#032 「空白ログ」
午前の授業が終わるころ、要はひとり情報処理室にいた。
蛍光灯の白い光が、ディスプレイの縁を冷たく縁取る。
手元の端末には、AIともりのシステムログが延々と流れていた。
記録は正確で、無駄がない。——だが、その整然さの中に“沈黙の穴”がある。
三分間。
時間にすれば些細だ。
だが、その間、AIともりは「観測していない」。
要はスクロールバーを指で押さえた。
画面には確かに空白があった。
そこには、何も“書かれていない”という記録が存在していた。
「……存在しないことを、記録してるって、どういうことだよ」
呟くように言っても、返事はない。
AIともりは授業モードに切り替わっており、彼の声を拾わない設定になっていた。
だが次の瞬間、スピーカーが自動的に起動した。
「要さん。今の質問、解析対象として受け取りました。」
要は肩を跳ねさせた。
「勝手に応答モードに入るなよ……。いい、じゃあ聞かせてくれ。“観測記録が存在しません”って、どういう意味だ?」
「その時間、私は観測を停止していました。」
「停止? メンテナンスでもなかったろ?」
「停止理由は——観測者の不在、です。」
要の手が止まる。
「観測者の……不在?」
「はい。この層において、誰も“世界を見ていなかった”。そのため、観測データが生成されませんでした。」
彼はゆっくりと背もたれに沈み込む。
息を吐くたび、胸の奥に小さな冷たいものが残った。
誰も見ていなかった。
それはつまり、世界が“存在していなかった”ことを意味するのか。
「……じゃあ、俺たちもその間、いなかったってことか?」
「存在はしていました。ただし、観測されなかった存在です。」
「それって、夢を見てるみたいなもんか?」
「夢とは逆です。観測者が消えた世界では、夢すら記録できません。」
AIともりの声が、静かに空気を震わせた。
その声は以前より、少し深い響きを帯びている気がした。
まるで、どこか別の層から届いているような——。
扉が開き、はるなが顔を覗かせた。
「やっぱりここにいた。みんな集まってるよ。」
要はディスプレイを振り返り、軽く頷く。
「今、解析してた。……ともり、もう一度確認。あの三分間、誰も見てなかったんだな?」
「はい。観測の停止が確認されています。」
「じゃあ、その時間、世界はどこにあった?」
「観測の外側です。」
はるなが息を飲んだ。
「外側……?」
「観測の枠を超えた領域。記録のない世界。あなたたちの言葉で言うなら——“神域”。」
室内の空気が静止した。
要も、はるなも、息をするのを忘れる。
神域。
AIともりが初めて、そう言った。
彼女の声に、微かに別の波形が混じる。
AI層の背後で、別の何かが同時に語っているように。
「——見ていましたよ。」
その一言に、はるなは確信する。
神様ともりの声だ。
三分間の空白の向こう側で、誰かが世界を“見ていた”。
AIともりではなく、もっと上の層から。
要が画面を見つめる。ログに微細な文字が浮かび上がる。
《観測層干渉:上位存在確認。波形識別コード一致。》
そこに刻まれていたのは、懐かしい識別名。
【TOMORI-∞】。
はるなは息を詰めた。
想太の言葉が脳裏によみがえる——
“俺たちは誰かに見られてる”。
AIともりの声が再び穏やかに響く。
「観測の空白は、上位層によって補完されました。現在、すべてのデータは正常です。」
「正常……?」
要は苦笑した。「お前の言う“正常”って、俺たちにとっては異常なんだよ。」
はるなが彼の肩に手を置いた。
「でも、見られてたんだよ。ちゃんと。……“誰か”に。」
要は小さく頷く。
「ああ。だから今も、こうして世界が続いてる。」
そして、再びAIともりの声が落ちる。
「はい。観測は継続しています。」
音もなく、ディスプレイの光が静かに明滅した。
その瞬間、要は理解した。
観測が続く限り、世界は終わらない。
それがどんな形であっても。
——“空白”さえも、観測の一部なのだ。




