第一章【天城 ハル】⑤
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ハルは店休日に佐藤と待ち合わせをして、ふたりで街を歩いていた。
散歩ではなく、件のイタリアンに向かっているのだ。
昼の阿武木町は夜とはまるで別の顔をしている。
夜の喧騒を知る者にとっては少し物足りないくらいだが、ハルはそのほうがむしろ落ち着く気がしていた。
「そういえば佐藤くんはさ、涼子さん──オーナーとはどういう……」そう言いかけて、ハルはふと眉をひそめる。
自分が車道側を歩いていたのに、佐藤がいつのまにかそちらに立ち位置を変えてしまったのだ。
「車道側が危ないからっていうベタなやつ?」
ハルは軽く睨むように佐藤を見る。
別に本気で怒っているわけではない。
ただ、露骨な女扱いをされたくないという想いもある。
まあこれはKINGSのプレイヤー全員に言える事だ。
佐藤は相変わらず無表情のまま、小さく首を振った。
「……女扱いしているわけではありません」
「ならどうして勝手に入れ替わるんだよ。僕が──」 そこまで言いかけたとき、佐藤はわずかに視線を後ろへ向ける。
ハルには分からないが、佐藤は背後を徐行しながら近づいてくる怪しげなバイクに気づいていた。
妙に不自然な挙動をしている。
「危ないですから──」 「だから危なくないって言ってるだろ! 別に僕は──」
ハルが言い張るのと同時に、そのバイクが急に加速して近づき、ハルの肩をかすめて走り抜ける。
次の瞬間、ハルの手からバッグが消えた。
確かにハルの肩にかかっていたはずのバッグが、バイクの男の手にぶら下がっているのが見える。
「えっ……嘘、ちょっと、嘘だろ!?」
ハルがあわてて声を上げるより早く、佐藤の足が地面を蹴っていた。
瞬時に背を反らしてタイミングを合わせ、猛ダッシュでバイクを追う。
バイクは逃げようとするが、佐藤の勢いは想像を絶した。
ひったくるために若干徐行していたのも大きかった、佐藤はバイクとほぼ同じ速度で距離を詰め、やがて──
「うわっ!」 バイクの男が呻いたのと同時に、佐藤は車体に飛びついた。
それでもバイクは10数メートル進んでいくが、佐藤は腕を放さない。
やがて車体はつんのめるように横倒しになり、ガッと金属が路面をこする嫌な音が響いた。
「佐藤くん!」 少し離れた位置で見ていたハルは、心臓が凍るような恐怖を感じながら駆け寄った。
そこにはバイクを倒されたひったくり犯が悲鳴を上げており、佐藤はアスファルトに片腕をついたまま膝をついていた。
ジャケットの肘や肩口は破れ、血が滲んでいる。
「バッグ……取り返しました」
佐藤は僅かにかすれた声でそう言いながら、ハルのバッグを握りしめたまま静かに立ち上がった。
「な、何やってんのさ! バカじゃないの!? 救急車呼ばなきゃッ……!」
心配と動揺で胸がいっぱいになりながら、ハルは震える手でスマートフォンを取り出そうとする。
でも佐藤は頭を軽く振って拒むように視線を落とす。
「大丈夫です。これくらい、慣れてますし……骨は折れてないと思いますから、救急車なんて……」
「慣れてるって、そんなわけ……僕が……僕が悪いんだろ? 車道側が危ないなんて分かってるのに、僕が女扱いされたくないってわがまま言ったから……!」
ハルは視線が潤んで何も言えなくなった。
別に佐藤が悪いわけでもハルが悪いわけでもない。
悪いのはひったくり犯だ。
しかしどうにもハルは自分を責める気持ちが止められなかった。
なのに当の佐藤は「気にしてません」とでも言いたげな面持ちで、まるでハルが騒ぎ立てるのが迷惑だとでも言うような、そんな冷たい雰囲気を漂わせている。
「僕って、そんなに佐藤くんに嫌われてるの……?」
ハルは胸の奥で得体の知れない痛みが膨れあがるのを感じた。
まるで無形のナイフで胸を抉られたように、呼吸すらうまくできない。
そもそも佐藤を特別に意識しているつもりはなかったし、好意なんて抱いているはずもない──と、ハル自身は考えている。
しかし佐藤の冷淡な態度は、ハルにとって自分という存在そのものを拒絶されているように思えてならなかった。
──どうして、こんなにも苦しいんだろう。
男扱いされたいわけでも、女扱いされたいわけでもない。ただ一人の人間として、せめてもう少し何か心を向けてほしいと思ってしまう。
ハル自身もそれを求めるほどの関係ではない事は理解してはいたが、涙が勝手に出そうになる。
「嫌われてるの?」という言葉が唇を震わせながら零れたとき、ハルは自分の声がこんなにも細いのだと知った。
自分自身に対して苛立ちを覚える一方で、なぜ佐藤の冷たさがこんなに胸を裂くほど痛むのか、その理由が分からずに混乱する。
だが──
「ごめん、変な事を聞いたね。とにかく救急車は呼ぶから。あと、警察も……」
そういってハルは改めてスマートフォンを操作した。
◆
佐藤にとって天城 ハルは働いている店の従業員以上の何者でもない。
好きでもないし嫌いでもない。
身を呈してハルを救ったのもひったくりからバッグを取り返したのも、佐藤にとってはハルを思っての事ではない。
しかし目の前で涙を零すハルをみて、それをそのまま伝えるのはどうかという思いもあった。
なんとなく武士の情けという言葉を思い浮かべる。
ややあって佐藤は「嫌いではないです」と答えた。
遠くでサイレンが鳴っている。
「でも、好きでもない?」
ハルは自分でも何を言っているのか判然としないまま、そんな事を口走った。
そんなハルの問いに佐藤は頷く。
それは当たり前の答えではあるのだが、今のハルにはどうにも堪える。
だが佐藤はこうも言った。
「好きとか嫌いとか、俺にはよくわかりません。そういう経験がないんです。でも、そういうのをはっきりさせるためにこうして食事に行ったりするんじゃないんですか? ……まあ、今日はもういけそうもないですが、また今度ご一緒できればと思います」
そんな佐藤の言葉に、ハルはふわりと持ち上げられるような気分がした。
体全体が重苦しい先ほどまでとは正反対の気分だ。
「そ、そうだね! 確かに……うん! じゃあまたリスケして……って、その前に病院だよ! 警察も!! よ、呼ばないと……」
「さっき呼んだのでは?」
佐藤の言葉にハルははっとなる。
そしておもむろにひったくり犯を睨みつけて、「コイツが佐藤君を……とどめを刺さなきゃ……」と呟いたところで──
「あ、救急車ですね」という佐藤の言葉で正気に戻った。