ある日、教室で
「ねぇ、今度、僕の歌のピアノ伴奏をしてくれない?」
教室でボンヤリと窓の外を見ていた時、彼は急に話しかけてきた。
「なんで俺が?」
迷惑そうな俺にニッコリ微笑む顔が普通に男前で腹が立つ。
彼の名前は山之内愁。
子供の頃からミュージカルに出ていて学校ではちょっとした有名人だ。
俺は3歳から中学卒業までピアノは習っていたが、今はもう弾いていない。
習っていたといっても、音楽大学出身の母親が自宅でピアノ教室をしているので母親が先生だ。
高校に入ってからはピアノはやめてしまった。
俺には音楽は向いていないしピアノは嫌いだった。
世に才能のある人はたくさんいて、体全体で音楽を表現している姿には驚かされる。
自分には全く真似できない。
俺のピアノはただ楽譜に忠実に演奏する機械みたいなものだ。
こんな俺になぜ伴奏を頼むのだろうか?
「置田冬弥君。君のピアノ、カッコ良くていいね」
「なんだよ、それ。人気者なんだし、もっと喜んで伴奏してくれる女子がたくさんいるだろ」
「君がいいんだ。頼むよ。もちろんお礼はするよ」
「え?」
「今度、僕が出演するミュージカルのチケットをプレゼントするよ。サヤリンも出るよ」
サヤリンと言えば俺の好きなタレント。
アイドルでありながら歌唱力が抜群でミュージカルでも活躍中だ。
なんで俺の好きなタレントを知っているんだ。
思わずチケットにつられてピアノ伴奏を引き受けてしまった。
「これ、楽譜。明日の放課後、音楽室で待ってるね」
「明日って、急に」
いくらなんでも1日で仕上がるかよ。
楽譜は5曲ほどあるが、童謡や昔の歌謡曲など。
一体、どこで演奏するんだ。
どれも難しい曲ではないけれど、すぐに弾ける自信がない。
面倒な事を引き受けてしまった。