13話 リオの心残り②
次の日の朝。
私はユウとともに家を出て、他愛もない会話をしながら図書館に向かう。
約束の午前九時の五分前に到着。駐車場を抜けて建物に近づくと、入口付近にリオさんとエンの姿があった。
向こうも私たちに気づき、
「おはよーっ! 成瀬ちゃん&ユウちゃん!」
「同志たちよ! また会えて嬉しいぞ!」
二人とも呼応したかのように両手を振って、昨日と変わらずの快活な様相を見せる。
悲運な最期を遂げた死者には到底見えないなと心の中で思いつつ、ユウとともに朝の挨拶を返した。
「二人ともあたしの為に貴重な時間を使ってくれてありがと。しかもちゃんと時間前に来てくれるなんて二人の温かい気持ちに感激だよ……!」
「昨日の今日の約束ですから当然ですよ。リオさんたちはあれからずっと図書館にいたんですか?」
「ううん。実はあたしたちも来たばっかりなんだ。昨日成瀬ちゃんたちと別れたあとに遠出したからね」
「遠出?」
「うん。〝これ〟を取りにね」
そう言ってリオさんがエンのほうを向くと、エンは頷いて制服の前を開け、内ポケットに入っている一冊の本を見せてくる。ただの本を持ち歩くわけないから、おそらく昨日言っていた日記帳だろう。
「あたしが死んだあと、あたしの物は全部家族が引き取ったから実家まで行ったんだ。正直めっちゃ離れた地方にあるから今日に間に合うか不安だったよ」
「一夜でそんな長距離を行けるものなんですね……」
「こちとら体力無制限の霊体だからね! 睡眠は必要ないうえに浮遊や透過もできるし。日記帳がどこに保管されてるか捜すのに若干手間取ったぐらいで楽勝だったよ~」
「…………」
その呑気な態度の裏に隠された傷心を察して、なんと言葉を返せばいいか分からなくなる。人の機微に鈍感な私でも、実家に帰ったという状況を考えれば容易に想像つくから。
その沈黙で逆にリオさんは私の考えを読んだみたいで、エンの手に握られた日記帳に視線を落とした。
「……だからまったく体は疲れてないけど、やっぱり精神的には堪えたかな。家族目に見えて空元気で、あたしの持ち物も全て一部屋に並べて保管されててね。まだあたしの死を悼んでるみたい……」
「……愛されるのって却って複雑な気持ちになりますよね」
「ほんとにね。ドジを踏んだお馬鹿な子って笑い話にしてくれればいいのに……ってさすがにそれはムリか」
リオさんは苦笑いする。
その気持ちには共感できた。
死は絶対的な最悪じゃない。リオさんみたいに自身の死を大事に受け取らない人もいれば、死んだおかげで心が救われる人だっている。それを不幸と捉えるのは残された者の決めつけでしかない。
──いっそのこと、死者の記憶なんてみんなの中から消えて無くなってしまえばいいのに。
神様でもないのにそんな益体もないことを考えている間にも、リオさんは気持ちを切り替えるよう一息つき、普段の明るい声音に戻った。
「まぁでも家族は年一、二回しか会ってなかったし、それこそ時間がどうにかしてくれそうだから今はカナのほうを優先しないと。──ほらほら、ここは暑いよね。中に入ろっ」
「は、はい」
促されるままにみんなで図書館の中に入り、リオさんの後に続く。
さすがにこの朝早い時間帯に利用者の姿はない。静謐を通り越して少し寂しくすら感じた。
リオさんは迷いない浮遊で昨日座った奥のテーブル席ではなく、学習スペースに行く。
昨日と同じ席順で腰を下ろした。
「今日はここで話し合いをするんですね」
「うん。用心してね」
「用心?」
「カナはあたしが日記を書いてることはもちろん知ってて(中身は一度も見せたことないけど)日記帳の見た目も知ってるんだ。書き足す前に発見されて読まれたら計画がおじゃんになるからね。この学習スペースは本棚から遠くて司書の仕事はないから打ってつけってわけ」
なるほど。朝の時間帯を指定したのも学生などの他の利用者に席を取られない為か。
エンが内ポケットから日記帳を取り出して私の目の前に置いた。
B6の大きさで、ネイビー色の表紙には『Diary』の英語とともに、丸まった体勢の緩い顔をしたネコのキャラクターが描かれている。確かに独特の装丁だから見られれば持ち主を特定されやすそうだ。
一応「中を見てもいいですか?」と訊いてリオさんが頷いたのを確認してから日記帳を開く。
とは言いつつ、自分の生活記録を知られて良い気分はしないだろうから、できるだけ内容は読まないようにどんな体裁かだけを確認する。
それだけでもバランスの整った綺麗な字だと分かった。ページの背景には罫線がなく無地なのに、斜めになったりせず真っ直ぐ書かれている。あと、余った箇所に可愛いイラストが付随されていて、日記の堅苦しい雰囲気を払拭している。
そして日付を見るかぎり毎日欠かさず書いているようだ。
こう言っては失礼になるかもしれないが、これまで話してきた感じだと几帳面なタイプには見えなかったから意────
「意外?」
「え!?」
リオさんに心の声を読まれて動揺する。
「い、いえ。字が丁寧だなぁとかイラスト可愛いなぁとかは思いましたけど、決してそんなことは……」
「べつに怒らないから正直に言っていいよ。家族とか見せるたびに言われてるからね」
「……いやまぁ、確かに毎日マメに付けているとは思いませんでした」
「あはは、そうでしょ。あたし自身もよくこんな細かいこと続けてこれたなぁって驚いてるもん」
「でも素直に凄いとも思いましたよ。私も以前に付けてみようって思い至ったことがありましたけど、結局面倒になって三日坊主で終わりましたからね」
創作できる小説とは違い、日記は実際にあった出来事しか書けないから毎日となるとどうしても単調になって気持ち的に飽きる。だから日々変化のある順風満帆もしくは波乱万丈の人生を送っている人にしか続けられない。
「リオさんはいつから日記を付け続けてるんですか?」
「大学四年生の頃からし始めて今二十五だから約四年ぐらいだね」
「そんなに……続けられたのには何か理由があるんですか?」
「今はもう癖になってるだけだけど、始めたきっかけならあるよ。大学四年生になってもまだ進路が定まらなくて悩んでた時に先生から教わったことでね。日々の出来事に対する気持ちを文字に変えて目に見えるようにすることで、頭の中を整理しやすくなって、そこから思考が深まり自分の内面を知ることができるってことで始めたんだ」
「なるほど…………」
そのことに納得しようとする自分がいて嫌気が差す。(きっと本人にその気はないだろうが)この煩わしい気持ちを抱いている時点でまんまと術中に嵌ったようで。
「成瀬ちゃん、ぼーっとしてどうしたの? あたし何か変なことでも言った……?」
「あ、いえ大丈夫です! えっと…………あ、そうだ。カナさんへ向けたメッセージはどこに書くのかなって疑問に思って。毎日付けてるし、空白もないぐらいビッシリと文字とイラストで埋まってるので書き足す場所が無くないですか?」
「ああ、それは心配しないで。奇跡的に死んだ前日だけ書いてないんだ」
ページを飛ばしてみると、日記は七月五日で止まっている。確かリオさんが亡くなった日は七夕だから本当だ。
「そこに書き足せば、さすがに死んだ前の日だからカナも気になって見るだろうしね」
「なんでまたその日は書かなかったんですか?」
「あの日は徹夜で本を紹介するポップを制作してて書く暇がなくてね。ラッキー……と言いたいところだけど、そもそも徹夜しなければ寝坊せずに階段を踏み外すこともなかったんだけども」
「複雑な心境ですね……」
「まぁ起こってしまったことはしょうがないよね。今は後悔を忘れて目先のことに集中しようってことで、問題は何を書くかなんだけど」
「え、決めてないんですか?」
「実家の行き帰りの移動中にエンちゃんと相談したんだけど行き詰まっちゃって。よければ成瀬ちゃんとユウちゃんの意見も聞かせてほしいなぁと」
隣のユウが『ほらほら、だから昨日言ったじゃないですか』と言いたげに視線を向けてくる。
まさかあのテンションでお願いしてきてノープランだとは思わなかった。ユウの予想どおりになったのは癪だ。
しかし乗りかかった船だ。それに何も私が最終決定を下すわけじゃないから責任は重くない。そもそもここで『約束と違うので嫌です』と言える度胸なんてないし。
となれば早いところ案を出したいが、本文を考える前にまずは前提条件をおさらいしよう。
私は二人の天使たちに顔を向ける。
「たしか天界の法で死後の状況を教えることは禁止だったわよね?」
「そうだ。例えば『死んだあとの世界があるみたいだから悲しまないで』と直接的なものは勿論のこと、『あたしのことは心配しないで』や『いつでも見守ってるから元気だして』と明らかに死者の意思が汲み取れるものもアウトだ。もしそれらを破り故意であると天界に判決されれば、死者とその担当である我は存在を抹消され誰の記憶からも消えてなくなってしまう」
「死者や天の使いにペナルティがあろうがなかろうが、死後の世界があるなんて普通は信じてもらえないでしょうからやるだけ損です」
「つまり生前に書いたふうに見せないといけないわけね」
エンとそれにリオさんもうんうんと頷く。
「ならその条件を念頭に置いて。問題の本文ですが、まずカナさんにどういう感情を見せたいかで内容も変わってきますね」
「そこが難問なんだよねぇ……あたしの性格からしてポジティブが自然なんだけど、それにすると却って不幸さが際立つ気がするんだ。なんせあたしの死は不慮の事故だから……」
「反対にネガティブなものにすればその要素は薄まりそうじゃないですか」
「それはそれで事故じゃなくて自ら死んだみたいな変な誤解を与えて、カナが自分のことを責めそうで怖くてね」
「じゃあ笑いや呆れを誘って、『そんなことだからドジを踏むんですよ先輩っ!』って思わず突っ込んでしまうような剽軽なものは?」
「う~ん……カナは生真面目でお笑いとかも見ない派だから、こちらの意図したふうには受け取らないかも」
「まぁそんな楽観的な思考の持ち主なら今こうやって頭を悩ませてないですよね……」
心を迷わせている人に感情だけで訴えるのは悪手か。ここは具体的なことを書いたほうが理解しやすくていいかもしれない。
「やっぱりカナさんだけの力で前向きな気持ちになるのは難しそうなので、ここは情報操作して無理やりにでも立ち直らせましょう」
「情報操作?」
「はい。例えば『悲しい出来事を十回我慢すれば嬉しい出来事に出会える話を聞いて今日から実践してみようと思う』みたいに書けば、ちょうど今の自分の立場と同じだから意識して少し頑張ってみようってなりそうじゃないですか?」
「なるほど、その発想はなかった。……けど、今までカナがその手のオカルト話には靡いたことがないんだよね。目に見えないものは信じない主義で……」
「なら哲学はどうですか? 著名人の言葉でも身近な人の言葉でもいいので、人生論を書けば心に響いてリオさんの死を乗り越えられるかも」
「確かにそういう系は好きだから刺さりそうではあるけど、すでに読み漁っていてあの状態だからあまり効果は期待できないっぽい……」
「ならなら、リオさんの嫌いなタイプをはっきり書くのは? 例えば愚痴ふうに『うじうじ悩む性格の人は嫌だな』とかボヤけば、悲しみに暮れるほどリオさんのことを慕ってるカナさんなら今の自分を振り返って改めるとか?」
「それめっちゃいい! ──いいけども、以前にカナが自分の消極的な性格を悩んでたことがあって、そこであたしが『人それぞれ個性があるのが当然なのさっ』って講釈を垂れちゃったよぉ……! カッコつけてあたしのバカぁ!」
「えっとじゃあ……七月六日は平日なので多分お仕事だったと思いますけど、印象深った出来事って何かありましたか?」
「その日は特にイベント無くて地味な作業ばっかりだったし、そもそもカナは仕事をお休みで会ってないんだよぉ……!」
「…………」
手詰まりじゃないかこれ。
先程までは小説のプロットのように一つ一つ決めていけば解決することだと楽観視していたが、まさかの条件が多すぎてテーマすら定まらない。
これは思っていたよりも骨が折れそう。というより、たった一ページで愛する人の死に対する悲哀を吹っ切れさせることが無謀な気がしてきた。
やっぱり人間の感情って厄介だ。
それからも私たちは(ユウとエンも参戦し)解決に向けて知恵を出し合い続けた。
いつしか時計の針は二周していて。
話し合いの場はズーンっとした暗い雰囲気が漂う。誰も口を開かずに重苦しい沈黙だけが場を支配し、自身の不甲斐なさを痛感するように自然と目線は下に落ちる。
リオさんが悲嘆に暮れるように目を腕で覆いながら疲れた声を出す。
「みんな、ごめん……せっかくいっぱい案を出してくれたのに尽く否定しちゃって……」
「いえ、仕方ないですよ。不安要素がある案を気遣って採用して結局駄目でしたってなったら意味がないですから」
「そうだぞ、リオ。答えが出なかったからと言って意見交換は決して無駄じゃない」
「たった数時間の話し合いなんてボクの担当に比べれば全然楽なほうです」
「うぅ、みんなの温かい心遣いが身に染みるよぉ」
慰めるものの、最初の時から事態が進展していないことに変わりはない。カナさんの性格とこれまでの経緯を考慮すると、次々に問題が出てきて道が塞がってしまう。
これが何度もチャレンジできる話なら失敗を元に新たな可能性を導き出せるが、現実は一発勝負で想像の中でしかシミュレーションできないため、あれこれと余計な心配事が募ってくるのだ。
リオさんは溜息をつく。
「あたし、普段は即断即決の質なんだけど、今回のことに関してはなぜか煮え切らないんだよなぁ」
「それだけカナさんのことを想いやってる証拠ですよ」
「だといいんだけどね。なんか自分らしくなくてモヤモヤするというか…………ここは難しく考えずにさっさと決断したほうがいいのかな」
「リオ、悩むならちゃんと悩んだほうがいいぞ。焦る気持ちは分かるが、それで後悔する結果になったら元も子もない」
「だけど、正直これ以上のアイデアが出る感じがしなくて……かといって日記を見せる以外の方法もないから、あたしが何かを割り切って行動しないと進まない気がして……」
リオさんの言いたいことは分かった。
全てが上手くいくなんてご都合主義は創作の中だけの話だ。現実は何かを失いながら進んでそれでも叶わないことのほうがよっぽど多い。
だから諦めるのだ。望みや期待を減らせばそれだけ傷つくことも減るから。
しかし、これはリオさんの始めた物語だ。ただのお手伝いである私が改変するのは烏滸がましい。
また無言が訪れようとした時、
「皆さん、少し休憩したらどうですか?」
終始態度の変わらないユウがそう言った。
「脳を酷使しすぎて良い案が浮かばないだけかもしれませんから、午前中はこの辺で終わりにして、これからは各々別のことをして頭の中をリセットさせてください。日記帳についてはボクがここで守っておきますので」
ユウにしては良い提案だ。堂々巡りして辛い時は他の物事で上書きするに限る。
リオさんは素直に頷く。
「ユウちゃんの言う通りだね。……頭を使いすぎてネガティブ思考になってた。ちょっと外に行ってぼぉーっと景色でも眺めてこようかな」
「さすがは同志だっ。では我も外で体を動かして頭をスッキリさせてくるぞ!」
二人は一緒に壁を透過して外に出て行った。……私もその辺をぶらぶらしてくるか。
そして椅子から立ち上がった時、ユウが「汐さん」と呼んでくる。
「なに?」
「あとで話したいことがありますので早めに戻ってきてください」
「話したいこと? 別に今でもいいわよ」
「いえ、あとででお願いします」
「……?」
なぜ時間を置こうとするのか。何か企んでいるのか。
だが一々気にするのも癪だ。この二人きりのタイミングで言ってきたからどうせチト関連のことだろうし、放っておいても問題ない。
私は「気が向いたらね」とどちらにも事を運べる狡賢い返事をして学習スペースから離れた。
当て所もなく歩き回っていると、『オススメコーナー』のポップが貼り付けられている本棚が視界に入った。
表紙が見えるように並べられた人気沸騰中の小説たち。タイトルはどれも手に取ってみたくなるほど個性的で語感も良い。きっと中身も素晴らしいストーリーが書かれているのだろう。
私には真似できなかった。こんなにも魅力的なタイトルやストーリーを思いつけなかった。
昔はここに自分の書いた物語が並ぶことを夢見て頑張った。頑張った結果、何も変わることはなかった。いつまでも私の書いたものは現実に形作られず、ネットの隅っこに追いやられて誰にも認識されない。
私には才能がなかった。ただそれだけのことでもう諦めた話なのに、今でも過剰に反応してしまうこの弱い心が嫌いだ。
「……はぁ」
やっぱり一人で図書館にいると憂鬱な気分になる。自ら望んで足を運んでおきながら心病むなんて、ユウの言うとおり私は自滅タイプのようだ。
やるせない気持ちになっていると、隣の本棚に女性職員(エプロン姿で吊り下げ名札を着けていることから分かった)が来て思考が途切れた。
ボブヘアにした黒髪に赤縁のメガネを掛けた容姿は見覚えがある。昨日受付にいた人、つまりカナさんだ。
カナさんは棚の前に三段の踏み台を設置したあと、傍らにあるワゴンから図書を取り出して高い位置にあるものと交換しはじめる。
その理知的な横顔は暗く、メガネの奥の瞳は心ここにあらずといったように虚ろだ。淡々と仕事をこなす姿は、まるで動きをプログラムされたロボットのように生気が感じられない。
今カナさんの胸中はどういう感情に埋め尽くされているのだろうか。大切な先輩がいなくなってしまった喪失感か、それともエンが語ったように死んだリオさんへの憂いか。
「…………」
どうしても自分に置き換えて考えてしまう。
私が死んだら私を愛してくれている人も同じ状態になるのだろうか。
もしそうなら悲しいな。だってそれは私の心を分かってくれていない証左だから。
不毛な妄想をしている間にも、カナさんは踏み台の三段目に乗って棚から本を引き抜こうとする。
その時、摩擦で隣の本まで引っ付いてきて棚から落ちていく。
それに一瞬遅れて気づいたカナさんが空中で本を受け止めようと腕を伸ばし────
「──あぶないっ!」
踏み台よりもカナさんの上半身が外側に行って体勢が大きくぐらつき、私の叫び声も虚しく踏み台から落ちて派手に床に倒れた。
運よく近場に他の男性職員がいたらしく、駆け寄ってきてすぐにカナさんを介抱する。
「荻原さん、大丈夫!?」
「……あ、はい……大丈夫です……すみません……」
カナさんはすぐに起き上がってからバツが悪そうに項垂れた。
しっかりと返事をしているし、痛みを我慢している様子はない。反射的に手を付いて体を庇ったようで大事には至らなかったようだ。
男性職員は安堵して「荻原さん、無理しなくていいからね」と優しい声音で言う。
注意をせずに労る様子からして周りに気遣われるほどに弱っているらしい。仕事のミスならまだしも、今のような不注意の事故を目撃するとリオさんが心配するのも頷けた。
男性職員に休憩室で大事を取るよう促されたカナさんは、申し訳なさそうに謝りながらも指示に従ってその場を去っていった。
男性職員が仕事を引き継ぐのを尻目に、私は通路を引き返す。
予期せぬ物事が次々と目の前に現れて、脳は休まるどころか疲労が増している。このまま散策を続けて気分を萎えさせるより、まだユウと無駄話をしていたほうがマシだ。
すぐに学習スペースに着くと、ユウは同じ席から微動だにしていなかった。
私に気づいてテーブルから顔を上げる。
「随分と早いお戻りですね」
「特にやることが無くてね」
「そうですか。予想外の早さではありましたが、タイミング的には良かったです」
「タイミング? ……ってあんた、なにリオさんの日記を勝手に見てるのよ」
テーブルの上でページが開かれていて明らかに読んでいた形跡がある。
「暇だったので」
「悪びれもしないで……リオさんは私よりも先にここから離れたから許可取ってないでしょ。プライバシーの侵害に当たるわよ」
「自ら他人に預けた時点でそれは通用しませんよ。それよりもただの過去を記録した物だと思っていましたが、中々に面白い書き方をされてますね。例えばこの日とか」
「こっちに日記帳を向けてナチュラルに共犯者にしようとするな」
「大げさですね。それに日記帳を読むことで何か解決の糸口が見つかるかもしれませんよ」
「う……それはそうかもだけど……」
「このまま手を拱きたいのなら無理に勧めはしませんが。どうします?」
先程のカナさんの様子を思い出して迷いはじめる。
早期解決を望むなら多少の悪事に目を瞑って手当たり次第に物事に当たったほうがいいか。あと、なんだか甲斐性なしだと煽られているような気もしてムカつくし。
結局は日記帳を受け取った。
椅子に座り、心の中でリオさんに謝りながらユウが見せてきたページを見る。
半年前の日付のものだ。
『1月23日。
今日も今日とて図書館のお仕事!
代わり映えのしない日かと思いきや、相談窓口に珍しいお客様が来た。
なんと青春真っ只中のJKちゃん!
しかも相談事は好きな作家さんにファンレターを書きたいとのこと。いいね、素晴らしいことだね! あたし自身も書いて送ったことがあるから共感!
そしてどうやらその作家さんが長らく筆を止めているみたいで、自分の好きの気持ちを伝えて励ましたいそう。もう素晴らしいを通り越して感動だね! 良い子すぎて泣ける!
本来の仕事は後回しにして相談に乗った。あたしの人生経験が役に立ってくれたかな? なっていれば嬉しいな!
あの子のファンレター(あったかい気持ち)が作家さんの心に届くように願いながら、あたしは今日を終える!
誰かの力になれるよう明日も頑張ろー!』
達筆だから真面目な文体だと先入観を抱いていたが、意外にノリノリな書き方だ。出来事の詳しい流れよりも、それに対する感情に比重を置いている感じか。おかげで気軽にスラスラと読める。
正直、他人の歩みを見たところで無益か劣等感に苛まれるかだけだと思っていたが、リオさんの日記からは(陽のオーラが出ているにもかかわらず)不思議と嫌な気分はしない。むしろ────
「他の日も読みたくなりましたか?」
「…………べつに。ただ、他に良い時間の使い方がないのも事実だからね。何もしないよりは有意義でしょ」
本音を言ってイニシアチブを取られるのは我慢ならないので、無理やり感が満載な言い訳で押し通す。
ユウに背を向けて会話は打ち切りだと暗に伝え、本格的に続きを読み始める。
主に司書の仕事に関するものが多く、ちょこちょこと休日のことが書かれている。
受付でお客様と趣味嗜好が意気投合して長話したこと、入荷した新刊が好きなものでテンションが上がったこと、子供たちへの読み聞かせで感情が乗りすぎて怖がらせたこと、積んでいた漫画を一気読みしたら夜更かしして一日中眠かったこと、映画鑑賞で初めて感涙したこと。
そのどれもがありふれた日常のことなのに、次の日、またその次の日……とページを捲る手を止められなかった。まるで追っかけている小説が手に入った時のように、他の物事が頭の中から消え去って無我夢中になった。
読んでいるだけで、リオさんの生に対する前向きな気持ちが伝わってくる。
どこにも厭世的な思考がないのだ。
激務の日でも『それだけこの図書館が必要である証拠』だと好意的に捉え、対応した利用者が横柄だった日でも『結構声はイケボだった』と笑い話に変えていた。
そして、いつも最後の締めくくりは明日への励みの言葉。そこに未来へ対する恐怖心は微塵もなく、待ち遠しい気持ちすら窺えた。
私には眩しかった。けれど、その楽観的とも呼べる明るさは目を覆うものじゃなくて、陽だまりのような仄かな温かさを感じる柔らかいものだ。
私は読み耽る。
ページに書かれた文字から溢れ出る感情に身を任せ、リオさんの生き様を追体験していく。
日記は四ヶ月目に入ったところで。
「──あたしの日記は面白いかな?」
「……!?」
私は驚きのあまり勢いよく日記帳をテーブルに置いて、バッと振り返る。
気がつけばリオさんが戻ってきていた。
近くにある掛け時計を見ると、正午前だった。自由行動してから一時間半も経っている。
ようやく思考が現実に立ち返り、急激に罪悪感が込み上げてくる。すぐさまリオさんに向かって頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! 断りもなく勝手に読んじゃいました!」
「え、ああいいよいいよ。元から見てもらう前提で渡してるからね。気にしないで」
リオさんは軽やかな口調で言う。本当に何とも思っていなさそうだ。よかった……。
「それで、あたしの日記はどう? 読み応えあったかな?」
「えーっと……」
「正直に言ってくれて大丈夫! 最後の日付に書くことのヒントになるかもしれないしね」
私は日記帳に視線を向ける。
本心をさらけ出すのが恥ずかしくて口籠ってしまうが、無断で読んだ引け目もあって嘘をつくことはできなかった。
「その…………生を実感できたというか……」
「生を実感?」
「リオさんの日記からは生きていくことへの希望がまざまざと感じ取れて……誰にでも訪れるような普通の出来事でも感情や見方一つでこんなに色鮮やかなものに変わるのかって心に響いて……生きようとする理由が分かったような気がして……」
灰色の世界に浸る私の心が絆されてしまいそうになるほどに純真さが表れた日記だった。
「…………」
私のたどたどしい感想に、リオさんは何も返答せず無言になる。
少し表情が硬いような気がして、何か見当違いなことを口走ってしまったかと不安になる。
「あの、もしかして気に障ることを言ってしまったでしょうか……?」
「え……ああいやいやっ! これまで客観的な意見をもらったことなくて、あたしの日記って意外に深い印象を抱かせるんだなぁってしみじみ思っただけだから!」
「う……なんか真面目に語っちゃって引きますよね……」
「……ううん。ちょびっと照れはしたけど成瀬ちゃんの感想とっても嬉しかったよ。自分のやってきたことを好印象に受け取ってくれるのはこれからの自信にも繋がるからね」
「そ、それならよかったです」
よく考えてみれば日課で書いているものに対して(本心とはいえ)大げさな表現だった。普通だったら場が白ける行為だが、リオさんが寛容で助かった。
それからユウも混ざって日記について会話をしていたら、少ししてエンも戻ってきて、そのまま午後の作戦会議を始めた。
ひとときの休憩のおかげで新たな案も思い浮かんできたものの、やはり決定打には欠け、話し始めて二時間を過ぎたあたりで再び午前の状況となってしまった。
それを見兼ねたのか、リオさんが口火を切る。
「……みんな、あたしの為に頭を悩ませてくれてありがとう。このままずるずる時間を使わせちゃうのは悪いから、今日はもうお開きにしよっか」
「私なら他にやることもないので気にしなくても大丈夫ですよ」
「もう今日は十分に協力してくれたから、その気持ちだけ貰っておくね。それにあたし自身も少し考えたいことがあるからさ」
「それなら……分かりました。また明日、今日と同じ時間帯に集合でいいですか?」
「うん。ありがとう。すごく助かる」
その会話を最後に、私はユウとともに図書館を出て帰路についた。
***
時刻が午後六時を回った。
図書館から寄り道をせずに家に帰りついてから、私は自室のベッドに寝転がっては起きてボーっとするだけの無益な時間を過ごしていた。気晴らしに外へ散歩しに行こうかとも思ったが、肝心の気力が湧かずに即却下となった。
ちなみにユウも自室にいて、部屋の隅っこで壁に背を預けて座っている。図書館から帰ってきてからずっとその体勢で、物言わぬ様も相まってまるで人形のようだ。
そのくせ時折こちらに目を向けてくるのだ。監視されているみたいで居心地が悪い。
喋りかけると面倒なことになるから敢えて無視していたが、そろそろ我慢の限界だ。
「──ユウ。そんな硬い床に長く座ってるとお尻が痛くなるわよ。一階のソファに行きなさい」
「ボクのことはお気になさらず。汐さんは汐さんの時間を過ごしてください」
「気が散るって言ってるの。それとも何か私に言いたいことでもあるの?」
「そうですね。もう今日は終わりを迎えますが、チトさんの物語は書かないんですか?」
「あんな喧嘩して書くわけないでしょ。どのみちチトが登場してないから書く意味ないしね」
「と言う割には、ちゃんと毎日欠かさず書いていますよね?」
「…………いつの間に読んだ……?」
「今日の未明です。深夜ぐらいに汐さんが机に座って何かをしているのを目撃したので」
私が眠ったあとにこっそり起きていたのか。毛布に包まってスヤスヤ寝息を立てていたから油断した。寝たふりとは根性が悪いな。
バレてしまったものはしょうがない。ここは開き直ろう。
「どうせチトのことだからいつかは私の前に顔を出すでしょ。結局あいつを成仏させる為には物語を完成させないといけないんだから、振り回されない今のチャンスにページを消費しておこうと思ってね」
「思惑はさておき、汐さんは律儀ですね。喧嘩を理由に約束を反故にする選択も取れるのに」
「それで罷り通る相手ならそうしてるわよ。それに一時の感情で破るのはなんか子供っぽくて嫌だしね」
「つまり今はチトさんに対して怒っていないと?」
「なわけない。このまま顔を合わせずに済むならそっちのほうがいい」
特に今だからこそ会いたくない。今の心境で会ってしまえば今度こそ私はあの能天気な明るさに呑み込まれてしまいそうだから。
ユウは視線をこちらから床に落として沈黙する。いつもの眠たそうな表情に変化はないが、その様子からは何かを思い悩んでいるのが見て取れた。普段の図太い神経からしたら珍しい。
やがてユウはまた私を見上げてくる。
「汐さんは読んでみましたか?」
「読むって何を?」
「チトさんと物語を作ろうと決めた日の最初のページから今に至るまでの文章です」
「……書いたのは私よ。改めて読む意味はない」
「推敲はしないんですか?」
「それは下書きの時点でしてるし、もし間違っている部分があったとしてもペンで書いたから直せないわよ」
「二重線で消して横に正しい字を追加すればいいじゃないですか」
「見栄えが悪すぎでしょ……」
「誤字脱字があるよりはマシです。あとでチトさんが読んだ時にゴネるかもしれませんよ」
「私が下書きを確認してってお願いした時に、完成してから一気に読みたいって言ったのはチトよ。文句なんて言わせるもんか」
「チトさんの気まぐれさを甘く見すぎです。一度だけでも確認したほうが絶対にいいですよ」
「なら、ユウが読んで私に教えてよ。著者よりも別の人が見たほうが間違いに気づきやすいし」
「……ボクは漫画やアニメ派で、長い文章を読むと眠たくなってしまうので無理です」
ユウは目を逸してあからさまな言い訳をする。
その様子からは意固地になっている気持ちが見え透いて、私は溜息をついた。
「妙に催促してきてあんたの意図が何かは知らないけど、私は読む気がない」
「…………」
「今日の分をさっさと終わらせたいから、自室にいたいなら大人しくしてて」
これで話は終わりと言わんばかりに、私は机の椅子に座ってユウに背を向けた。
机の引き出しから下書き用のノートを取り出して、今日のストーリーを思い出す。
同時にリオさんの日記の内容までも頭に浮かんできて、そちらに思考の全てを奪われる。
リオさんは私とは違う。生まれも育ちも、心意気だって何もかも違う。
だから納得してはいけない。希望を抱いてはいけない。
もう後悔をするのは嫌だから。
私は当初の目的だけを考えていればいい。
チトを成仏させる。その為だけにこの物語を完成させる。他意を抱く必要はない。
しかし見せかけの決意は脆く、書き終わったのは深夜になってからだった。




