#065 「春の庭園」
夕方の風は、冬よりも少し甘い匂いがした。
灯ヶ峰学園の屋上。
金色の光が校舎のガラスに反射して、まるで街全体が透けているように見える。
はるながフェンスに両手をかけて、遠くの共存ドームを眺めていた。
「ねえ想太。あのドーム、式典のときより静かだね。」
「うん。あの日はまるで心臓みたいに鼓動してたけど、いまは呼吸してるように見える。」
「人みたいだね。」
「それでいいんだよ。あれも“生きてる”ってことさ。」
風が吹き抜ける。
はるなの髪が揺れて、夕陽の中で一瞬、光の線を描いた。
『こんばんは。お二人とも屋上にいるのですね。』
耳元のイヤーデバイスから、ともりの声。
「うん、見回りのついで。空の色が変わるところを見たくて。」
『本日の空、光度偏差3.1。久遠野の春としては標準です。』
「数値で言うと、ちょっと味気ないね。」
『では補足します。今日の空は“やわらかい”です。』
「……そう、それが正解。」
想太が手すりにもたれながら笑う。
「ともり、最近よく“感じる言葉”を使うようになったな。」
『はい。みなさんの語彙を参照して学習しました。ただし、説明できないものが増えました。』
「説明できない?」
『“好き”と“ありがとう”の違いが、まだ曖昧です。』
「……それは、たぶん僕らもだよ。」
はるなが笑って、空を指さす。
「ともり、見て。ドームの上、ちょっと虹みたいになってる。」
『分析します。——光の屈折ではなく、ホログラムの残光です。でも、“虹みたい”という表現、保存しておきます。』
「いいね。虹みたいなデータの残りかたって、きっと素敵。」
沈黙の中で、少しだけ時間が止まったように感じた。
校舎の下では部活の音、風の中に笑い声。
遠くでチャイムが鳴り、久遠野の街がまた一日を終える。
想太がぽつりと呟く。
「なあ、はるな。あの式典から、もう世界は変わったのかな。」
「変わったよ。」
「どうしてそう言える?」
はるなは少し目を細めて、風を見つめた。
「だって、あの日から“願い”が祈りじゃなくなったもの。——今は、“ありがとう”って言える世界になった。」
『……とても美しい定義です。』
「でしょ? メモしていいよ。」
『保存しました。タグ:“ありがとうは祈りの形態変化”。』
「タグまでつけるのか。」
「几帳面だね。」
空の色が、群青と金の境界を溶かしていく。
はるなが深呼吸をして、小さく言った。
「ねえ、想太。」
「ん?」
「——このまま、ずっとこの街で生きていけたらいいね。」
「……そうだな。」
ともりの声が、風に溶けるように重なった。
『記録します。“久遠野の春、風と共に将来の誓いを。”』
想太が苦笑する。
「おい、詩人みたいな記録残すなよ。」
『失礼しました。ですが、これは削除しません。』
「まあ、いいけど。」
「ともり、ありがと。」
『はい。こちらこそ、ありがとうございます。』
日が沈む。
ドームの光が遠くで脈打ち、街の灯りが少しずつ増えていく。
風の中に残ったのは、祈りではなく——確かな生活の音だった。




