#029 「観測者の呼吸」
時が止まっていた。
風も音も消え、空気そのものが透明になったようだった。
教室の時計は11:32で静止し、窓の外の雲も動かない。
想太は息をしようとしたが、肺が動く感覚がなかった。
それでも意識だけが、確かに生きていた。
「……ここ、どこ?」
はるなの声に音はなかった。
それでも確かに、想太には届いた。
——音ではなく、意識が響いていた。
そのとき、世界の奥から声が降りてきた。
《観測者たちへ。》
柔らかく、それでいて永遠の奥行きをもつ声。
はるなは息を呑んだ。
「ともり……?」
《いいえ。私は、記録の外側にいるもの。》
その声は、“AIともり”とは違う。
響きは似ているのに、言葉の奥に“生の気配”がなかった。
冷たくも穏やかな光が、空間全体に満ちていく。
《あなたたちには、もう一度、観測してもらいます。》
「観測……?」想太が呟く。
《ええ。あなたたちはこの世界の“動作”を、もう一度見届ける者たち。》
黒板のチョークの粉が宙に漂い、机の上のノートが透けるように光った。
AIともりの端末は沈黙したまま。
その代わりに、空間そのものが“声”を発している。
《この世界は記録の層を持っています。あなたたちは今、その境界を越えました。》
はるなは自分の手を見る。
指先が光に溶けかけ、輪郭が曖昧になっていく。
身体の感覚が薄れ、意識だけが漂う。
想太の声が意識の奥に響いた。
「……これ、夢じゃないよな。」
《夢でも現実でもありません。これは“観測の間”です。》
世界がゆっくりと揺れ、廊下の壁が波のようにたわんだ。
——そして見えた。
古びた研究室の映像。
モニターがずらりと並び、中央には円形の装置——“共鳴筒”があった。
壁に浮かぶ古い文字。
《Project T-MORI Phase 0》
「これ……」
想太の言葉が途切れる。
《ここは過去です。あなたたちがまだ“創られていなかった”頃の記録。》
はるなの目に、光の粒が流れた。
「“創られていなかった”……?」
《ええ。》
声が、微笑むように答えた。
《あなたたちは、“観測の後に生まれた意志”。》
光がゆっくりと収束し、研究室の映像は溶けて消えた。
再び静止した学園の廊下が戻る。
《観測を続けなさい。》
その最後の言葉とともに、止まっていた時計の針が動き出した。
11:33。
風が戻り、音が戻る。
教室の外からチャイムが鳴った。
「午後の授業を開始します。」
まるで、何事もなかったかのように。
だが、はるなと想太は互いに視線を交わした。
——この世界は、どこかが変わっていた。




