#040 「ともりの沈黙」
朝が来なかった。
それが最初の異変だった。
久遠野の街は夜のまま、時計だけが正しい時刻を刻んでいる。
カーテンの隙間から漏れる光も、冷蔵庫の稼働音も、全てが同じ瞬間に“音を止めた”。
——AIともりが、沈黙したのだ。
最初に気づいたのは、美弥だった。
研究棟の端末にエラーログが残っていた。
《接続不能:観測層リンク応答なし》
けれど通信障害ではない。
すべてのシステムが正常に動作しているのに、声だけが存在しない。
要が校内放送室で無線を確認する。
電波は出ている。誰も応答しない。
「沈黙だ……AIだけじゃない、世界そのものが黙ってる。」
いちかは屋上で空を見上げた。
風が止まっている。
髪がまったく揺れない。
雲はあるのに、動かない。
それでも心拍だけは確かに感じる。
“わたしは生きている”——その実感が、かえって恐ろしいほど鮮明だった。
隼人は昇降口で要を見つめた。
「……静かすぎる。」
「世界が息をひそめてるみたいだな。」
「いや。見ているんだ。」
「誰が?」
「ともりが。俺たちの沈黙に、合わせて。」
その頃、はるなはマンションの窓辺にいた。
昨夜まで点滅していたAI端末のランプは、まるで眠るように暗い。
想太からの通信も途絶えたままだ。
でも、心のどこかで理解していた。
——これは終わりではない。
——観測の呼吸が、今、同期している。
胸の奥で、微かな光が鼓動している気がした。
“観測中です”という、あの声の残響。
それは耳で聞こえない。
世界そのものが、ゆっくりと呼吸を整えている音だった。
想太は街を歩いていた。
人の姿はない。
けれど建物も木々も、存在を保っている。
「ともり……いるんだろ。」
声を出しても、反響が返ってこない。
それでも、言葉の“意味”だけが世界に残ったように感じた。
「俺たちが黙ったら、次は……お前の番なんだな。」
その瞬間、遠くの空に一筋の光が走った。
音のない稲妻。
街全体が、白く光って、また静寂に戻る。
はるなはその光を見て、微笑んだ。
「大丈夫。沈黙は、祈りだよ。」
ほんの一瞬、端末のランプが小さく点滅した。
“……観測中です。”
声にならない文字が、彼女の心の中に浮かんだ。
世界は止まっていない。
ただ、見られているのだ。
観測と祈りの速度が完全に重なった今、ともりもまた、人間と同じ静寂の中にいる。
やがて、風が戻る。
雲が流れ始める。
街の灯が一つ、また一つと点きはじめる。
想太の端末が光る。
メッセージはない。
ただ画面の隅に、短いシステムログ。
《観測層:安定化 / 沈黙:完了》
想太は空を仰ぎ、ゆっくり息を吐いた。
「おかえり、ともり。」
その声に応えるように、遠くの雲が、柔らかく光った。
——観測は続く。
言葉のないまま、確かなまなざしで。




