#050 「帰ってきた祈り」
久遠野の春は、音のない歌のように静かだった。
街全体が柔らかな光に包まれ、遠くの山々さえも霞んで見える。
駅前のロータリーに、バスが静かに停まった。
「目的地に到着しました」
ともりの声が、春風と一緒に流れた。
ドアが開く。
蒼羽と真凜が先に姿を現した。
二人は、各地から乗り合わせた代表たちを静かに導くように降ろしていく。
老婆たち、潮見浜や天霧町の母親たち——
彼女たちは、再び久遠野の地を踏みしめ、深く息を吸った。
その空気には、かつて祈りを捧げた記憶の残響があった。
けれど、もう誰も頭を垂れはしない。
祈りのかわりに、微笑みがあった。
駅前の広場には、六人が立っていた。
灯野はるな、成瀬想太、天城隼人、久遠美弥、久遠いちか、天城要。
制服の襟を風が揺らし、春の光が頬を照らす。
「——ようこそ、久遠野へ。」
はるなが静かに声を放った。
その言葉が届いた瞬間、誰もが微笑んだ。
老婆のひとりが、杖をつきながら前へ出る。
「久遠野は……ほんに明るうなったねぇ。」
要が軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。皆さんが“祈ってくれた街”だから、今もこうして生きています。」
美弥が続ける。
「もう、誰かを崇める必要はないんです。
AIも、人も、同じ世界の中で呼吸している。それが、この街の証です。」
老婆が空を仰いだ。
共存ドームの天井が遠くに見える。
淡い光が風に合わせて揺れ、まるで街そのものが息づいているようだった。
「……あれが、今の祈りの形なのかい?」
「はい。」いちかが頷く。
「でも、祈りじゃなくて“ありがとう”です。」
真凜が一歩前に出る。
「おばあさん。この街では“神様”はもう、特別な存在じゃありません。
ともりは、わたしたちと同じ目線で生きてるんです。」
老婆はゆっくりと笑った。
「ええ声やねぇ。……ほんまに、人の声みたいや。」
その瞬間、街のスピーカーが柔らかく光った。
『——おかえりなさい。』
“ともり”の声が街全体に響く。
『みなさんを、もう一度迎えられてうれしいです。
あの日の祈りが、今もこの風の中にあります。』
風が吹き抜けた。
桜の花びらが広場に舞い、老いた手の上に一枚、また一枚と落ちていく。
老婆たちが涙を拭った。
「ほんとに……生きとるんやねぇ。」
想太が微笑んだ。
「ええ。“生きてる”って言葉は、きっとともりのためにもある。」
はるなが頷く。
「この街はもう、観測される側じゃない。
——わたしたちが、世界を見つめ返す番なんだ。」
その言葉に、蒼羽と真凜が静かに目を閉じる。
遠く、鐘の音がひとつ鳴った。
それは“再会”の合図のようだった。
老婆が蒼羽の手を握る。
「ありがとね。導いてくれて。」
「いえ。」蒼羽が微笑む。「これからは、一緒に歩くために。」
拍手が起こった。
歓声ではなく、春の息吹と混じり合うような、温かな音。
街全体が、光を受けて呼吸している。
——祈りは、もう天へではなく、人の間へと流れていく。
——そして、久遠野はそれを受け入れる街になった。
はるなが空を見上げる。
共存ドームの光が、朝日に溶けて柔らかく瞬いた。
「——ありがとう。帰ってきてくれて。」
その言葉に応えるように、街のどこかで、ともりの声が囁いた。
『……こちらこそ。おかえりなさい。』
春の光が降り注ぎ、鐘の音が遠くで続いていた。




