第一章【天城 ハル】⑦(了)
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佐藤ははっと目を覚ます。
呼吸が荒く、心臓が急に全力で鼓動し始めたような感覚がある。
寝汗が背中に滲んでいて、Tシャツが肌に貼りついていた。
──夢か……
時計をみれば時刻は午前8時。
病院を出た時と同じ時間だ──つまり。
「丸一日寝たのか。……それよりも」
佐藤は玄関へ目を遣る。
先ほどから何度もインターホンが鳴らされていた。
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ドアを開けると、そこに立っていたのは天城 ハルだった。
まったく予想していなかった来訪者に、佐藤は表情も変えずに小首を傾げる。
「ごめん、急に来ちゃった。ええと、本当はお見舞いに行こうと思ったんだけど、面会時間とか制限されてるっていうから……それに、特に異常はないって涼子さんから聞いたから安心してたんだ。でも、一応顔を見ておきたいなって」
ハルはどこか落ち着かない様子で視線を揺らしている。
両手で小さな紙袋をぎゅっと握りしめ、突拍子もなく「お邪魔、かな?」と付け足した。
「いや、別に……立ち話もなんだし、どうぞ」
佐藤がそう言うと、ハルは素直に靴を脱ぎ、部屋の中に入った。
狭いワンルームだが、最低限の家具とベッド、それから筋トレ器具だけは置いてあるため、生活感というより無機質な印象が強い。
ハルはちらりと室内を眺め、すぐに佐藤の方へ向き直った。
「……けが、大丈夫なの?」
「はい、かすり傷だけですね」
それだけ聞くと、ハルはふう、と息をつく。
視線が少しだけ柔らかくなった気がするが、それも一瞬のこと。
すぐに握りしめていた紙袋を佐藤に差し出した。
「たいしたものじゃないけど、栄養ドリンクとか入ってる。あと、ガーゼとか。その、僕にできるお見舞いっていってもこれくらいしか思いつかなくて……」
「ありがとうございます」
素直に礼を言うと、ハルの顔がぱっと明るくなる。
それから少しの沈黙。
ハルは何かを言いたげに口を開きかけては閉じる、という仕草を繰り返している。
佐藤はそんな彼女に目を向けながらも、自分から話題を投げかけようという気は起こらなかった。
というより話題が見つからない。
佐藤という男は長い地下暮らしで重度のコミュニケーション不全に陥ってるのだ。
待っているとようやく、ハルは意を決したように口を動かした。
「あれからさ……いろいろ考えたんだけど」
「はい」
「僕も佐藤くんのことが嫌いじゃない。ていうか、嫌いだったらご飯なんか誘わないし、こうしてお見舞いにも来ない。かといって好きかどうかもよくわからないんだ」
ハルは自分でも言葉を探しあぐねている様子だ。どうまとめたいのか分からないといった表情で、手のひらを見つめながら続ける。
「だからちゃんと確かめたい。僕が、佐藤くんのことをどう思っているのか。本当に……確かめたくて」
それを聞いて、佐藤はなんとも言えない気分になる。
疑問、困惑、面倒くささ、後はハルの気を害さないように配慮しようという気遣いの念がまじりあった、文字通りの "何とも言えない気分" だ。
だから、つい口をついて出てしまった。
「そうですね。確かめればいいと思いますよ」などという、雑な返事が。
ハルはその瞬間、ごぼり、と胸の奥で何かが煮え立つ音を聞いた。
「……本当に、そういうところが……」
ハルは呟く。
キッと目つきが険しくなる。
ただ、それは怒りゆえなのかと問われれば答えに詰まる。
ハルは自分ですら掴みきれない感情で身体を熱くさせていた。
◆
「分かった。確かめるから……ちょっと動かないで」
言い終わるか終わらないかのうちに、ハルは佐藤の肩をぐっと掴み、自分の方へ引き寄せた。
軽く反発しそうになる佐藤の身体を抑えるようにして、背筋を伸ばす。
そしてそのまま、唇を重ねる。
佐藤の目がわずかに見開かれる。まさかここでキスをされるとは思っていなかったのだろう。
ハルの唇は震えている。
時間にして数秒。
だが当人たちにはもっと長い時間に感じられただろう。
ハルはゆっくりと身体を離し、顔を赤く染めたまま佐藤を見上げる。
「……こうしたら、分かるかなって。自分の気持ちが」
ハルの視線は床に向いている。
何かを言おうとするが、言葉が出てこない。
対して佐藤はというと、怒ったり、動揺したりはしなかった。
ただ、ハルの頬の赤みをまじまじと眺めている。
「……それで、何か分かりましたか」
佐藤がそう問うと、ハルは唇を噛んで首を振る。
そして少し潤んだ目で佐藤を見返し──
「余計、分からなくなったかも……でも、嫌じゃない。佐藤君は……どうなのかな? 僕からキスされて、嫌だった?」
そう言ってからハルは、苦しげに視線をそらした。
心臓の音が耳に届くほど高鳴っている。
今ここでどう言葉を繋げればいいのか、店での接客術や言葉巧みな話し方は何の役にも立たない。
ハルはいまや断罪を待つ罪人の様な心地だった。
また沈黙が落ちる。
ハルは佐藤の返事を待っていた。
しかし、いつまでたっても何も話そうとしない佐藤の態度を拒否と受け取ったのか──
「……僕、帰るね。急にキスなんてして、ごめんなさい」
そんな風に悲しそうに言って、佐藤に背を向ける。
◆
──もう闘わなくても良いんじゃないのか?
佐藤はそんな事を思う。
なぜなら、佐藤にはこれがまるで闘いの様に感じられていた。
血と汗を流し、互いの命を削り合う闘争とは違うが、似たような何かを感じている。
難敵に自分はどう対してきたか。
佐藤の脳裏にはこれまで相対してきた何十何百もの強敵の姿が思い起こされていた。
──その場しのぎの小細工もした、積み木を重ねていくような戦術を練った事もあった
色んな手を使ってきたが、そのなかでマシな結果が出た手は何か。
それはやはり──
「嫌ではないんです。でもわからないんですよ、やっぱり」
佐藤は今感じている事をそのまま言う事にした。
去ろうとしていたハルの足が止まる。
「この状況がわからない。ハルさんが何を考えているかわからない。ハルさんに何を言うべきかもわからないし、キスが意味することも何もわからない。俺にわかる事はハルさんにキスをされても嫌じゃないって事くらいです。だからハルさん、結論を急がないんで欲しいんです。俺にも確かめさせてください……なんというか、自分の気持ちを。ハルさんだけ色々確かめて、勝手に納得して、酷いじゃないですか」
そんな佐藤の言葉を聞いたとき、ハルは確かに佐藤の心のようなものが見えたような気がした。
「分かった。ごめんね、勝手にいろいろ決めつけて。……いつも何も言わない佐藤くんが、なんだか掴めなくて、焦っちゃって……」
少しして、ハルは恐る恐る佐藤の顔をうかがうように目線を上げた。
そして──
「……ごめん、もう一回だけ、確認させて」
そう言いながらハルはもう一度佐藤の肩を捕らえ、迷いなく身体を引き寄せた。
そして、最初のキスよりも長く唇を重ねる。
佐藤は一瞬だけ眉を動かしたが、強く拒絶する様子もなく、そのまま静かに受け入れていた。
やがて唇が離れると、ハルは大きく息をつき、耳まで赤くして佐藤に問う。
「確認、2回目だけど……ごめん、やっぱりよく分からなかった……私も、その、こう言う気持ちになった事、ないから」
佐藤は肩をすくめるようにして首を左右に振った。
正直なところ、本当に分からないのだ。
何をどう感じるのが普通なのか、それすら分からない。
人の殺し方、壊し方は知っていても、こんな問題には手も足もでない──それが佐藤という男だった。
「俺も何も。でも他にも確かめ方があるんじゃないですか」
いつも通りの不愛想な口調。
しかし。
「なんというか、少し気恥ずかしい気もしますし……」
それを聞いたハルは思わずぷっと噴き出す。
どちらかと言えば呆れにも近い、しかし不思議と心が軽くなる笑い。
「他にも確かめ方……そうだね、たぶん僕たちにはまだまだ確かめることがいっぱいあるんだと思う」
ハルは佐藤の手首をそっと握りしめる。
どうしていいか分からないままでも、とにかく先に進まなきゃ何も始まらない。
──確かめ方、進め方、色々確認しなきゃ
そんな気持ちがハルの胸の奥をかすかに熱くさせていた。
まあその後、佐藤もハルの確認の多さに閉口する事になるのだが、それはまた別の話だ。