第一章【天城 ハル】②
◆
開口一声、ハルは「ごめんね」と言った。
心当たりがない──とは言うまい。
謝られる謂れは全くないが、きっとあの事で謝罪しに来たのだろうと佐藤は思う。
すると、まさにどんぴしゃり。
「佐藤くん、お店ではごめんね。なんていうか、その、睨んじゃって……」
佐藤本人としては、「正直、そんな事を言われても」という感じではあった。
太田の店内BGMの選曲が不味かったのは確かだが、それは佐藤の指導が行き届いていなかったからだし、睨まれても仕方がない。
特にハルの役職である主任は、単なるプレイヤーとしての働きのみならず店舗の運営面でも気を配っていかなければいけない役職だ。
佐藤がそう説明をすると、ハルは何と言うか彼女らしくないというか、口をへの字に曲げて拗ねた表情を浮かべた。
「それは内勤としての佐藤くんの考えでしょう? 僕だって内勤としての佐藤くんには悪いとは思っていないよ。太田がだらしない仕事をしているのは、上司である君の責任だからだ」
「僕がこうして謝りに来てるのは、素の佐藤くんに嫌われたくないからだ。言ってる意味は分かるはずだよ」
天城ハルはそんな事を言いながら、佐藤に一歩踏み込んでくる。
瞬間、佐藤は体の反応を咄嗟に抑えた。
でなければ、ハルのすらりとした脚──脛を前蹴りでへし折り、痛みで下がった顔面を膝蹴りで叩き潰していた所だ。
佐藤本人はそんな事をするつもりはなくても、体は反応してしまうから注意しなければならない。
だがハルはそんな佐藤の配慮なんてどうでもいいとばかりに更に一歩踏みこんで、 佐藤を見上げて言った。
「今、すごくゾクっとした。凄い目で僕を見たよね。まるでモノ扱いだった。何の感情もこもってない冷たい目だったよ」
「すみません」
「心から謝ってるのかな」
ハルが上目遣いで佐藤を見続けて言う。
「勿論です」
佐藤が答えると、ハルは首を振って言った。
「なら、確認しないとね。ほら、もう少し屈んで」
──なぜだ?
そう佐藤は嘆息する。
だがハルが面倒くさい人間だとわかっている佐藤は、言われるがままに膝を折ってハルと目線を合わせた。
そして──
「んっ……」
そんな声と共に、ハルが佐藤に唇を重ねる。
これがハルが言う所の "確認" だ。
佐藤はこの "確認" を何度も何度も受けている。
なぜこんな事になったのかといえば、勿論それなりの訳があった。
そう、あれは佐藤がまだ "地下暮らし" だった頃の事だ──……
◆◆◆
血沸き肉躍る闘争の世界は思いのほか身近にある。
昼はスーツを着てオフィスに通う会社員が、夜になれば血に飢えた獣と化す。
そんな非合法格闘技の世界が、この東京の地下深くに根を張っている。
かつては都内各所に点在していた地下格闘技のリングも、警察の取り締まり強化により、今では新宿阿武木町の新羅ビル地下4階にある『ウォリアーズ』ただ一つとなっていた。
毎週土曜の深夜、この場所で繰り広げられる死闘は文字通り命を賭けた戦いとなる。
ルールは驚くほどシンプルだ。
武器の使用こそ禁止されているものの、金的も目潰しも当然あり。
勝つための手段は問わない。
時として死者も出るが、だから何だと言うのだ?
血沸き、肉躍る闘争──それこそが観客の望むものだ。
生き残るか死ぬかなど闘争の後にやってくるちょっとしたイベントに過ぎない。
佐藤 拳次はそんなウォリアーズの闘士だった。
捨道とよばれる打撃技、投げ技、締め技の複合実践空手術を修めた若き達人。
捨道の "捨" とは、文字通り捨てることを意味する。
勝利への道は険しい。
強靭な脚をもっていても、余計なお荷物を抱えていてはとても辿り着けるものではない。
だからこそ、あらゆるものを捨てる──そして "勝つ"。
これこそが捨道が目指す所である。
佐藤はこの超実践空手を祖父から習っている。
毎週土曜、佐藤は地下4階のリングに降り立つ。
汗と血の匂いが漂う薄暗い空間で、観客の熱狂の声が渦巻く中、己の全てを賭けた死闘を繰り広げる。
法で裁かれることのない、闇の中の闇──佐藤はその暗黒世界の住人として自らの拳だけで闘い続け、連戦連勝を重ねていた。
・
・
薄暗い地下空間に、観客の熱気が渦を巻く。
金網で囲われたリングの上に立つ男、二人。
一人は黒い巨漢であった。
その存在感たるや。
身長2メートルを優に超えるその男、ジョン・ベイリーの漆黒の肌がライトの下で不気味な輝きを放っている。
元米軍特殊部隊の兵士。
そして三人の女性を手にかけた殺人者。
その残虐性は地下格闘技の世界でも悪名高く、これまでに五人の闘士の命を奪ってきた。
対するリングの反対側に立つ佐藤の表情は、水面のように平坦だった。
ベイリーの圧倒的な存在感の前でも、一片の動揺すら見せない。
観客席からは怒号が飛び交い、金を賭けた者たちの興奮が空気を震わせる。
誰もが血を求めていた。純粋な暴力への渇望がこの空間を支配していく。
「You're dead, Monkey!」
ベイリーの唸り声が響く。
だが佐藤は無反応。
その沈黙が、巨漢の理性の最後の一線を踏み越えた。
ベイリーがその巨体にも関わらず一瞬で距離を詰め、シームレスに拳を繰り出す。
移動と腕を引き絞るという行為が限りなく一体化されているのだ。
移動距離そのものが、 パンチの "溜め" となり、受ける側はタイミングをずらされる。
それでいて繰り出される拳はまるで砲弾の様でもあった。
しかし佐藤の動きはさらに速かった。
上体を大きく反らし、一瞬の隙をついてベイリーの腕に巻き付く。
そして捨道独特の体の捻りが加えられる。
──捨道・纏い葛
人体の関節を極限まで捻り上げ、破壊する技だ。
「AAAAAHHHHH!」
ベイリーの絶叫が地下空間に響き渡る。
腕の形が歪み、肉が裂け、骨が露出する。
純白の骨片が血飛沫と共に散り、観客の熱狂的な歓声がそれを迎え入れた。
ベイリーは痛みに悶え、既にグロッキーだ。
しかし試合は止まらない。
審判がいないからだ。
こういう場合、相手がどうなるかを決めるのは他ならぬ対戦相手──つまり佐藤である。
佐藤は周囲を見渡し、金網越しに観客たちの様子を観察した。
照明に照らされた金網の向こうには、熱狂というより狂気に近い空気が渦を巻いていて、一人また一人と席を立ち上がりながらみんなが同じ合図を出している。
誰もが右手でも左手でも構わず、親指を無言で下に向けていた。
指先だけが闘技場を指し示すように下がっていくのは、歓声よりも明確な意思表示だった。
これはキル・サイン──殺せという意味だ。
血と死が娯楽になっているこの地下世界では、観客が選手に「仕留めろ」と迫るとき、親指を下げるのが合図となっている。
しかし佐藤はとどめを刺そうとしない。
ベイリーの腕は既に崩壊し、血が床にじわりと広がっているのに、佐藤はそれ以上の追撃を加えようとはしなかった。
それどころか半身に構えたまま、まるで小さな物音すら聞き逃さないように静止している。
いわゆる残心の姿勢だが、その時間があまりにも長い。
普通なら勝負がついた時点で解放されるはずの緊張感が、いつまでも緩まないまま濃密な空気が張り詰めている。
金網越しにちらつくライトがベイリーの苦痛を浮かび上がらせる。
佐藤は一切動じず、ただベイリーを見ているだけだ。
歪んだ腕の形や、のたうちまわる巨体をさも当たり前のように黙殺し、何の感情も読み取れない無表情を貫く。
観客たちの期待は、すぐに苛立ちへと転じていった。
彼らが求めるのは極限の暴力と血肉の饗宴であり、死の瞬間を目撃するために多額の金を払ってきたのだ。
だというのに、佐藤がキル・サインを無視するのが気に入らないのか、あるいは“殺し”を拒む態度が偽善と映るのか、場内にはブーイングが大きく響き始めた。
それは狂宴の熱狂から逸脱する行為として、観客たちにとっては裏切りにも等しい。
やがて、痛みで意識が飛んだのか、ベイリーは白目をむきながら崩れ落ちた。
完全に気を失い、呼吸さえ途切れがちに見える。
試合はそこで終了となる。
もはやベイリーは立ち上がれない。
金網越しに親指を下げていた観客たちは、拍子抜けとも言える結末に対し一斉にブーイングを浴びせる。
こんな中途半端は見世物にならない、さっさと止めを刺せと怒号を上げる者もいる。
だが佐藤は応えない。
振り返るでもなく、声を上げるでもなく、ただそこにいるだけ。
まるで主役のいなくなった舞台の上にひとり残る狂言回しのように静止している。
やがて一人、また一人と観客は席を立ち去る。
血生臭い決着を求めた観客たちは、殺しの瞬間がないままの幕切れに満足できなかったのだ。
まばらになった客席の向こうに金網の暗い影が沈んでいく。
そんな場所に取り残される形で、佐藤はふいに上体をまっすぐに戻した。
ベイリーがスタッフらによって運び出された時、ほんの小さく息を吐き出す。
それが本当の意味での試合終了の合図だった。
佐藤の試合というのは概ねそんな調子だ。
強さそのものは圧倒的でも、派手さには欠ける。
観客が求める劇的な殺戮の盛り上がりにはあまり応えず、淡々と相手を“壊す”ことで勝利を積み重ねていく。
だからこそ、血生臭い地下世界の常連たちからも疎ましく思われがちだった。
それでも、ある日ひとつの試合が組まれる。
対戦相手は中国出身の女暗殺者という触れ込みで、“黒手”と恐れられているという。
事の真偽ははっきりしないが、佐藤にとっては相手が女だろうが関係はない。
挑まれれば応じる。それだけの話だった。
佐藤は捨道を修める過程で、独特の感性を身につけている。
武道の世界には、極まれに常人離れした勘と理を併せ持つ者が存在するが、佐藤の祖父もまさにその典型だった。
祖父は武道に対して徹底した実戦主義を貫き、『武道の目的は精神の鍛錬などではなく、いかに効率よく生物を殺傷するかにある』という危険な思想を掲げていた。
そんな祖父に育てられ、幼少期から厳しい鍛錬を受けてきた佐藤だが、祖父の理念をそのまま受け継いでいるわけではない。
彼は“殺傷”そのものを目的とするのではなく、捨てるという思想を重視する。
敵も味方も、あるいは自分自身さえも執着の対象としないことで、余計な情を排して戦いに挑む。
結果としてそれが相手の命を奪うことに繋がるかもしれないが、佐藤自身のなかでは“勝つために最適な術”として捨道を選んでいるにすぎない。
先のベイリーにとどめを刺さなかった理由は、窮鼠が猫を噛む事を警戒しての事だった。
殺さずとも勝てるのだからそうしただけである。
殺さなければ勝利ではないとしたら、佐藤は無表情のままベイリーを殺めていただろう。
祖父のように闘争のために生きているのとは、微妙に異なるのだ。
そうした差異こそが、佐藤の武道観をかろうじて人間らしい領域につなぎ留めているのかもしれない。
ともかくもその死合で佐藤は敗れ、しかし件の女は佐藤の命を奪おうとはしなかった。
女は『竟敢折断我的手臂。更何况你既没用药,也没有使用暗器。就凭这场光明正大的比武,本座便饶你一命当作赏赐。我在你身上感受到某种意志。下次再见,希望能与你一决生死』と佐藤に告げ、去っていった。
女は本来、ここで佐藤を殺害しなければならなかったのだが──まあ気まぐれといったところだろうか。
こういった場合はどうなるか。
それは2通りのパターンがある。
一つは自腹で傷を治療して再び地下のリングに上がるというもの。
もう一つは観客による、いわゆる "水揚げ" だ。
観客が金を積んで、その身柄を買い上げる。
人権はどこにいったと言われかねない話だが、闘士たちに人権などない。
彼らはみな、人権と引き換えにこの地下で闘い、生きているのだ。
抗いがたい殺人欲求に支配された者
取返しがつかない犯罪を犯した者
佐藤の様に、武を磨くために実戦的な戦場を求めている者
理由は様々だが、表社会で生きられない者たちが地下闘技場のリングに立っている。
ちなみに、この水揚げは滅多に行われない。
なぜならば水揚げは敗者しか対象にすることは出来ず、また負けてもなお五体満足で居られるものなど滅多にいないからだ。
さらにいえば、そんな社会不適合者を欲しがるものなど裏の人間にもそうはいない。
まかり間違えば自分に牙を剥いてくるかもしれない者など、危なっかしくて飼えたものではない。
だが佐藤は "買い上げ" られた。
佐藤を買ったのは八角 涼子という女で、いわゆる夜の店を複数経営している。
彼女はデンマークの血を引くハーフでもあり、北欧系の彫り深い顔立ちと艶のある黒髪が特徴的だ。
肌は白磁のようにきめ細かく、まるで欧州の人形を思わせるほどの美貌を備えている。
ただ可憐なだけでなく、どこか冷たい光を宿した瞳が近寄りがたいオーラを生み出しているのだ。
涼子は佐藤の地下デビュー戦からのファンだったという。
血と暴力の匂いが満ちるリングで、佐藤が殺しきらないまま相手を“壊す”だけにとどめるそのストイックさが彼女の目に留まったらしい。
もともと涼子は強い男が好きだが、一方的な暴力を振るう男は好まない。
彼女いわく「強さっていうのは自分を律し、相手をいたずらに蹂躙しないところにこそ宿るものだと思うの」。
まさに、勝利のために無駄なく動きながらも不要な殺しを避ける佐藤の闘いぶりこそ、涼子が求める“強さ”に近かったのだろう。
そうして佐藤は、涼子の手によって“水揚げ”される形で買われた。
無論、本人に選択肢があったわけではないが、地下稼業から足を洗えるのならば悪い話でもなかった。
そうして涼子に拾われた佐藤は、いま『KINGS』の内勤として表向きは働いているが、普通の内勤とは異なる業務も与えられていた。
それがいったいどんな業務なのかといえば──