17話 生きることへの決心
そうして、途方もなく長く感じる時間を歩き続けて。
暗闇の中から仄かな光が現れた。
導かれるようにトンネルを抜けた瞬間、私に纏わりつく闇を払うかのような眩い輝きが射して目を閉じる。
徐々に瞼を開くと、前方は木々に挟まれた上り坂が続いており、左側は視界の開けた場所になっていて、
「────」
遠くの眼下にはミニチュアサイズの町が広がっていた。夕日に照らされた光景は、荒んだ私が思わず息を呑んでしまったほどに美しく、時が止まったように眺望し続けた。
しばらくして、少し離れたところに黒髪の少女がいることに気づく。
柔らかな緑の草むらに座るみたいに浮遊しながら、私と同じように夕日に染められた町並みを静かに見ている。
最後に会った時とは違って、少しだけ体が薄らとしている気がした。
「──やっと見つけた」
その呟きが聞こえたわけではないだろうが、チトはこちらを振り返って「え……汐ちゃん……?」と、まるで死人が蘇ったかのように呆然とする。
チトの顔を見た瞬間、忘れかけていた怒りが再燃する。
足早に近寄っていく。
「汐ちゃん、どうしてここが分かっ……」
「なんで」
「……え?」
「──なんでこんな真似するのよっ!」
私は溜まりに溜まった鬱憤を吐き出す。
「裏でこそこそと動いて、表では何でもないように装って、正義のヒーロー気取り? それで私が喜ぶと思った? この世に居られる貴重な時間を使ってまで……ふざけないで……!」
脳裏では、これまでチトと過ごしてきた日々が走馬灯のように駆け巡る。
「私なんかを助けてる暇があるなら自分の為に使ってよ! もっと他に大事な人がいたでしょ!? もっと他にしたいことがあったでしょ!? なのになんでよりにもよって私に使うのよ……!」
様々なシーンの中で私に投げかけたチトの言葉が、明瞭さを伴って心になだれ込んでくる。
「私は生きたいなんて頼んでない! 勝手なことしないでよっ!」
ずっとチトのことが邪魔だった。あいつが死んで顔を合わせたあの日からずっと。
チトと言葉を交わすたびに、チトの姿を見るたびに、心は手放したはずの感情を抱いた。
すべて不必要なものなのに、すべて捨て去ったのに、チトのせいで取り戻してしまった。
せっかく勇気を出してここまで来れたのに、チトが台無しにしたんだ。
激昂する私とは反対に、チトは穏やかな様子で言う。
「わたしがしてきたことは自分の為だよ」
「嘘つかないで! どこが自分の為なのよ!?」
「全部だよ。汐ちゃん、わたしね。汐ちゃんが書いた小説の続きを読みたかったんだ」
過去を振り返るように、視線を夕焼けの空に向ける。
「入院中はいつも『千都と朗らかな日々』を読んでたよ。更新されたらすぐに最新話に目を通して、更新がなかったら前の話を読み直したほど大好きだった。たぶんわたしが一番のファンだったと名乗っても過言じゃないぐらい!」
「……あんなつまらない話のどこに惹かれる部分があるのよ……」
「まぁ普通の人からしたら地味なストーリーではあるかもね。でも、体の弱いわたしからしたら素敵なお話に感じられたんだ。主人公の千都ちゃんはいつもすごく楽しそうに日々を過ごしてて……すごく羨ましかった」
「…………」
「同時に、きっとここまで心を揺さぶられる文を書けるほど作者さんは日常を大切に生きている人なんだと思った。だから更新が途絶えたあとに非公開になった時は何か悪いことがあったんだって心配したよ。ファンレターを送って励まそうとか考えたりしてね」
チトは感慨深げな表情で「そんな時に汐ちゃんが作者さんだって偶然に知ったんだ」と呟くように言った。
「まさか同い年で同じクラスにいたなんて信じられなかったよ。しかも隣の席なんて奇跡すぎて、あれで確実に寿命が縮んだね」
「笑えないわよ……」
「そのぐらい驚いたってこと。それで密かに汐ちゃんを観察してどこか息苦しそうに生きてるのが分かったから、少しでも元気になってくれる方法が何かあるかなって考えてる間にわたしのほうが先にくたばっちゃった。てへへ」
「だから笑えないって……」
「でも死んだあとでも、またこうして面と向かって会話できたのはもはや運命だって思ったなぁ。汐ちゃんだって死んだわたしと出会って嬉しかったでしょ?」
「…………」
「……そこは否定でも何でもいいから突っ込んでよ、もー」
本当に笑えない。チトにさえ出会わなければ何もかも諦めたままの私でいられたのだから。あの時ほど運命を呪ったことはない。
「まぁ、汐ちゃんがどう思ってるかは分からないけど、わたしはこのチャンスを逃してたまるかって思ったね。ユウちゃんに協力してもらいながら、頑固な汐ちゃんが小説の続きを書くほど立ち直ってくれるきっかけを探しまくってた」
「結局は私の為なんじゃない……」
「違うよ。この際だからはっきり言うけど、わたしは汐ちゃんの生き方が許せなかったんだ。特にあれだけ日常のストーリーを輝かしく書いてた人が、現実ではありきたりな自分の人生に絶望してるなんてファンとしても残念でしょうがなかったよ」
夏祭りでチトが吐露した私に対しての怒り。未来永劫その想いが届くことはないと思っていたのに。
「でも、それはわたしの主観でしかない。自分と他人は生まれも育ちも考え方一つだって違うから、汐ちゃんと意見が対立しちゃうのは当然のことなんだ」
チトはこちらを振り向いてはにかむ。
「つまり全部、汐ちゃんの小説の続きが読みたいが為にしたわたしのわがままってこと。汐ちゃんの主張や気持ちを無視して、わたしがそうしたいからそうしただけ。だから汐ちゃんが気に病む必要はないよ」
「……だったらなんでそうやって笑ってられるのよ……心残りを叶えられなかったのに……なんで無意味な時間だったって後悔しないの……」
「人生、必ずしも努力が実るとは限らないからね。しょうがないことはしょうがない。やらずに後悔するのはもっと嫌だし、その先の結果を知れただけでもやった甲斐があると思うよ」
ただの割り切った言葉には聞こえなかった。
こんな終わりが差し迫った状況の最中でも、チトの顔には恐れも不安もなく、あるのは人心地つくような達成感。それは自身が歩んできた道に対する信念の表れだ。
「それにさ。『千都と朗らかな日々』の続きはもう読めないけど、汐ちゃんが書いた小説ならまだ間に合うしね」
私の胸に抱きかかえられた筆記帳を見ながら、どこか悪戯な笑みを浮かべる。
「今生の別れの前に、よければ読み聞かせてほしいな」
「…………」
私は筆記帳に視線を落とす。
ずるい。こんな気持ちが揺らいでいる時にそんなお願いをしてくるなんて。絶対に分かっててやってる。
「……本当に狡賢くてキライ」
「へへ、さすがの汐ちゃんでもこのタイミングなら折れてくれるかなと思って」
開き直ったチトに悪態を吐きたくなりながらも、私は隣に行って柔らかな草地に座る。
膝の上に筆記帳を置く。
そこまでの動作をしていながら、私の右手は表紙に触れたまま止まった。まだ心に巣食う未来への憂いが躊躇いを生む。
きっとこれを読んでしまえば後戻りはできなくなる。
その先でまたあの辛くて苦しい思いをすることもあるだろう。
私に乗り越えることができるだろうか。
また同じ道を辿るぐらいなら、このまま期待も失望もない世界に浸っていたほうが────
「────」
その時、手の甲から温かさを感じた。
見ると、チトが私の右手に両手を重ねていた。
「大丈夫だよ。汐ちゃんならきっと大丈夫」
その励ましには何も根拠がなくて、でも不思議と気休めの言葉には聞こえなかった。
しばし、その温もりだけに身を委ねた。
次第に憂いは決心に代わり、私はゆっくりと筆記帳を開いた。
一ページ目から記憶を辿っていく。
「──どこにでもいる平凡な高校生の成瀬汐は、クラスメイトで隣の席の花笠チトに連れられるまま市民公園にやってきた。学業をサボった罪悪感に駆られる汐とは裏腹に、チトは晴天に負けず劣らずの明るさで……」
チトの性格はいつだって傍若無人で、振り回されては酷い目に遭う。私の意見なんてそっちのけで、これほどまでに不安しかない物語の幕開けは他にない。
「──ホラーが苦手な成瀬汐は、目の上のたんこぶのチトと気高いミコ先輩とともに暗い廃墟を探索する羽目になった。しかもその理由が両親へのプレゼントを目的としたお宝探し。不法侵入と窃盗の罪の意識が汐の肩に重く伸し掛かり……」
チトの思想はいつだって唐突で、否応なく付き合わされるほど強引だ。チトもミコ先輩も恐怖心を持ち合わせていないのか、私が嫌だと訴えても何のその。しかも頑張って耐えたのに、結局情報は見間違いで目的のお宝はゲットできず、踏んだり蹴ったりの日だ。
「──チトに授業を邪魔されてムシャクシャしていた成瀬汐は、その背後霊との帰り道で何やら泣きじゃくる女の子を見かけた。心配したチトがすぐさま駆け寄っていく。霊体だから見えないでしょと呆れる汐だったが、なんと女の子はチトに反応を示して……」
チトの行動はいつだって面倒事を呼ぶ。ネネのような小さな子と触れ合った経験がないのに、わざと二人きりにさせるし。ネネが大人しい子だから乗り切れたものの、違っていたらお通夜状態の酷い有様になっていたかもしれないのに。まったく、向こう見ずな行動をしないでほしいものだ。
「──答えの出ない日々に煩わしさを感じていた成瀬汐は、目障りなほど楽天的なチトに夏祭りへ誘われる。人混みは苦手な汐は最初こそ渋ったものの、チトが直接携わっていない催し物なら楽だと思い直して了承した。のちにそれが心を震わせる思わぬ出来事に繋がるなんて、その時の汐は露知らず……」
チトの言葉はいつだって私を惑わせる。その愚直な気持ちは、私の失くした感情を刺激して表に引っ張り出させるほどに強く、それでいて忘れさせてくれないほど執拗だ。未だにこの時の激情は一言一句が記憶に焼きついて離れてくれない。
「──チトとの不和で堂々巡りの思考に苛まれていた成瀬汐は、自分の行いの正当性を再確認するために寄った図書館で、死者と天使のコンビを見かけた。厄介事の波長を感じた汐はすぐに図書館から退却しようとするが、学校終わりから引っ付いてきているユウがその道を阻み、あまつさえ自ら声をかけて……」
チトの存在はいつだって私の傍にいた。実際の距離なんて関係なく、心に居座り、私の行いを縛るように、時にはうざったいほど小馬鹿にしてきて、時には胸を痛めるほど必死に引き止めて。間違いを正してくれなんて一言も頼んでないのに、本当に自分勝手が過ぎる。
「……その後も四人で話し合ったがカナさんを立ち直せる案は見出せずに終わった。見兼ねたリオさんが終わりを告げ、汐は明日また会う約束をして図書館をあとにした──…………」
やがてページは白紙に行き着いた。
中途半端に途切れた物語に、チトは無邪気に笑う。
「汐ちゃんの文体は好きだけど、物語としては退屈な話だね」
それは当然だ。脚色もないただの日記の延長で、他愛もない日常の話なのだから。魅力的なオチも衝撃の展開もない駄作。仮にこれが店で売られていたとすれば誰も買ってくれないだろう。
「…………」
だけど、私の心には様々な感情が湧き水のごとく溢れてきて止めることができなかった。
この二週間の出来事の中で感じてはいたがいつも信じきれなかった気持ちが、その存在感を強めていき、もう目を背けられない。
胸中でずっと燻っていた自己否定が洗い流されるように消えていく。
チトが私の顔を覗くように見てきて。
「汐ちゃんはどう思った?」
「…………」
私は答えない。
素直に認めるのは恥ずかしかったから。
物語の中の成瀬汐はとても幸せそうに見えたなんて。
私は口で伝える代わりに万年筆を握り、筆記帳に今日の出来事とともに今の思いを綴り始める。
チトは口を挟むことなく、ただじっと私が書く文章を見つめた。
静かで穏やかな時間は過ぎていき。
書き終わって顔を上げると、隣でチトは優しく微笑んでいた。
居た堪れなさを感じて、チトが何を思っているのか丸分かりなのについ口が開く。
「その笑みは何よ? 言いたいことがあるなら言って」
「べつに大したことは考えてないよ。ただ、紆余曲折たくさんあったけど、最後にはわたしが求めてたエンディングになって安心したなぁって思っただけ」
「どうせこうなるって分かっててやったくせに」
「そんなことないって。まさかあの冷淡な汐ちゃんの照れ姿が見れるなんて予想外だったよ」
「照れてない。それにあんた以外の人には割と友好的に接してるからね私」
「わたしだけ扱いが違うってことは、つまり汐ちゃんにとってわたしは特別な存在ってことだね!」
「悪い意味で、よ。大体あんたのそういうところが……」
何度だって繰り返した不毛な会話。面倒なのに、不思議と終わらせようとは思わない。
これまでの日々を再現するみたいに、私たちはしばし無駄話を続けた。
やがて辺りに薄闇が現れた頃、チトは一旦会話を止め、無言のまま遠くの景色を眺める。
程なくして、「うん」と澄み切った声音でひとり頷く。
「汐ちゃんと仲直りできたし、ちゃんと汐ちゃんの感想も聞けたことだしで大満足。──それじゃあ物語を終わらせなきゃね」
そう言って、万年筆を握ったままの私の手に自分の手を重ねる。
その意味を悟ってチトの顔を見る。
相変わらずそこには屈託のない気持ちが表れている。
その前向きな感情に後押しされるように、私は何も言わずに頷いて筆記帳に視線を向けた。
私たちは丁寧に確かな動作で、最後のページの端に『おわり』を書いた。
チトはゆっくりと手を離すと、私の前に浮遊してきて「汐ちゃん!」と声高に名前を呼ぶ。
「──わたしは……ううん、わたし〝も〟幸せでした!」
そうお日様のように輝かしい満面の笑みを浮かべて。
その瞬間、チトの姿は煌めく星粒のように淡い光となり、風に乗って天へと昇っていく。
私はその残滓が完全に消えるまで見届けた。
不意に、背後から草むらを踏みしめる音が聞こえて振り返ると、そこにはユウがいた。
ユウは全てをお見通しだと言わんばかりに冷静な声で言う。
「チトさんは天界へと旅立ちました」
「そう」
「汐さんはこれからどうするのですか?」
「どうせ何かの能力で私たちの会話を盗み聞いてたんでしょ。答えは明白じゃない」
ユウは「そうですか」とどこか満足そうに呟いてから、
「もし次に会うことがあったら、その時はこの世に未練たらたらでいてくれることを願います。そのほうがこちらも仕事のやりがいがあるので」
天使らしい柔らかな微笑みを湛えながらそう言った。
「……そうなれるといいわね」
私はそれだけを返して、ユウに背を向ける。
この黄昏に包まれた情景を心に刻みつけるように見つめて。
勇気を分けてもらうように筆記帳を胸に抱きしめて。
しばらくの間そうしてから、ゆっくりと目を閉じる。
────私は病院のベッドで目覚めた。




