第一章【天城 ハル】⑥
◆
佐藤は救急車に乗せられて病院に運ばれた。
ひったくり犯を追いかけてできた擦り傷こそ浅いものだったが、念のためのレントゲンやMRIなど、一通りの検査を受けることになった。
結果として医師は「骨に異常はないが、万一の脳震盪や内出血を排除するために入院しよう」と提案する。
そうして佐藤は四十八時間、つまり二日間の検査入院を余儀なくされた。
どこか酸素の薄いような気がする病院の白い廊下を車椅子で移動しながら、佐藤は無表情のまま淡々と思考を巡らせる。
窓の外にはくぐもった雨音。
遠くで聞こえる救急車のサイレンに、なぜか地下闘技場の歓声を思い出してしまう。
病室に案内された佐藤は人の出入りが少ない個室に落ち着くと、すぐにベッドに腰を下ろした。
それからは何が起こるわけでもない、平々凡々な入院生活だ。
食事は病院食が決まった時間に運ばれる。
それを食べ、検査を受け、眠る。
それだけの生活が二日続いた。
二日目。
夕方の検査を終えたあと、医師から無事翌日の退院の許可が出た。
検査結果に特に問題がないということで、あっさりと退院することになったのだ。
まだ傷口は残っているものの、日常生活には支障ないとの判断らしい。
そして退院日。
時刻は午前8時と言った所。
病院の門を出て最初にしたことは、涼子へ電話をかけることだった。
コール音のあと、涼子は低めの声で「退院したのね」と切り出す。
「ええ、問題ないです」
「じゃあもう少し休んでいなさい。店は人手不足だけど、あなたが無理してもいいことはないわ。そうね、3日か、4日か、それくらいは休んでくれて構わないわ」
特に断る理由もなかったため、佐藤はそれを了承する。
それから自宅へ向かうバスに乗った。夜に働き、朝に眠る生活を続けていたせいか、妙に朝方の光景が新鮮に映る。
家に戻るとシャワーを浴びて簡単に軽食を済ませた。
それからベッドに横たわり──自然と眠りにつく。
◆
視界の端に金網が見える。
滴る血の反射と、暗い観客席の輪郭──ここは地下闘技場だ。
ざわつく怒号の渦が遠くから押し寄せる。
スポットライトのような無機質な照明が、床をぬめりとした光沢で照らし出した。
そこに佐藤が立っていた──いや、正確には、立っているつもりだったが、実際は両膝がかくんとかしぎ、今にも崩れ落ちそうだ。
佐藤の目の前には細身の中国人の女がいる。
白い肌と鋭い目つき、そして、研ぎ澄まされたナイフの様な気配。
彼女は口を開き、冷たく低い声を発した。
「站起来」
まるで毒が混じったような響きが、観客たちの興奮をさらに煽る。
立ち上がれ──観客たちはそう叫ぶがしかし。
体中の関節が悲鳴を上げ、佐藤の思考はうまくまとまらない。
捨てろ、という声が胸の裡から響いてくる。
これは佐藤の師である祖父の声だ。
意思を捨てろ、心を捨てろ、勝つためにすべてを捨てろ
観客たちが金網を叩くガシャガシャという金属音が、まるで鐘のように佐藤の頭蓋を震わせる。
女はゆっくりと間合いを詰めながら、佐藤を面白そうに眺めていた。
蹴り上げられた肋骨がきしむ痛みを帯びて、呼吸をするたびに胸の奥が焼けるようだ。
汗と血が混ざったぬるい液体が、左頬を伝い落ちていく。
「……っ」
呻く佐藤に女が声を掛ける。
「就凭你现在的状态,本座要杀你,只需一招」
わざわざゆっくりと告げるその声には、嘲笑にも似た響きが混じる。
鼠をいたぶる猫のような余裕。
佐藤は左腕をかばうように押さえながら、膝を震わせて立ち上がる。
耳鳴りの奥で、「捨てろ、捨てろ」という声が何度も何度も繰り返されるが──佐藤は声を振り払うように、途切れがちな呼吸の合間につぶやいた。
「捨ててたまるか……!」
何に対しての怒りなのか、誰に向けた敵意なのか、佐藤自身にも分からない。
だが胸の中に煮えたぎる熱が、命の炎が視界を赤く染めていく。
佐藤は雄たけびとともに女へ飛び掛かった。
放たれたのは単純な貫手。
左腕をまるで槍のように突き出し、細い首を一撃で貫こうとするが。
女は軽く首を振り、さも当然のごとく間合いを外した。
だが、佐藤の貫手はかすめながらも首筋を斬り裂く。
女は驚いたように目を見開き、血の滲むその腕を見つめる。
佐藤の関節が不自然に歪んでいた。
佐藤は左腕の関節を外していたのだ。
しかし反撃もそこまでだった。
女は鬼獣の様な気迫を見せると、身を屈め、床を滑る様に佐藤へと肉薄し──
一呼吸の間に四連打の券打を加える。
崩れ落ちる佐藤に女は「我还留你一条命。因为我在你身上,看到了某种意志。下次再见,希望能与你一决生死」と声を掛けてさっていった。
血の泥濘に斃れ伏す佐藤は、「もう闘わなくて良いのだ」と思う。
そうして、どこか遠くでベルの音が鳴り響き、次の瞬間──。