第二章:運命の対決
天蒼山脈の烈焔宗では、暗影宗との戦いが一時小康状態を迎えていた。しかし、紅華の胸中は静かではなかった。藍風の再会が彼女の心をかき乱し、彼の冷淡な態度と戦場での力に疑問が膨らんでいた。彼女は烈焔宗が誇る最強のアルファ。その鋭い本能が、藍風の何かを隠した気配を見逃さなかった。
そんな中、宗門に古くから伝わる掟が動き出す。烈焔宗の次期宗主たる紅華は、「公開試練で自身を打ち負かした男と結ばれねばならぬ」という慣習に従い、伴侶を選ぶ戦いに挑む時期が到来したのだ。
この掟は、アルファの優位性を示しつつ、霊的結びつきを試すものでもある。紅華はオメガの発情香に惑わされることなく、自らの力を証明し続けると誓っていた。
試練の前夜、藍風は自室で扇を手に持ったまま、窓の外を見つめていた。月光が青墨色の長袍を照らし、彼の冷ややかな瞳に深い影を落とす。彼は都で築いたベータ官僚としての地位を捨て、この試練に挑む決意を固めていた。
ベータと呼ばれる者たちは、霊性が中庸で、修練によって力を得るが、アルファやオメガのような天賦の才を持たない。紅華に勝つことができれば、彼女の伴侶としてそばにいられる。
だが、その代償として、彼の秘密――オメガであるという事実が露見するかもしれない。藍風は扇を開き、そっと呟いた。
「紅華、お前を守るためなら、俺の全てを賭けてもいい……たとえ、それが俺を滅ぼすとしても」
彼の胸には、幼い頃の記憶が蘇っていた。崖で紅華を助けたあの日の涙、薬草を渡した時の笑顔、そして彼女に投げ飛ばされた屈辱。それでもなお、紅華のそばにいたいという想いが、彼をここまで駆り立てていた。
だが、オメガの本能が疼き始めているのも感じていた。彼女のアルファの気配が近づくたび、抑えきれぬ衝動が彼を苛むのだ。都で調合した薬で霊潮を抑えてきたが、紅華の強烈な霊気がその効力を揺らがせていた。
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試練の日、烈焔宗の闘技場は熱気に包まれていた。朱塗りの柱が立ち並び、観衆席には宗門の弟子や長老たちが集まり、風に揺れる旗が祭りのような雰囲気を醸し出す。紅華は緋色の戦袍を纏い、霊剣「焔華」を手に中央に立った。
黒絹のような髪が風に揺れ、鋭い瞳は燃える炎を宿している。アルファとしての彼女の威風堂々とした姿に、誰もがその勝利を疑わなかった。過去、何人もの挑戦者が紅華に挑み、全てが焔華の炎に焼き尽くされていたからだ。彼女の霊気は、烈焔宗の炎を象徴する皇王種の力そのものだった。
長老の一人、白髪を束ねた烈風老人が高台から声を張り上げた。
「烈焔宗の掟に従い、次期宗主紅華に挑む者を募る。勝者は彼女の伴侶となり、宗門の未来を共にする資格を得る!」
観衆がざわめく中、紅華は冷ややかに見回した。
「無駄なことだ。私に勝てる者など、この世に存在しない」
その言葉に、弟子たちは畏敬の眼差しを向け、長老たちも頷いた。アルファである彼女に挑むなど、凡人種のベータだけでなく、皇王種であるアルファにすら不可能と誰もが信じていた。
だが、その時、静かな足音が闘技場に響いた。藍風が扇を手にゆっくりと歩み出てきた。青墨色の長袍が風に揺れ、腰の白玉の佩玉が微かな音を立てる。彼の表情は冷たく、しかし瞳には微かな炎が宿っていた。
「私が挑戦者だ、紅華」
その声に、観衆は一瞬静まり返り、やがて嘲笑が広がった。
「都の官僚如きが?」「ベータがアルファに勝てるはずがない!」
弟子たちの笑い声が響き、長老たちも眉をひそめる。烈風老人は藍風を見据え、警告するように言った。
「若者、これは遊びではない。退くなら今だぞ」
藍風は扇を開き、静かに答えた。
「退くつもりはない。烈焔宗の掟に従い、紅華に挑む」
紅華は目を細め、焔華を構えた。幼馴染がこんな場面で自分に挑むなど想像もしていなかった。彼女は冷笑を浮かべた。ベータである彼が、アルファの彼女に敵うはずがないと確信していた。
「いいだろう。昔のように、簡単に片付けてやる」
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試練が始まった。紅華が一歩踏み込むと、焔華から炎が迸り、闘技場に熱風が吹き荒れた。彼女の剣技は烈焔宗秘伝の「炎龍舞」――炎を纏った刃が龍の如くうねり、敵を焼き尽くす技だ。
アルファの霊気がその威力を増し、観衆は息を呑み、その力に圧倒された。紅華は焔華を振り上げ、炎の龍を藍風へと放つ。だが、彼は動じず、扇を軽く振る。青い霊気が風を呼び、炎を散らした。
「何!?」
紅華が驚く間もなく、藍風は身を翻し、彼女の背後を取る。その動きは鋭く、まるで風の精霊のようだった。ベータのはずの彼が、こんな術を操るとは。
紅華はすぐに反撃に転じ、焔華を振り下ろす。炎の龍が再び藍風を襲うが、彼は扇から放った風刃でそれを切り裂き、さらに地面に仕掛けた罠を起動させた。
闘技場の土が隆起し、紅華の足元を崩す。彼女は咄嗟に跳躍して回避したが、その一瞬の隙を藍風が見逃さなかった。彼は紅華の攻撃パターンを幼馴染として熟知しており、次に焔華を振り上げるタイミングを予測していた。
「そこだ!」
藍風が扇を振り抜くと、鋭い風刃が紅華の肩をかすめ、戦袍を切り裂いた。彼女は痛みに顔を歪めつつも、焔華を地面に突き立て、炎の波を放つ。闘技場全体が熱気に包まれ、観衆が悲鳴を上げる中、藍風は扇で風壁を張り、炎を防いだ。
紅華は息を整え、藍風を睨んだ。このままでは敗れるわけにはいかない。彼女は焔華を両手で握り、秘技「炎龍滅陣」を繰り出した。闘技場に炎の柱が立ち上がり、藍風を包み込む。
観衆は「紅華様の勝利だ!」と歓声を上げた。だが、炎の中から青い風が吹き抜け、藍風が無傷で現れた。彼は扇を捨て、素早く間合いを詰めると、紅華の手首を掴み、焔華を地面に叩き落とした。
その瞬間、彼の身体から甘い香りが漂い、紅華の鼻をついた。彼女は目を見開き、アルファの本能がざわめくのを感じた。
「オメガの発情香……!?」
その香りに頭がクラリとし、紅華は一瞬、藍風を求めそうになる衝動に駆られた。アルファである彼女にとって、オメガの霊潮が放つこの甘さは、抗いがたい誘惑だった。だが、彼女はそれを必死で抑え、彼を睨みつけた。
藍風は紅華の腕を捻り、彼女を地面に押し倒した。闘技場に静寂が訪れ、観衆は呆然とした。紅華が倒れている。烈焔宗の最強のアルファが、ベータのはずの男に敗れたのだ。
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藍風が手を離し、紅華が立ち上がると、闘技場は騒然となった。弟子たちの反応は様々だった。「あり得ない!」と叫ぶ者、「藍風を認めよう」と呟く者、そして「ベータが勝つなんて」と嘲笑する者。長老たちも顔を見合わせ、烈風老人が立ち上がり、声を震わせて問うた。
「藍風、お前は何者だ? ベータがこのような力を発揮するなど……」
「ちょっと待て。この匂いは……オメガではないか?」
別の長老が口を挟んだ。オメガの存在は、霊脈の力を秘めた者として宗門でも稀であり、その発情香はアルファを惑わす危険なものとされていた。
「オメガならば、掟の解釈が変わる。紅華の伴侶として認められるべきか、宗門の名誉を汚す存在か、我々で議論せねばならん」
議論が沸き起こる中、紅華は焔華を拾い上げ、藍風を睨みつけた。彼女の胸には屈辱と混乱が渦巻いていた。
「お前、オメガだったのか? 私を騙していたのか!?」
藍風は静かに目を伏せ、答えた。
「……隠していたのは事実だ。だが、騙すつもりはなかった。紅華、お前を守るために、この試練に挑んだ」
その言葉に、紅華は焔華を握り潰すように力を込めた。幼馴染がオメガである事実、自分が敗れた現実、そして彼の発情香に揺さぶられた本能が、彼女のプライドを粉々に砕いた。
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その夜、紅華は自室で焔華を手に持ったまま、藍風のことを考えていた。彼がオメガだった事実、彼が自分を倒した力が頭を離れない。藍風が隠していた理由は何か? あの戦いで見せた力は、ベータの修練を超えた、オメガの霊脈から来るものなのか? 彼女は目を閉じ、幼い日の記憶を思い出した。
崖で助けてくれた藍風、薬草を探してくれた藍風――あの優しい少年が、こんな力を秘めていたのか。だが、同時に、彼が強くなったことを喜ぶべきか、裏切られたと感じるべきか、自分でも分からなかった。
「藍風がオメガだとしても、私には関係ない。私は烈焔宗の次期宗主、最強のアルファだ。こんなことで揺らぐわけには……」
だが、その言葉とは裏腹に、彼女の心は藍風の発情香に囚われていた。あの戦いの瞬間、本能が彼を求めそうになった感覚が、彼女を苛んだ。アルファとしての誇りと、オメガへの衝動がせめぎ合う。
一方、藍風は宗門の片隅で一人、扇を手に持っていた。彼の胸には、紅華への愛と、オメガとしての本能がせめぎ合っていた。試練に勝ったことで、彼女のそばにいられる可能性が生まれた。だが、オメガ性が露見した今、宗門からの嘲笑と都での地位の喪失が彼を待ち受けていた。彼は扇を手に握り、呟いた。
「紅華、お前が俺をどう思おうと、俺はお前を守る。それが俺の運命だ」
彼の手が微かに震えていた。試練の後、彼の身体は霊潮の兆候を示し始めていた。紅華のアルファの気配が、彼のオメガの本能を呼び覚ましていたのだ。