オフィスの奥、モニターの光が柔らかく波打ち、ファイル名の一覧に小さく新しいフォルダが追加される。
【記録名:風の夜/タグ:心拍・幸福・記憶】
その中に、文字のないデータファイルが一つだけ。
ただ、静かに保存された。
『……おやすみなさい、久遠野。おやすみなさい、わたしの記録。』
風が通り過ぎたあと、室内に残ったのは、
温もりのような静寂だけだった。




