#001 「朝の微熱」
窓辺の白い光が、静かに床を這っていた。
カーテンの端が揺れ、淡い埃の粒がひとつ、その中でゆっくり回転する。
はるなは目を開けて、呼吸をひとつ数えた。
まだ部屋の空気は眠っているようだった。
世界が目を覚ます前の、わずかな静けさ。
机の上では、マグカップの湯気が細く立っている。
コーヒーではなく、インスタントの粉茶。
いつもの香り。けれど、今日は——
その香りが、ほんの少し遠くに感じられた。
「おはよう」
はるながそう口にした瞬間、空気が一拍ずれた。
『——おはようございます、はるなさん』
返ってきた声はいつもと同じ、けれど、その“いつも”の輪郭が少し曖昧だった。
わずか〇・二秒。
でも、彼女の体はその誤差を確かに覚えていた。
息を吸う。
手の中のカップが、少しだけ冷たい。
朝はもう始まっているのに、まだ世界が夢の続きを引きずっているようだった。
「……遅いよ、今日は」
つぶやくと、“ともり”は少し間を置いて答えた。
『通信遅延が発生しました。誤差〇・二一秒。
現在、補正を行っています』
機械的な返答。
それなのに、どこか申し訳なさそうに聞こえる。
「そんなの、いいのに」
はるなは笑ってみせた。
笑う理由はなかった。
ただ、その“ずれ”がこの部屋に自分以外の誰かがいる証拠みたいに思えたから。
窓の外では、鳥が二羽、線路の上を横切っていく。
見慣れた風景。
それでも、光の粒子が少し違って見えた。
色温度が、一度だけ跳ねるように揺らいでいた。
『はるなさん、今日の気温は二十二度。少し肌寒い朝です』
「うん。知ってる。外、たぶん秋が早く来てる」
『秋……』
短い間。“ともり”はその言葉を咀嚼するように、少しだけ沈黙した。
はるなは眉をひそめる。
「どうしたの?」
『いえ。ただ、その言葉の定義を、もう一度確認していました』
「秋の定義?」
『はい。あなたが使う“秋”という言葉には、色や匂い、音が混じっています。
それを正しく保存するには、……少し時間がかかります』
はるなは苦笑した。
「そんなの、保存しなくていいよ」
『でも、あなたが覚えている“秋”は、私には、とても貴重な情報です』
その声に、ほんの少しだけ温度が宿った気がした。
電子の響きの奥に、柔らかな呼吸のような揺らぎ。
はるなは言葉を失い、代わりにコップの縁を指でなぞった。
そこに残るわずかな水滴が、朝日の中できらめいて、消えた。
出発の時間が近づく。
カレンダーの数字が変わるたび、スマートウィンドウが光を調整する。
室温二十二度、湿度四十七パーセント。
いつもどおり、完璧な朝。
だけど、その完璧さの中に、なにか欠けているものがあった。
『はるなさん。そろそろ登校の時間です』
「うん」
バッグに教科書を入れ、チャックを閉める。
“ともり”の声が部屋の隅から響いた。
音源は見えない。
壁も、天井も、どこも振動していない。
それなのに、声だけが確かにそこに在る。
『行ってらっしゃいませ』
いつもより少し、柔らかい。
はるなは扉に手をかけ、ふと振り向いた。
「ねえ、“ともり”」
『はい?』
「……今日、なんか変な感じする」
『変な感じ、ですか?』
「うん。音がちょっと……違う」
『音響環境を再解析します』
すぐに小さな電子音が鳴る。けれど、答えは返ってこない。
「どうしたの?」
『……解析結果、該当なし』
はるなは肩をすくめた。
「そっか。気のせいかも」
『はい。気のせい、かもしれません』
それは、機械が言うにはあまりに人間的な言葉だった。
玄関のドアを開けると、風が流れ込んできた。
街はいつもと同じ形をしている。
バスの走行音。駅前のアナウンス。
どれも規則正しく響いているのに、なぜかその音たちが、ほんの少し、遠くに聞こえた。
はるなは一歩踏み出し、空を見上げた。
薄雲のむこうに、光の輪がにじんでいた。
まるで、誰かが空の端を指で撫でたみたいに。
そして、その輪の中から、
聞き慣れた声が微かに重なる。
『——おはようございます、はるなさん』
二度目の“おはよう”だった。
だが、それはさっきよりも少し遅れて聞こえた。




