恋のぼり
気持ちを文化祭実行委員のモードに切り替えて生徒会室の扉をノックすると聞いたことがある声がした。
「入って」
「失礼します。一年一組の安相類です。文化祭の企画書を……あ、冷泉さん」
「ああ、安相君。いらっしゃい」
生徒会室は普通の教室と同じサイズの部屋だが十数人は囲めそうな大きなテーブルが中心にあり、文化祭などで使うと思われる装飾品や書類の棚などが置いてあって狭く見える。合格発表のときに出会った生徒会副会長の冷泉さんはテーブルの周りに置かれた出入り口近くの椅子に腰かけ一人でお弁当を食べているようだ。
「一人なんですね」
「昼休みは当番制で誰かしら生徒会室にいるようになっているの。決して友達がいないわけではないわ」
「そこまでは言ってないですけど……まあいいや、企画書を提出に来ました」
企画書を手渡す。冷泉さんは一瞥すると僕の顔を見た。眼鏡の奥にクールな瞳が光っていて睨まれているわけではないのに変な緊張感が襲う。
「えっと、なんでしょう。何か駄目なところありましたか?」
「駄目ではない、むしろ面白いと思う。皆飲食店とかステージでの劇とかやりたがるところであえて制作物の展示を選んだのは特別感があって良い。二種類の『こい』にかかっているし私は好き。でも心配なことが二つ」
「二つ? なんですか?」
「別に企画として承認できないレベルではないから教える必要はないわね」
意地悪しているそぶりもなくきっぱりと断られてしまった。クールな見た目通りのドライな中身をしている。
「合格発表のときに何でも相談してって言ったじゃないですか、貸し一つということで一つは教えてくださいよ」
少しの間考えた結果、冷泉さんは教えてくれた。
「立場上あまり特定のクラスに手を貸したくはないから、特別に」
「はい、ありがとうございます」
「鯉のぼりは三匹制作予定で、一匹につき恋のメッセージの鱗を約百五十枚くっつける。ということは合計で四百五十枚集めるってことよね。足りない分は何も書いてないもので埋めればいいかもしれないけど、そればっかりだと白けるかもね」
「集まらないかもってことですか?」
「そう。うちの生徒は一学年二百八十人だから全部で八百四十人。メッセージの募集活動の許可は出るだろうけど半数以上の生徒が書いてくれると思う? 恋のメッセージなんて、私は素敵だと思うけど、照れくさくてよっぽどの人じゃないと書かないと思う」
冷静になって考えると冷泉さんの言う通りかもしれない。自分が恋をしているから皆当たり前のように書くだろうと思っていたが、誰も彼もが恋をしているわけではないのだ。恋をしていても書いてくれるとは限らない。僕も三春さんも匿名ならいけると思ったが、第三者に指摘されると厳しいように思えてくる。
「……生徒会では近隣の小中学校や老人ホーム、それから町内の普段お世話になっている施設などに文化祭の入場チケットを配布している。人手が足りなくて結構大変だからあなたたちが手伝ってくれるなら、ついでに恋のメッセージの募集も依頼してもいい。既婚者にも普段はなかなか言えない愛を語ってもらうこともできる」
「本当ですか? ぜひお願いします」
「じゃあ詳細はこの企画が正式に承認されたときに。あとこの鱗」
教えてくれるのは一つだったはずだがもう一つ教えてくれるようだ。クールでドライに見えて結構優しい。
「書いてもらった紙をラミネート加工して鱗の形に切り取って鯉のぼり本体に縫い付ける、か。まあ色んな人から書いてもらう以上全員が鯉に直接書くのは無理だものね、これは仕方ない。でもこんなに縫い付けたら重くならない? 校旗を掲げているポールに括り付けるってあるけど、この重さじゃ相当風が吹いていないと垂れちゃいそう。この作り方にしたいなら横になびかせるんじゃなくて縦になびかせるようにした方がいい。ちょっとベランダに出てみて」
言われるがままにベランダに出るとちょうど昇降口の上に出て、合格発表のときに大勢が集まっていた広場が一望できる。冷泉さんもベランダに出て僕と一緒に外を見渡した。
「左側、一階が駐輪場になっている二階建ての建物が見えるでしょ? あれは武道場で柔道部とか剣道部が活動しているんだけど、あそこの外階段のところの柵とこのベランダの柵を丈夫なひもか何かで結んでそこに鯉を括り付けたらどう?」
イメージできる。縦向きの鯉が横に三つ並んで、風がなくて垂れてしまっても縦向きなら気にならない。二階の高さならメッセージが見えそうで見えないからじっくり見てくれる人も多そうだ。
「すごい、うまくできそうです。ありがとうございます冷泉さん。一つだけじゃなくて二つも教えてくれるなんて」
「あ、いや、今のは忘れて。別にあなたたちの企画が楽しみだったわけではないから」
本当は言うつもりがなかったらしいがつい言ってしまったようだ。冷泉さんは照れて生徒会室に戻ってしまった。
「もう話は終わり。承認されたら大急ぎで鱗に使う紙を用意すること。あとあなたの連絡先を教えておいて。チケットを配りに行くときとか必要になるから」
部屋の中から少し早口で冷泉さんが僕に声をかける。クールで硬そうな人だと思ったけれど意外と感情豊かなようだ。
「冷泉さんのためにも頑張ります。メッセージも書いてくださいね」
「……気が向いたらね」
生徒会室にいたのが冷泉さんで良かった。すでに二回も文化祭を経験している三年生から色々とアドバイスをもらい、イメージが明確になっていく。僕は大急ぎで教室に戻って尊琉たちに報告した。
次の日の放課後には承認がおりて準備が始まる。クラスメイトを三つに分けてそれぞれ一匹ずつの作成にあたってもらう。作成の全体指揮は意外と、というと失礼だが美術系に秀でた増子さんが担当する。僕と三春さんと尊琉も一応一匹ずつ担当するがそれよりも買い出しや生徒会など色々なところとの交渉、調整などが中心だ。
三匹の鯉は校章の色に合わせて、瑠璃色、茜色、萌葱色、とはいかず青、赤、緑の三色。鯉のぼり自体はデザインさえできればオーダーメイドで作成できる業者に頼むことになった。鱗の部分だけ模様がない鯉のぼりを作ってもらってそこにメッセージ入りの鱗を縫い付けるという手順だ。
一週間後には鯉のデザインも完成し、業者に頼む寸前までになっていた。しかし恋のメッセージの校内募集はもう少し待つように冷泉さんから言われていたので少しやきもきしてしまう。
作成開始から一週間後の放課後に僕は冷泉さんから呼び出しを受けていた。生徒会室には以前とは違い大勢の生徒会役員の人がいたが、依然と同じ出入り口近くの椅子に冷泉さんは座っていた。
「わざわざ悪いわね、安相君。忙しいでしょう? 時間は大丈夫?」
「時間はあんまりないですね。文化祭の方は順調で、あとはメッセージ募集さえできればってところです」
「そう。そのメッセージ募集のことで呼んだのだけれど、今日すべてのクラスの企画書が提出されて承認がおりたわ。明日の放課後、全校集会を開いて熱田君が文化祭開始宣言をする」
「開始宣言? 文化祭は六月のはずですけど」
「準備も含めて文化祭だから。まあすでに準備を始めているクラスがほとんどなんだけど、士気高揚のために、ね。その集会が終わったら校内でメッセージ募集を始めてもいいわ。チケットの配布行脚の予定はこのプリントの通りだから、クラスで配りに行く係になっている人と共有しておいて」
「はい。ありがとうございます」
「ところで、文化祭は順調だけど時間はないって言ったけど他の用事があるの?」
「そうなんです。実は一週間くらい前にひったくり犯を追っかけておばあさんの鞄を取り返したことがあって。結局犯人には逃げられちゃったんですけど、僕が追いかけたルートにある防犯カメラとか僕の証言とかが役に立って犯人が捕まったらしいんです。それで警察署から表彰されることになって、あと十五分くらいしたら須藤先生が車で送ってくれるんです」
冷泉さんはクールな表情を保ちつつも目を丸くしている。やがて大きなため息をついた。
「またあなたに貸しを作ってしまったのね」
「どういうことですか?」
「あなたが取り返したのは私のおばあちゃんの鞄。西高の生徒が取り返してくれたって聞いてたけどまさかあなただったとはね」
「ええ? そうだったんですか。でも貸しとかいいですよ、直接冷泉さんを助けたわけじゃないですし」
「いえ、あの鞄の中には私にお小遣いとしてくれるはずだったお金も入っていたから……冗談よ。毎日飲まないといけない薬とか、お小遣いどころか通帳とか印鑑とかもっと大事なものも入っていたから、あなたがいなかったら大変なことになっていた。本当にありがとう」
冷泉さんは立ち上がって僕に頭を下げた。周りの生徒会の人たちも話が聞こえていたのか控えめな拍手で讃えてくれた。照れくさかったが悪い気はしない、なんとなく居心地の良さを感じて、また冷泉さんに何か相談しにここに来ようと思った。
尊琉に冷泉さんから貰ったプリントを預けて須藤先生の車に乗り警察署へ向かった。
通された部屋にはなんと新聞記者やテレビカメラまで来ていた。警察署の署長さんから感謝状を渡される僕をカメラに収める二人のカメラマン。緊張して硬い表情になってしまい、明日の新聞やニュースで皆に笑われてしまうかもしれない。
表彰式が終わり部屋を出ようとすると、テレビのカメラマンと一緒にいた女性に声をかけられた。長く明るい茶色の髪を背中側に一本に縛って腰辺りまで垂らしたその女性は年齢は二十代半ばくらい、地元のニュース番組でよく見たことがあり、美人と評判だった気がする。
「安相君。少しだけインタビューいいかな?」
カメラと同時にマイクを向けられ、とっさに頷いた。
「ありがとう。私、アナウンサーの冷泉萌花です。よろしくね」
「あ、はい」
「では、ひったくりの犯人を追っていたときの心境を教えてください」
「えっと、目の前で鞄を取られるおばあさんがいて、とにかく助けなきゃ、追いかけなきゃって思って、追ってる間は夢中でした。諦めたら後悔する気がしてずっと追いかけて、自分の家の近くまで来て、知ってる道だったのでうまく追いつけました」
「怖くはなかったですか?」
「はい、必死だったので」
その後もいくつかの質問に答えるとインタビューが終了した。これもテレビで流れると思うと照れくさい。
「ではこれで終了です。ありがとうございました」
アナウンサーさんが頭を下げる。インタビューくらいで大げさすぎるほどに深々と丁寧に頭を下げている。さすがにもうカメラで撮影はされていないようだ。
「あの、そんなにするほどのことじゃ……」
「いえ、実はあなたが取り返してくれた鞄の持ち主は私の祖母なの」
「え?」
社員証なのかただの名札なのかは不明だがアナウンサーさんの首には名前が書かれたカードがかけられていて、その名前は冷泉と書いてある。同じ苗字で同じ人をおばあちゃんと呼ぶということは考えられるのは一つだ。
「冷泉さんのお姉さん?」
アナウンサーさんの顔がパッと明るくなった。いつもクールな冷泉さんとは違って明るくて朗らかな表情だ。眼鏡を外して少し大人っぽくメイクすると冷泉さんもこんな顔になるのだろうか。
「あなた、静ちゃんの知り合い? 同じ高校だからもしかしたらって思ってたけど」
「はい。文化祭のことで色々お世話になってて」
「あーもうそういう時期だよね。私も西高出身だから分かるなあ。静ちゃん三年生だから気合入ってるでしょ?」
気合、入っているのだろうか。冷泉さんは真面目だけどいつもクールでどこまで熱が入っているか掴みにくい。でも、僕にたくさんアドバイスをくれたり、企画を楽しみにしてくれているあたり気合は入っているのかもしれない。
「はい、おそらく。いつもクールだから分かりにくいですけど」
「まあそうだよねー。静ちゃんっていつもクールだけど心の奥底では燃えてるタイプだから。ところで君たちのクラスはどんなことするの? 取材に入る予定だからおばあちゃん助けてくれたお礼に君のクラス特別に長めに撮影しちゃうよ」
萌花さんに今年のテーマから僕らのクラスの企画を説明した。
「へー鯉のぼりに恋のメッセージかー。いいねー青春だね。言うなれば恋のぼりだね。ああ魚じゃなくて恋愛の方の」
恋のぼり。しっくりきた。企画書は仮の名前だから正式な名前はこちらにしよう。
「ね、校外の人にも恋のメッセージをお願いするんだよね。じゃあ私にも書かせてもらえないかな? 卒業生として協力させてくれない? 静ちゃんに渡してもらえばいいから」
「もちろん。あとで冷泉さんに渡しておきます」
「ありがと。じゃあ私からはこれ、何かあったら連絡してね。おばあちゃんのお礼に何でも相談乗るよ」
そう言って萌花さんは自分の名刺を僕にくれた。小学生のときに授業の中で名刺を作ったことがあるがそのときのような名前とクラス程度の簡単なものではなく、名前以外にも所属の会社名、部署名、連絡先など社会人としての萌花さんの情報が書かれていて、なんだか大人になった気分になる。冷泉さんに自慢したらどんな反応をするだろうか。
学校に戻ると今日の分のクラスの作業は終了したようで皆帰り支度をしていた。尊琉に進捗を確認して僕も帰り支度をする。
三春さんとは特に問題は起きていないが進展もない。明るくて優しくてよく話しかけてくれて、クラスの男子の仲では一番仲が良い自信はあるが、あの日以来大事な話はできていない。三春さんは時折僕を見定めるような視線を向けることがあるが、その心の内を理解できるのは三春さん自身と増子さんだけだろう。