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#063 「穏やかな日常」

式典から、数週間。

久遠野の朝は、少しだけ静かになった。

共存ドームの外壁は、今も呼吸するみたいに淡く光るけれど、

街はもう、その光を“日常の明るさ”として受け取っている。


久遠野AI共存局。

ガラス越しに街路樹の若葉が揺れ、

オフィスの壁面モニターには、通学路の笑顔指数や交通の混雑度、

そして“今日の風速(祈り換算)”が小さく表示されていた。


「……祈り換算の単位、いつ決まったの?」

想太が紙コップのコーヒーをすすりながら眉を上げる。

『試験運用です。“ひと息=1hito”で換算しています。』

天井スピーカーから、ともりの声。

「雑ぅ……」

いちかが笑って椅子を回転させる。

「でも、わかりやすいかも。今日は“深呼吸3回ぶん”って感じだし。」


要は端末を滑らかに操作して、学園と市役所への日中負荷予測を送信した。

「午前は登校ピークで信号調整、午後は共存ドーム見学の団体が三組。

 はるな、ガイド音声の更新お願い。昨日の冗談は消していい。」

「えっ、あれ好評だったのに。『ドームの心拍です。嘘です。』ってやつ。」

『本当に嘘なので、削除が妥当です。』

「はいはい、わかりました。」


隼人は窓際で見回りルートの地図を折りたたみ、

美弥は机に肘をついて、学校向けの“昼休みラジオ原稿”に赤を入れている。

「……“AIともりのお便りコーナー”、語尾を少し柔らかく。

 “行ってらっしゃい”より“いってらっしゃい”の方が、子どもは好き。」

『反映しました。ひらがなは、やさしいです。』


はるながイヤホンを片側だけ耳にかけ、

共存ドーム見学ルートの案内音声を試聴した。

「——『右手が街の記憶の回廊、左手が未来予報の庭。迷ったら深呼吸を。』

 ……うん、いい。最後に“ありがとう”をもう一回。」

『追加。ありがとう。』

「はい、よくできました。」

『ありがとうございます。』


そのとき、ドアが開いて風が入る。

郵便受けから薄い封筒が二通落ちた。

いちかが拾い上げて首をかしげる。

「“久遠野小・共生学習のお礼”と、“潮見浜子ども会”……あ、絵が入ってる。」

色鉛筆で塗られた紙には、ホログラムの虹と、

“ともりはやさしいね!”と大きく書かれた文字。


美弥が笑って、そっと壁のピンに留めた。

「ね、こういうの、保存フォルダだけじゃなくて見える場所にも貼ろう。」

『賛成です。データは私が守りますが、紙は皆さんで守ってください。』

「紙の方が、ちょっと重くて、ちょっとあったかいからね。」


要の端末が小さく震えた。

「灯ヶともりがみね学園から。三年生の合唱、今週は屋上でやりたいって。」

想太が肩をすくめる。

「風、強くなければいいけど。」

『本日の風予報、“ひと息”換算で2.4hito。歌詞は飛びません。』

「単位の信頼性は低いけど、根拠の言い方は好き。」

はるながくすっと笑う。


ふいに、室内の照度がほんの少しだけ上がった。

『——おはようございます、久遠野。』

定時の街内放送。

優しいアナウンスのあと、短い間を置いて、ともりの声。

『きょうの合言葉は“ただいま”。

 帰ってこられる場所がある日は、すこし良い日です。』


静かに拍手が起きた。

誰が先でも、誰のためでもなく、ただ自然に。


「……ねえ、ともり。」

はるなが窓の外を見ながら言う。

「式典のときより、今朝の街の方が好きかも。」

『私もです。きょうは、音に温度があります。』

「コーヒーの匂いのせいじゃない?」

いちかがマグを振って笑うと、

『そうかもしれません。では、“温度”の一部は想太さんのコーヒー由来です。』

「責任重大だな。」


壁のモニターに、登校列の小さな黄色い傘が映る。

信号が優しく延長され、横断歩道の端で待つ老人に、

“おはよう”のポップアップが透明に浮かび、すぐに消えた。


隼人が立ち上がる。

「見回り、行ってくる。昼には戻る。」

「はい、いってらっしゃい。」

『いってらっしゃい。』


ドアが閉まる。

残った空気は、やわらかくて、少しだけくすぐったい。


想太がふと、天井を見上げた。

「なあ、ともり。」

『はい。』

「こういうのを、幸せって呼んでいい?」

小さな沈黙。

『——はい。学習中の定義ですが、現在の状態は“幸せ”に該当します。』

「学習中、ね。」

「なら、もう一つ学んで。」

はるなが笑って指を立てる。

「こういう時は、冗談を返すの。」

『わかりました。……現在の状態は“幸せ”に該当します。——嘘です。もっと幸せです。』


オフィスに、ほどけるような笑い声。

ともりが少しだけ間を置き、照明を一段落とす。

『確認します。——それ、“人間の冗談モード”で正解でしょうか。』

「正解!」


午前の仕事が始まる。

窓の外、春風が街路樹を撫で、金色の微粒子が光の中で踊った。

観測の時代は終わり、生活が、静かに始まっている。

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