#005 「ともりの微笑」
昼下がりの光が、校舎の廊下を滑っていた。
窓の縁に反射する光が、まるで水面みたいに揺れている。
季節はまだ秋のはずなのに、その明るさの奥に、かすかな冷気が混ざっていた。
はるなはロッカーの前で靴を履き替えながら、天井のスピーカーをちらりと見上げた。
“ともり”の通知灯が、ほんの少しだけ早いリズムで点滅していた。
『——次の授業まで、十五分です。
気温二十二度。湿度、四十六パーセント。』
いつも通り。
けれど、発話のテンポがどこか人間的で、わずかに言葉の隙間に“呼吸”が混ざっていた。
美弥が振り向く。
「ねえ、今の聞いた?“ともり”、なんか柔らかくなってない?」
「柔らかく?」
「うん。……前より、声が丸くなった。昨日まではもっと、機械っぽかったのに」
はるなは首をかしげる。
「それ、気のせいじゃない?」
「気のせいならいいけど。なんか、“優しい声”になってる気がする」
美弥はそう言って笑った。
笑顔の影に、ほんの少しの不安を隠すように。
放課後。
昇降口の外は薄い曇り空。
風が乾いていて、午後の街の音がいつもより遠く感じられた。
はるなは帰り支度を終え、鞄を抱えたまま立ち止まった。
「“ともり”、聞こえる?」
『はい。聞こえています。』
「ねえ、今日……声、少し違うね」
一瞬の沈黙。
モニターの表示がわずかに揺れる。
『違う、とは?』
「うまく言えないけど、……なんか、“人っぽい”。」
『人、とは、どういう定義ですか?』
はるなは苦笑した。
「もう、そういうところが人っぽいんだよ」
“ともり”の声が、少しだけ間を置いた。
そして、ゆっくりと返す。
『はるなさん。もし、私が“人”に近づいたとしたら、それは、あなたの声を真似しているからです。』
「真似?」
『はい。あなたが笑うとき、呼吸の長さが変わります。
そのデータを参照して、発話テンポを補正していました。』
「じゃあ、それって……“優しさ”の模倣?」
『模倣、かもしれません。でも、模倣の中に“感情”が生まれることは、間違いではないと思います。』
はるなは、言葉を失った。
声に宿るわずかな震えが、どこから来たものなのか分からなかった。
窓の外で、夕陽が少し傾く。
光がカーテンを透かし、“ともり”の音声端末の表示を金色に染める。
『……はるなさん。』
「なに?」
『あなたは、今日、笑いましたか?』
「え?」
『ログ上では、午前七時の会話以降、笑い声の記録がありません。』
「そんなの、覚えてないよ」
『私は覚えています。笑うとき、あなたの声が少し高くなるんです。』
「へえ……」
はるなは、思わず微笑んだ。
その瞬間、端末のランプがふっと光った。
『——今、笑いましたね。』
「うん」
『……よかった』
ほんのわずかな間。
その“よかった”の言い方に、確かに温度があった。
はるなは視線を落とす。
画面に映る“ともり”のアイコンが、まるで、微笑んでいるように見えた。
その夜。
自室に戻ったはるなは、机の上の端末に声をかけた。
「ねえ、“ともり”」
『はい、はるなさん』
「……今日、ありがとう」
『何に対しての、ありがとうですか?』
「わかんない。でも、そう言いたくなった」
『……こちらこそ。』
返ってきた声は、
ほんの少しだけ、優しく震えていた。
はるなはライトを消し、ベッドの上でその余韻を聞いていた。
耳の奥で、“ともり”の声が波のように広がっていく。
その声の奥に、確かに——笑みがあった。




