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9話 飼い犬モチの捜索②

 その私の卑屈な心が涙を流したわけではなかろうが、空からポツポツと雨粒が落ちてきた。つい先程までは晴れていたのに、いつの間にか上空には暗雲が立ち込めている。


 この時期は夕立が起こりやすいから早めに雨宿りできる場所に移動して……と考えている間にも、雨粒はその大きさと量を激増させた。ザァーザァーと地面に叩きつける音が鳴るほどに。


 今は傘を持ち合わせていないから濡れるのは必至。私ならびしょ濡れになろうがどうでもいいことだが、ネネは風邪を引いてしまうかもしれない。


 ネネ自身が帰りたくないといった状況が状況でも、ここまで連れ出した責任は私たちにある。ネネの安全を確保するためにも急いで屋根のある場所に避難しなければ。


 幼いネネの足では素早い行動ができないから私が抱っこして移動するのが最善か。確実に目立ってしまうのでしたくなかったが、周囲に人の姿はない今なら大丈夫だろう。


 私はネネの前で膝を曲げて両手を広げる。


「ネネ、しおお姉ちゃんの体に掴まって」


 そう言うと、ネネも危機を察知したのか、素直に私の首に腕を回して抱きついてくる。


 小さい子といっても中々に体重があり、この状態で走れるか不安に思ったが、なんとか気合で乗り切り、河川敷をあとにして雨宿りできる場所を探す。


 そして疾走して一分ほど、近場に木製の小さなバス停留所を発見した。三角屋根で壁のあるしっかりした造りだ。運が良いことに誰の姿もない。


 滑り込むように屋根の下に入り、ネネをベンチに下ろす。


 すぐさま体が濡れていないかざっと確認したが、どうやら私の体が上手く雨避けになっていたようで、背中に回していた手や足がほんの少し濡れているだけだった。


「ネネ、大丈夫だった? 濡れてない?」

「だいじょうぶ、ぬれてない」

「そう。良かった」

しおおねえちゃんはすごくぬれてる。だいじょうぶ?」

「ええ、大丈夫よ。しおおねえちゃんは体が強いから濡れても全く問題ないの」


 濡れたところで体調に影響がないのは本当だが、びしょびしょの制服が肌に張りつくのは気持ち悪い。(ネネは幼いし女の子だし)制服をこの場で脱いでもいいのだが、やっぱり野外で下着姿になるのは気が引ける。


 意味のない羞恥心に翻弄される自分に呆れていると、遠くの雨雲に一筋の光が走るのが見え、



 ────ドーンッ!



 遅れて、爆破するような激しい音とともに地響きが伝わってきた。


 驚いた。落雷か。光ってから三秒ほどだったから地点は約一キロといったところか。夕立に雷はつきものだが、今日は一段と激しい日らしい。


「これは止むのに時間がかかりそうね…………ネネ?」


 視線を横に向けると、ネネが私の腕にぎゅっとしがみついていた。制服が濡れていることも構わず頭を押し当てて微動だにしない。


 どこかでゴロゴロと雷鳴が起きると、ビクッと体を震わせて両耳に手を当てる。


 どうやら雷が怖いようだ。この近さの落雷は私でもドキッとするぐらいだから幼い子は恐怖を感じて当然か。


 先ほど抱っこしたように胸に抱いて安心させてあげたいが、今それをするとネネまで濡れてしまうためできない。


「ネネ。雷が怖い?」


 優しく問いかけるが、ネネは顔を上げずにただ「うぅ……」という唸り声を出すだけ。


 そして雷は止む気配を見せない。


 励ましの言葉をかけたところで状況は変わらないし、雷の仕組みを話したところで理解できないだろうし。そもそも短時間で恐怖を克服するのは土台無理な話だ。私だってホラー系は未だに苦手だし…………あ。


 そこで昨日の出来事を思い出す。心霊の類が無理な自分がどうしたらあの廃洋館を探索できたのか。


 私が特殊なだけで効果がないかもしれないし、自ら進んでしたくないことだが、怯えるネネをこのまま放っておくわけにもいかない。


 どうせ他に方法はないのだ。やれることはやってみよう。


 私はネネの背中を優しく擦りながら声をかける。


「大きな音でびっくりしちゃうわよね。でもね、この音はネネが思っているような怖いことじゃないから安心してね」


 喋りながら頭の中でストーリーを練る。


「今ね、あの雲の中で雷の神様とその沢山のお友達がみんなで楽器を演奏してるの。ネネがスクールでピアノを弾くようにね」


 興味を引けたようで、ネネはゆっくりと顔を上げて私を見る。


「がっきしてる……?」

「そうよ。ここからじゃ見えないけど、雷の神様がお友達に楽器の弾き方を教えてるの」

「おなじおとばっかりしてる」

「まだネネみたいに上手じゃないから同じところを何回も練習してるのかもね」

「れんしゅう……なんでピカってするの?」

「雷の神様はね、嬉しい気持ちになると体が光っちゃうんだ。きっとお友達が上手く弾けた時に褒めてあげてるのね」

「ひかりがおちてきてゆれるのは?」

「あれは大喜びした時ね。あまりのはしゃぎようにパワーが溢れ出てああなっちゃうの。びっくりしちゃうけど、光が落ちてくると畑にあるお野菜がすくすく育って私たちも嬉しくなるんだよ」

「あめがふってるのは?」

「これはお友達が汗を流してるの。特に今日はたくさんのお友達がいて、みんな上手に弾けるように頑張ってるわね。もうすぐ発表会でもあるのかしらね」

「ネネもはっぴょうかいあるっ」

「じゃあお空の人たちと一緒ね。この音も光も全然怖いことじゃなくて、みんなが頑張ってるんだけなんだよ。だからネネも怖がらずに応援してあげてね」

「おうえんするっ」


 そう言って暗雲を見上げる。


 稲光が起きても瞬きするだけで視線を逸らさず、落雷が起きても(耳は塞ぐものの)私に抱きついてくることはなかった。


 少しだけでも恐怖が和らげばいいなと即興の作り話(一部本当のことだが)をしたが、まさかここまで効果があるとは予想外だ。ネネが想像力豊かで助かった。


 その後も、私は小説を書くみたいに設定を付け足していき、雷にまつわる物語を聞かせた。そのたびにネネは身を乗り出してくるほど夢中になった様子で、そこにはもう恐怖の欠片もなかった。


 そして三十分ほどが経った頃には、雨の量は見るからに減り、雷鳴も遠ざかっていった。


 心地良さすら感じるシトシトとした雨音に変わったところで、私は物語を終える。


「──どうやら練習は終わったようね。みんなお疲れ様だね」

「かみなりのかみさまとおともだち、おつかれさまっ」


 ベンチから立って空を仰ぎ見ながら両手を万歳する。出会った時よりも元気いっぱいだ。


「みんなががんばったから、つぎはネネがモチをみつけるのがんばる!」


 私は意気込みを新たにするネネを見て微笑みながらも、この雷雨の間に考えていたことを提案する。


「ネネ。お家に帰ろう」


 庭でモチと遊んでいたという私の推測が正しければ、この夕立でネネとモチの姿が無いことに家族は気づくだろう。ペットだけでも不安になるのに、ましてやそれが四歳児なら警察に連絡してもおかしくない状況だ。


 家族に言っちゃダメだというネネの気持ちを尊重してあげたくてここまでやってきたが、それで大事になっては元も子もない。


 私の言葉から諦めの気持ちを感じ取ったのか、ネネはあからさまにシュンとして、「……しおおねえちゃんはモチさがしてくれないの?」と今にも泣き出しそうな声で訴えてくる。


 私はできるだけ柔らかな声音で言う。


「ネネはモチが心配?」

「しんぱい。さがしたい」

「うん。しおお姉ちゃんも同じ気持ちだよ。でもね、今ネネがお家からいなくなっちゃったらパパやママはどんな気持ちになるかな?」

「……しんぱいする」

「そうね。ネネとモチがどっちもいなくなって今のネネよりももっと心配してる。まずはネネがお家に帰ってパパとママを安心させてあげよう」

「でもネネ、わるいこになっちゃう……」

「どうして?」

「モチがいなくなったのネネのせい……」


 私はベンチから離れて、ネネの目線と同じになるよう膝を曲げて真正面になる。


「ネネは素直ね。自分の間違いだってちゃんと言えるのは大人でも中々できないことよ。そこまでできたネネならパパママに『ごめんなさい』までできるってしおお姉ちゃんは思ってる」

「…………」

「大丈夫。しおお姉ちゃんはネネが良い子だって分かってる。そしてそれはパパやママだってそう。きっとネネから話してくれることを信じて待ってる」


 ネネの小さな手をしっかり握って。


「ネネ。お家に帰ろう」


 ふたたび伝えると、ネネはずっと俯かせていた顔をゆっくり上げて私と目を合わせる。


 その瞳は勇気と恐怖の間で迷い揺らいでいるように見えたが、私はそれ以上言葉をかけることはせずにただ見つめ続けた。


 しばらくして、ネネが私の手をぎゅっと握り返してきて。


「──ネネ。おうちにかえる」


 固く決心した声でそう言った。


「おうちにかえってパパとママにごめんなさいするっ」

「うん。きっとネネならできるよ。この雨が止んだら一緒に帰ろう」


 ネネは意志の漲った目をこちらに向けながら大きく頷く。


 私は心の中で安堵しつつ、これからのことについて考える。 


 ネネについては無事に家に送り届ければいいとして、残った問題はモチだ。ネネが両親に伝えれば捜索するだろうから私たちはお役御免だが、だからと言って『あとは家族に任せた』で済ますのはあまりに薄情だし、勇気を出してくれたネネの為にも貢献したい。


 今日は徹夜になるかもしれないと覚悟を決めたところで。


「──あっ、やっと見つけた!」


 突風のような素早さで停留所を通り過ぎようとしたチトが私たちの姿を見てピタッと止まり、そのままふわふわと停留所の中に入ってくる。


「二人ともこんなところにいたんだ。夕立は大丈夫だった?」

「すぐ停留所ここに避難したから平気よ。そっちはどうだったの? モチは見つかった?」

「残念ながら。この夕立のせいで視界が悪かったし、落雷までしてきたからしおちゃんたちのほうが心配になってきて捜すのに集中できなかったよ」


 チトが見つけてくれれば話は早かったが、あの大雨では仕方ないか。元より楽観的な期待は抱かないようにしているから別にどうということはない。


 チトはネネに視線を向ける。


「ネネちゃん、ごめんね。まだモチ見つけられてないんだ。でも必ず見つけ出すから、あとはチトお姉ちゃんたちに任せてネネちゃんはおうちにかえ……」

「うん。ネネはおうちにかえる」

「……え?」

「ネネはいいこだから、おうちにかえってパパとママにごめんなさいする」


 迷いのないネネの言葉に、チトは少し驚いた表情で私のほうを向いてくる。


「ネネが自分で決断したのよ」

「……ふーん。どうやら仲良く過ごせてたみたいだね」


 にっこりと笑うチト。見え透かされて気恥ずかしくなってくる。


 これ以上からかわられるのも癪なので、(運良く小降りの雨も上がっていたので)「じゃあ帰りましょう」とネネの手を引いてバス停留所から出た。


 三人で来た道を引き返す。


 数分も歩いていると空から暗雲が消え、眩いほどの夕日が顔を出した。通りすがりの公園にある時計台は午後六時を指し示しており、ここまででたったの一時間しか経っていないことが驚きだった。


 ネネと出会った位置まで戻ってきたあとは、ネネの案内に従いながら道を行く。


 やがて一件の住宅の前でネネの歩みが止まった。


「ネネのおうち、ここ」

「おぉ~、立派なお家だね!」


 チトの感想に同意だ。


 開け放たれた木目調の門扉の向こう側には白を基調とした洋風の二階屋が建っており、隣には綺麗に整地された芝生の庭が広がっている。


 その隅には三角屋根の犬小屋があって、赤い首輪をした一匹の柴犬が寝てい…………え、赤い首輪をした柴犬?


「モチ!」


 ネネがそう呼ぶと、柴犬はすっくと立ち上がり、こちらに駆け寄ってきて撫でてほしそうに見上げてくる。


「ネネちゃん、この子がモチ?」

「うんっ。モチ!」


 ネネが頭を撫でながら嬉しそうに言う。


 どうやらモチは自力で家に帰っており、ネネとはどこかですれ違いになっていたらしい。取り越し苦労ではあったが、何はともあれ無事でよかった。


 チトにも反応していて動物も霊視ができるんだなと益体のないことを考えていた時。


 不意に勢いよく玄関のドアが開き、一人の若い女性が姿を現した。


 女性はネネの姿を見るや否や、「ネネ!」と声を張り上げて走り寄ってきて、そのままネネを抱きしめた。


「よかった……無事でいて……」

「ママ……」

「もうっ、どこに行ってたの! ママもパパもすごく心配したんだから……!」

「ママ……あのね、ネネね、モチとあそんでてモチがおうちのそとにいって……モチがいなくなったのネネのせい……ごめんなさいっ」

「うん……うん……分かった……ネネのごめんなさいの気持ちは分かったから……もうママたちに言わないでどこかに行ったりしないでね……」


 ネネの背を優しくさすりながら心底安堵したように涙を溜める母親。


「…………」


 その娘のことを大切に想いやる姿は映画のワンシーンかと見紛うほど感動的なのに、私の心は痛みを伴った複雑な感情に苛まれる。まるで自身がこれからやろうとしていることを否定されているように思えて。


 チトが隣で「ふぅ」と息をついたあと、私に微笑みかけてくる。


「これにて一件落着だね」

「そうね」

「最初はどうなることかと思ったけど、ネネちゃんもモチも無事に家に帰れてよかったぁ」

「そうね。物語に書くことができたからよかったんじゃない」

「たしかに──ってしおちゃん、どこに行くのさ!?」


 私はチトの問いに返事せず、そのままネネの家から離れていく。


 すぐにチトが追いかけてきて私の横に並ぶ。


「お礼は受け取らなくていいの?」

「受け取る理由に心当たりがない」

「お家に帰ることをネネちゃんに決心させたのはしおちゃんの功績だと思うけど」

「あんたはその時いなかったでしょ。実際、私はただ促しただけで大したことはしてない」

「……まったく。謙虚なのか、臆病なのか」


 その言葉で心を見透かされているのが分かり、私は溜息とともに心情を吐き出す。


「……他人の幸せを覗き見ても虚しくなるだけでしょ」

「わたしはそう思わないけどなぁ。だって自分と他の人は違うじゃん」

「あんたの考えが特別なだけよ。他人と比べるのは人間のさがなの」

「じゃあしおちゃんは自分とネネちゃんを比べてどう思ったの?」

「普通に羨ましいと思ったわよ」

「どこが?」

「あんな立派な家に住んでる時点で将来を約束されてるようなものだからね」


 醜い嫉妬であるのは分かっているが、事実だ。生まれ育った環境はその後の幸せに反映される。私には無いモノを彼女は持っているのだ。


 それを聞いてチトは「しおちゃんにしては想像力が足りないね」と嘲る。


 ムッとして、足を止める。


「裕福な家庭と貧困な家庭のどちらがより幸せかなんて一目瞭然でしょ」

「ううん。裕福だからってそれが幸せと結びつくとは限らないよ。だって幸せの形は人それぞれじゃん」

「綺麗事を言わないで。お金持ちになりたいってのは誰もが求める幸せでしょ」

「だったら間違ってるよ。わたしはお金持ちになりたいなんて考えたこと一度もないもん」

「なら、元々あんたがそっち側の人間ってことよ」


 チトは「わたしの家お金持ちじゃないんだけどなぁ」と言って少し黙考したあと、


「それじゃあシミュレーションしてみよう。ある日、しおちゃんはなんやかんやで大富豪となりました。お金は湯水のごとく無限に湧いてきます。さて、しおちゃんはこれからどう生活するかな?」

「そりゃ贅沢三昧するわよ。辛いことや苦しいことは投げ捨てて遊び呆ける」

「具体的に教えて」

「そうね……まずは豪邸を建てて、次に自分の欲しい物をすべて買って部屋を埋め尽くすわね」

「いいね。それでその後は?」

「……国内外に旅行しに行くのもいいわね。新たな知見を深めていくの」

「楽しそう。それでその後は?」

「…………その後は……」

「もう終わり? お金はまだまだ余ってるよ」

「そんなの今パッと思いつくわけないじゃない。実際に大富豪になってからじゃないと……」

「うん、そうだね。でも、じゃあなんでしおちゃんは今の時点で大富豪が幸せだと思ってるのかな? 実際になってもいないのに」

「……っ……それは……テレビやネットでそういう人たちの幸せそうな様子を見て……」

「きっとその人たちはそれが幸せなんだろうね。だけどしおちゃんがその人たちと同じ気持ちを抱けるかな? わたしにはお金の使い道に困り果てて、その生活に飽きる未来しか見えないけどね」

「……それは分からないじゃない」


 駄々をこねるような反論しか思いつけない私を見て、チトは意外にも勝ち誇るような様子を見せず、



しおちゃん。幸せは未来にはないんだよ。幸せはいつだって過去にあるんだ」



 諭すような口調でそう言った。


「その物事を初めて体験して、振り返って、そこでようやく幸せの感情は生まれる。体験していないことは全て架空の幸せでしかないんだ」


 チトはどこか悲しみを含んだ微笑みを浮かべる。


「だって、もしそれが架空じゃないとすれば、病死のわたしから見たしおちゃんは今幸せじゃないとおかしいもん」

「…………」


 チトは健康体の私が羨ましく、そして許せないのだろう。


 だけど、私はそのチトの死してもなお生を羨む姿勢が理解できないし、許せない。


 これはお互いに交わることのない話だ。


「べつに否定するつもりはないけど、それはあんた一個人の見方でしかない」

「……そうだね。これはわたしの価値観。ただ、こういう考え方もあるってことを知っておいてほしかったんだ。人生はポジディブに過ごしたほうが楽しいからね」

「あんたみたいに誰もが呑気になれれば苦労はないわよ」

「それは褒めてる? 貶してる?」

「どっちもよ」


 私は歩みを再開させる。


 その後はいつものような取り留めのない会話をしながら帰路についた。


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