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14話 リオの心残り③

 次の日は変わらずにやってくる。


 昨日を繰り返すように午前九時前に図書館へ着く。


 ただ、今日は独りの道行きとなった。朝起きたらユウの姿が家のどこにもなかったのだ。


 昨日粗野な態度を取ったから拗ねて出ていってしまったのか、と一瞬は思ったが、そういえば常日頃から同じ接し方だったと考えを改め、元々マイペースな性格なことからしても気にしないことにした。


 駐車場を抜けて図書館の出入り口に行くと、誰の姿もない。


 約束の時間まではまだ数分あるものの、睡眠を必要としない幽体のリオさんが私より遅れてくることはないだろう。すでに学習スペースでエンと話し合いをしているのかもしれない。


 館内に入って学習スペースに向かう。


 そして受付カウンターの横を通り過ぎようとした際、その傍にいるリオさんの姿を見つけて。


「────!?」


 私は目を疑った。


 リオさんの視線の先には受付の席に座ったカナさんがいて、その手にはリオさんの日記帳があり、ページを開いて読んでいる。


 しかし、私が驚いたのはそのことじゃない。


 ずっと暗く沈んでいたカナさんの顔に笑みが浮かんでいるのだ。慈愛に満ちた微笑みが。


 まるでここが仕事場ではなく自宅だと思っているかのように夢中で読んでいる様子からは、リオさんへ対する憐憫は感じず、ただただ過去を懐かしむ気持ちだけが表れている。


 あそこまで心を煩わせていたカナさんがただ日を跨いだだけで感情を一変させるなんて。一体リオさんは最後のページに何を書いたのか。


 疑問が募る中、リオさんが私のことに気づき、浮遊しながら勢いよく近づいてくる。


成瀬なるせちゃんっ! カナが笑ったよ……! あたし心残り晴らせたかも!」


 涙ぐみながら心底歓喜する。


「はい……今来たばかりなんですけど、カナさんの様子が見違えていてすごく驚きました」

「だよね! 出勤してきた時は昨日と同じで病んだ感じだったんだけど、あたしの日記を見始めてから口元を緩ませたんだ。クスッと声に出して笑った瞬間もあったんだよ!」

「そこまで…………リオさんは最後のページに何を書いたんですか?」

「何も書かなかった!」

「へ?」


 思わず素っ頓狂な声が漏れる。私の聞き間違いか。


「何も書かなかった……? ありのままで見せたってことですか……?」

「うん。一切手を加えずにそのまま!」

「どうして……?」


 何を思ってそうしたのか。このリオさんの自信に溢れた態度からして、書くことが決まらずに諦め果てた末の無謀な行動には思えない。


 リオさんは尚も日記を読むカナさんを見つめながら、どこか優しい声音で言う。


「今日の朝ね、決意したんだ。作られた偽物の気持ちじゃなくて、過去の本物の気持ちを見てほしいって」

「でも、リオさんの日記は全てがポジティブな内容ですよね。プラスの印象は却って不幸を際立たせてカナさんがより悲観する可能性があるって話し合いでは懸念したはずです」

「そうだね。正直めっちゃ不安だったよ」

「じゃあ何を根拠に決意したんですか……?」

「一番は、あたしの人生に小細工は必要ないって思ったことかな」


 そう言って照れ笑いを浮かべる。


「昨日、成瀬なるせちゃんたちと別れたあとで、エンちゃんと一緒に自分の日記を全部読み直したんだ。今年の分だけじゃなくて大学四年生の時に書いたものまで全部を」

「…………」

「それで読み終わって改めて思ったんだ。これまで歩んできたあたしの人生は幸せだったって」

「──っ」


 リオさんの声には欠片の迷いもなかった。あるのは自身のことを信じてやまない思い。


 その信念と日記に書かれた内容を鑑みればリオさんの胸中なんて分かりきっているのに、それでも私は疑わずにはいられなかった。


「本当にそう思っていますか? 嫌なことの一つや二つだってありましたよね?」

「もちろんつらかったことや苦しかったことは沢山あったよ。当時は凄く思い悩んだけど、振り返ってみればそれも一つの思い出だなぁって感じられたんだ」

「後悔はないんですか?」

「そりゃいっぱいあるよ~。幼少期にスポーツや音楽を習って才能を開花させたかったし、中学や高校の頃に勉強や部活漬けじゃなくて青春っぽい恋愛をしたかったし、大学生の頃に友達と遊び呆けてないでその時間でもっと本を読んで知見を深めてればよかったって思った。そもそも階段で滑るドジを踏んでなければ今生きてるわけだし」

「だったらどうして……どうして幸せだったと決めつけられるんですか……?」

「それはね、今あたしが抱く後悔は今のあたしから見た話だからだよ。当時のあたしは未来が分からないから仕方ないし、たとえその日に戻って違う選択をしても絶対に後悔がなくなるとは限らないからね」

「でも、その中でも正しい選択はあったはずです。最善を逃したことに絶望しないんですか……?」

「人生の道は一つしか歩めない以上、それが正解かどうかなんて分かりっこないよ。だけど、もし最善があるとすれば、それは一番苦しんで悩んだその時に考えついたことだとあたしは信じたいんだ」

「…………」


 ──ああ、だめだ。


 言葉に詰まってほしかった。諦観からの強がりであってほしかった。


 でもリオさんの心はちっとも揺らがなかった。


 こんなに堂々と言われては、私の行いが間違っていないと、もう虚勢を張ることはできない。


 言葉を失ってしまった私を見てリオさんはどう思ったのか、殊更に元気な声を出す。


「なんか哲学っぽくなっちゃってあたしらしくなかったね。──結論っ、後悔も含めてあたしの人生は良かった! だから無理に偽物の過去を付け足さなくてもカナに伝わる、伝わってほしいと思ってそのまま渡したんだ」

「……そうだったんですね…………やっぱりリオさんの明るさは眩しいほど素敵です」

「へへ、あたしの唯一の取り柄だからね。……でも、その良さに気づくことができたきっかけは、昨日の成瀬なるせちゃんの感想があったおかげなんだよ」

「私の?」

「うん。成瀬なるせちゃんがあたしの日記に対して真剣に深く気持ちを抱いてくれたからこそ、あたしは自分の生き方がどういうものか知れたんだ。今のあたしとカナの笑顔は成瀬なるせちゃんが引き出したものなんだよ」


 まるで証明するみたいに「大切なことに気づかせてくれてありがとう」とお礼とともに屈託のない笑顔を浮かべる。


 私は照れ隠しするようにカナさんのほうを向く。


 懐かしさに浸るその微笑む姿を、しばらくの間見続けた。



     ***



「──ふぅ。カナはもう大丈夫そうだし、これで一件落着だぁ~!」


 リオさんは図書館の外に出ると、一仕事終えたようにグーッと腕を天に伸ばす。ゆっくり息を吐く姿や緩んだ顔からは安堵が窺えた。


 時刻は午後四時を過ぎた。空は青色から橙色に変わりつつある。


 受付カウンター横でリオさんと会話したあのあとからつい先程まで、エン含める三人でずっとカナさんの様子を見守っていた。


 利用者が増えはじめ我に返って仕事に戻ったカナさんは、(やや暗い態度ではあるものの)利用者や同僚などに対しての受け答えがハキハキとしており、昨日までの心ここにあらずの様子は見受けられなかった。


 時折ミスもしていたが、それは気分が沈んだことによるものではなく、どこかウズウズしている様子や何度も時計を確認している動作からして、リオさんの日記の続きが読みたいという心の表れだった。


 さすがにリオさんの死を吹っ切れたわけではないだろうが、最初に抱いていたリオさんの懸念が杞憂だと言い切れるほどには立ち直っていた。


 それはリオさんの生き様が紡いだ想いの結果だ。リオさん自身が語ったように、私が感じてしまったように、きっとカナさんも生きることの幸せを感じ取ったのだ。


 そんな復帰したカナさんの姿に、エンは感極まったようで先程からグスグスと涙ぐんでいる。


荻原おぎわらカナが立ぢ直ってぐれてよがっだぁ……ほんとうに……ほんどにぃ……」

「もう、エンちゃんってば泣きすぎだよ~。あたしまで貰い泣きしそうになるじゃん」

「だっでぇ……リオの安心した顔を見たら、我は、我は嬉じぐてぇ……」

「エンちゃん……! エンちゃんがあたしの担当天使で本当に良かったよぉ!」


 リオさんはギュッと小さな体を抱きしめる。


 感動的な二人の姿。けれど、今私の心を満たしているのは安堵でも喜びでもなく、恐れだ。


 私は迷っている。


 これから自分はどうするべきなのか、を。


 リオさんの考え方に感化されたのはもうごまかすことのできない事実だ。生に対する否定の思いが揺らいで希望を抱いてしまうほどに。


 しかし、どうしても心の片隅では疑ってしまうのだ。


 はたして私にその生き方ができるのか、と。


 もしまた心が挫けたら? もしまた惨めな後悔を噛み締めることになったら?


 苦しみながら生きるぐらいだったら、今の希望もないが絶望もないまま、ただひたすら死の訪れを待ったほうがいいんじゃないか。


 私は迷っている。答えが出るのを恐れながら。


 煩悶している時、不意に柔らかい感触を顔から感じた。


成瀬なるせちゃんにも感謝感激のハグ~っ」

「……恥ずかしいですよ」

「あたしの姿は見えてないんだし、気にしない気にしない。最期に生きている人の温もりを感じたいしね」


 体の仄かな熱がじんわりと伝わってきて、思考を現実のことに持っていけた。


 私はリオさんの顔を見上げて純粋な疑問を投げかける。


「最期にってことは、リオさんはこのあと成仏するんですか?」

「そうだね」

「成仏って一体どういう感じなんでしょうか」

「なんか天界に行くことをそう呼ぶみたいだよ。そのあとの詳細は向こうに着いてから教えてくれる(天界の法でそう定められている)らしくて、エンちゃん曰く、よく転生を不安視する死者が多いけど、本人の同意なく意識や今の自我が消えることはないから安心してくれって言ってた」

「そうなんですね。安らかな気持ちで行けるようで何よりです」

「心の準備ができるのはいいよね。あっ、これは天界の法的に教えちゃいけない情報かもしれないから内緒で」


 リオさんは口元に人差し指を立てて悪戯っぽく笑う。


 私が頷くと、ゆっくりと私から体を離した。


「よし。そろそろ行こうかな。エンちゃん、道案内を頼めるかな?」

「それは我に任せてくれていいが、一度天界に行けば転生しないかぎりもうこの世には戻ってこれないぞ。リオにはまだ日にちが残っているが……」

「正直名残惜しくはあるよ。でもこのまま現世こっちに居続けたら他の心残りができそうだからね。今の満足した気持ちのまま旅立ちたいんだ」

「……そうか。リオがそう決めたのなら我はその意見を尊重す──」

「ちょ、ちょっと待ってください」


 私は慌てて会話に割り込む。


 二人の会話を聞いていて、遅くながらある言葉が引っかかった。


「日にちが残っているってどういう意味ですか? 自らの意志で成仏するじゃ……」

「ん? 違うよ。死者には命日から数えて現世こっちに留まれる期間が決まってるんだ。じゃないと一生こっちにいるって人も出てきて天使ちゃんたちが大変だもんね」


 確かに期限がなければそこら中に霊がうじゃうじゃいてもおかしくない。なんでそんな当たり前なことを今まで気づかなかったんだ。


「それって具体的に何日間なんですか?」


 リオさんはエンを向く。


 どうやら天界の法に触れる内容らしく、エンはしばし腕を組んで悩んだ様子を見せていたが、「……成瀬なるせしおにはリオを救ってくれた恩があるからな」と呟いた。


「その日数に定められている理由などの詳細なことについては省くが、三十七日だ」

「三十七日……今日が七月二十一日で、命日を入れるから…………────!」


 私がその答えに辿り着いたと同時だった。


「ユウ……?」


 いつの間にか、今朝から姿が見えなかった怠惰天使がそこにいた。


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