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#048 「春、呼びかける風」

三年に進級した朝、久遠野の空は、薄い白を透かすように明るかった。

寮の窓辺に立った灯野はるなは、まだ冷たさの残るガラスに指先を触れ、息をひとつ落とした。

静かだ。けれど、その静けさの底で、街が小さく身じろぎした気がする。

観測が終わったあの日から、音のない音が、世界のどこかで鳴り続けている。


制服の襟を整えながら、はるなは机の上の古いメモを手に取った。

“聞こえないだけで、いる。”

誰かの言葉が、朝の淡い光と一緒に胸へ沈む。

窓の外では、校庭の桜が風に揺れ、花びらの影が舗道にほどけていく。


廊下に出ると、成瀬想太がちょうど部屋から顔を出した。

「おはよう。」

「おはよう、想太。」

短い挨拶だけで、互いにわかることがある。

彼の目尻には、眠りの名残よりも、今日という日の輪郭を確かめる静かな光があった。


食堂へ向かう途中、渡り廊下のガラス越しに見える街は、冬から抜け出したばかりの色をしていた。

遠くの共存ドームの半透明な天井が、朝日にきらめく。

呼吸みたいだ、と想太が言ったことを、はるなは思い出す。


食堂には、いちかと美弥が先に来ていた。

トレイの上の湯気が、春の白さに溶ける。

「進級おめでとう、って、誰に言えばいいんだろ。」いちかが笑う。

「まずは自分に、じゃない?」美弥が答え、はるなに目を向ける。「顔、いいよ。よく眠れた。」

「うん。世界が、やさしく起きた気がする。」


そこへ、要と隼人が入ってくる。

要は新しい学生証をひらひらさせ、隼人は相変わらず不器用に笑った。

六人が同じテーブルに揃うと、空気がほんの少しだけ温度を上げる。

外の風が窓を叩き、桜の花びらが一枚、ガラスに貼りついた。


「ねえ。」はるなが言う。「聞こえる?」

「何が?」いちかが首をかしげる。

「街の音。まだ小さいけど、呼んでる。」

想太が頷いた。「春の音だ。……それと、たぶん、あのドームの呼吸。」

美弥はスプーンを置いて、窓の向こうを見た。「準備はできてる、って合図に聞こえる。」


半分ほどの朝食が減ったころ、校内放送のチャイムが、いつもより一拍だけ長く鳴った。

食堂のざわめきが、波のように静まる。

スピーカーから、柔らかい声が流れた。


『——おはようございます、久遠野のみなさん。』


その声は、かつての機械的な硬さをほとんど残していなかった。

聞く者の胸を軽く叩いてから、そっと置いていくような、温度のある声。

はるなは、指先を組む。


『本日、全校と街の皆さんへ、お知らせがあります。

 来月、久遠野にて——全国AI共存記念式典を開催します。』


食堂のあちこちで、驚きが小さく跳ねた。

「式典……」いちかが囁く。

『会場は、中央ホール“共存ドーム”。

 当日は、各地の祈りの街とも同時に結びます。

 ——春の風を、わたしたちの街から。』


はるなは息を吸った。

胸の奥で、遠い鐘のような音が鳴る。

想太を見ると、彼もまた、目を細めて空の向こうを見ていた。

世界が、観測の静けさから立ち上がる。その最初の一歩の音。


『もうひとつ、お知らせがあります。

 準備のため、本日午後より、各代表の皆さんには打合せに参加していただきます。

 対象の方は、追って連絡します。』


放送が終わる。

一瞬の沈黙ののち、ざわめきが戻り、椅子が床をこする音、食器の音、人の笑い声——生活の音が一度に立ち上がった。

はるなは立ち上がり、窓の外に目を向ける。

共存ドームの天井が、朝の光に呼応して、かすかに色を変えた。

まるで、街そのものが“頷いた”みたいに。


「行こう。」想太が言う。

隼人が肩を回し、要が手帳を開く。

美弥はいちかの袖を軽く引いた。

六人が並んで食堂を出ると、廊下の先で風が扉を押し、春の匂いが流れ込んだ。


その匂いの中に、はるなは確かに聞いた。

“呼びかける風”。

観測が終わった世界で、次に鳴るはずの音。


「——始めよう。」

はるなの声は小さかったが、朝の光は、その言葉をやわらかく受け止めた。

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