第8話(了)
現れたのは黒髪の男だった。
アイナから顔は見えないが、何かが彼からにじみ出ているのが分かった。
少し痛いような、ピリピリした気配。
アイナにはそれだけだったが、ガルゼルにとっては違うらしい。彼は青ざめて、半ば腰を抜かしていた。
そういえば、昨日の女性も同じだった。
もしかすると、獣人には違って感じられるのかもしれない。
そんな様子をものともせず、彼はアイナを助け起こした。
「怪我はないか」
「は、……はい」
そう聞かれるのも二度目だった。
アイナの服が破れている事に気づいたのか、男はわずかに眉をひそめた後、身に着けていたマントを着せかけてくれる。彼の匂いに包まれると、途端に安心するのを感じた。
アイナが落ち着いたのを見て、彼は無言で頷いた。
「外へ」
「は、はい」
促されるまま、一歩踏み出す。動きに合わせて、ふわりとマントの裾が揺れた。
「ま、待て……っ」
ガルゼルが焦ったように声を上げる。
「いくらなんでも無礼であろう。竜人ともあろう者が、国王の許しもなく、勝手に広間に入った上、許可なく我が奴隷に触れるなど――」
「奴隷?」
その瞬間、彼の目が冷ややかさを帯びた。
「竜の国に奴隷はいないが、いたとしてもこういう扱いはしない」
「それはっ……」
「この娘は嫌がっていた。同意なき行為は蛮行だ。本気で言っているなら、お前は頭がどうかしている」
ばっさりと言い切られ、ガルゼルがひるんだ。
「お、俺は……っ」
「それとも、意味が通じないか。地を這う獣の理は、私の理解が及ばぬようだ」
その声は静かだったが、抗いがたい威圧を帯びていた。
狼という種族は、獣人の中でも上位に当たる。その王に対し、男は「地を這う獣」と言い放った。明らかに彼の方が上位種であると知らしめたのだ。それが分かったのか、ガルゼルは唇をわななかせた。
「な、な、何を、無礼なっ……」
「獣の理屈は、獣同士で吠えるがいい。この娘は人間だ。獣の理は通じない」
その声は朗々と響き、王が民草に言葉を授けるかのようだった。
ガルゼルは青ざめた顔を赤く染め、怒りで拳を震わせている。何か言おうとした口は、男の一瞥で凍りついた。
「――それともお前は、獣の分際で人語を解すか」
「…………っ」
ガルゼルがひゅっと息を呑む。その額から大粒の汗が滴り落ちた。
今の一瞬で、男の気配が倍以上に膨れ上がったのを感じたのだ。
だが、アイナには分からない。
だからなぜ急にガルゼルが怯えたのか、その理由も分からなかった。
押しつぶされそうな威圧感。肌を刺すほどのすさまじい重圧。
けれど、それがアイナを傷つける事は少しもなかった。
硬直したガルゼルに、男は淡々と言葉を向けた。
「前王も無礼な男だったが、お前はそれ以上のようだ。立場も分からぬ獣には、それなりの扱いが必要だろう」
「待っ……」
「案じずとも、滅ぼしはしない。私はそれほど暇ではない」
そう言うと、彼はアイナを抱き上げた。
「その代わり、この娘は私がもらい受ける」
「なっ……」
「獣には過ぎた娘だ。異論はないな。……とはいえ、彼女の意志を優先しよう」
そこで彼はアイナを見た。
「一緒に来るか、娘」
「あ……」
「お前がそうしたいなら、連れて行こう。私とともに、竜の国へ」
その瞳は穏やかに凪いでいた。
瞳の中に星空が見える。綺麗な色が混ざり合い、深く澄んで美しい。つい今しがた、ガルゼルを圧倒した恐ろしさはどこにもなく、静かにアイナを見つめている。
「……わ、私……」
――行きたい。
「一緒に、行きたい……です」
「待て、貴様!!」
「っ!」
びくりとしたアイナの体を包み込み、男がふたたび風を起こす。
仰向けに倒れたガルゼルが、這いつくばるようにして起き上がった。
「そんなことが許されると思うのか。それは、俺の……っ」
「獣には過ぎた娘と言ったはずだ」
「それは俺のものだ、俺のっ……」
「お前の番ではないのだろう。そうであれば、お前のものでもないはずだ」
冷静な男とは対照的に、ガルゼルは平静を失っている。アイナに指を突きつけて、彼は叫んだ。
「そいつは偽物だ! 俺を騙していた。だから俺は、何をしても、そいつに逆らう権利などっ……」
「言い方を変えよう。番でも、こんな真似は許されない。そんなことも分からないのか」
――けだものが。
それは種族を貶めるものではなく、彼自身を表す一言だった。
ガルゼルがぺたりと座り込み、必死に喉を喘がせる。それを気にも留めずに男は告げた。
「お前がそうしたのだろう。要らないと決めて、そのように扱った。文句を言われる筋合いはない」
「許さない! そいつは罪人だ、重罪人だ! 一生この国で飼い殺しにして……っ」
言葉の途中で、ガルゼルがひっと黙り込む。
「――心配ない」
身を固くしたアイナの耳元で男が囁いた。
「この男はもう、何もできない」
「え……」
見ると、ガルゼルは完全に腰を抜かしていた。
今の一瞬に何があったのか。
分からないけれど、どうやら男の言葉は本当のようだった。
「――番を偽る香水の話は、以前に聞いたことがある」
力を失ったガルゼルに、男はやはり淡々と告げた。
「ある種の獣人には、抗いようもなく魅力的に映るのだと。特に嗅覚に頼る種族には効果が高く、麻薬のような効能があるのだと」
ほんのわずかしか生息していない植物から、ごく少量だけ採取できる特殊な成分。それを精製した特別な薬だ。それを香水にする事で、嗅覚に特化して作用する。
強烈な刺激を与える反面、持続性が弱く、副作用がひどい。加えて中毒性も高いため、続けて使うと毒になる。
「個体差はあるが、獣人としての力が強いほど、それに囚われてしまうらしい。そこまではこちらでも調べがついた」
だが――と彼は続けて言う。
「この娘の匂いは、それとは違う」
「な……っ?」
「よく似ているが、別物だ。あの匂いは知っているが、間違いない」
目線で許可を問われ、アイナは戸惑いつつも頷いた。
何をされるのか分からなかったが、首筋に顔を近づけられてびくりとする。わずかに匂いを嗅いだ後、男はアイナから身を離した。
「やはり違う。どうしてこれを間違えた?」
「な、そんなはずは、俺は確かに……っ」
「嗅覚が鋭すぎるせいで、却って混乱したか。確かに、お前たちは鼻が利く。我々には分からぬような、ごく微量の匂いに反応したなら不思議はないが……」
そもそもアイナの匂い自体、獣人の男に好まれていた。
その中でもっとも強い力を持つガルゼルが、一番強い反応を見せるのも当然だ。
だが、と男は続けた。
「番と誤認するほどではないだろう。前王の時もそうだったが、お前たちは嗅覚に頼りすぎる」
「何を……」
「最初に番と思った時、お前は何を基準にした?」
謎かけのような言葉に、ガルゼルはぽかんとした顔になった。
「……何?」
「番を見つけた時、みな口にすることがある。なぜか気になり、目を離せず、相手の姿を追うのだとか。その衝動は強い場合もあり、弱い場合もある。だが、何かのきっかけで、強く本能が訴えるのだと。――『この相手が番だ』と」
お前はそうではなかったのか、と問われる。ガルゼルはきつく眉を寄せた。
「それがどうした! この娘からは番を偽った香水の匂いがした。それこそが、この娘が偽物という証だ!」
「まだ分からないのか。匂いに頼り切り、匂いを過信した結果がこれだ」
あの香水の匂いに似ているというだけで、偽物だと決めつけた。それ以外何も見ようとせず、確かめようともしなかった。
「何をっ……」
「もう少し分かりやすく言おうか。お前はこの娘の『何』を見ていた?」
「だから、何をっ……」
「何をもって、番だと思ったのか。その意味をよく考えてみるといい」
男が言ったのはそれだけだった。次いで、その足が動いたのを見てガルゼルははっとした。
「待っ、待て、何の話だ――」
「話は終わりだ」
まだ立ち上がれない様子のガルゼルをよそに、男はアイナを抱え直した。軽々と運ばれて、アイナが目を丸くする。
「荷物はあるか。大切なものは」
重ねて問われ、アイナは首を振った。
奴隷に落とされた時、大切なものはすべて奪われた。奪われなかったものも壊されるか、捨てられた。家族からの贈り物も、目の前ですべて燃やされた。
アイナが持っているのは肌着と服、それから、ほんのちょっぴりの傷薬だけだ。
「……何もありません」
答えると、小さく頷かれる。
「分かった」と聞こえた気がしたが、気のせいだったかもしれない。
広間の外に出ると、すでに騒ぎを聞きつけていたらしい。大勢の人間が集まっていた。その中にはアイナにひどい扱いをしていた女の姿も、監督役の女の姿もある。
彼らは一様に、竜人の腕に抱かれたアイナを見て仰天していた。
「――別れを告げたい者はいるか」
ふたたび耳元で囁かれ、アイナは少しためらった。
そっと監督役の女を見ると、彼女は落ち着かない様子だった。だが、アイナが首を振ったのを見て、ほっとした顔になる。
いつもアイナをいびっていた女は、アイナを見て青ざめた。
他に嫌がらせしていた人々も、棒を呑んだような顔になっている。彼らはみな、竜人の怒りを恐れて床に這いつくばった。
「いません。大丈夫です」
「分かった」
次の瞬間、視界がぐんと持ち上がった。
「わ……っ」
一気に屋根の高さまで飛び上がった体が、そのまま空を駆けていく。飛んでいる、と言った方が正確か。大空まで持ち上げられて、アイナは彼の体にしがみついた。
「騒ぐと舌を噛む。しばらくおとなしくしていろ」
「だ……大丈夫です。ちょっと、びっくりして」
「竜の国についたら、少しゆっくりするといい。数は少ないが、人間もいる。そう不自由はないだろう」
目に見えない風に持ち上げられて、見えない翼が羽ばたいている。
横抱きにされた体はびくともせず、景色がぐんぐん遠ざかる。
まるで大きな竜に抱かれているようだと思った。
ふと目をやった先、遠くなった城の一番端に、小さな人影が見えた気がした。
ガルゼルに似ている気もしたが、見間違いかもしれない。
一度瞬くと、すでに城は砂粒ほどに遠ざかっていた。
「さっきの話、どういう意味だったんですか?」
アイナが問うと、彼はちらりと目をやった。
「言葉の通りだ。いくら鼻が利いても、それだけで普通、自らの番は間違えない。あの香水のような薬を使えばともかく、お前にそんな気配はない」
前王は件の娘と肉体的な結びつきがあったそうだが、アイナにはそれもない。
アイナを偽物とするには、根拠が乏しすぎる。
「それは、つまり……」
「単にお前の匂いが好ましかったのだろう。それが偶然にも、香水とよく似ていただけだ」
「じゃあ――もしかして」
「確証はない。ただし、お前を番と認めた際、匂いだけではなかったはずだ」
「でも……それじゃあ、まさか!」
「考える必要はない。先に手を離したのはあの男だ」
それだけ言うと、彼はふたたび空を駆ける。
何か言おうとして口を閉じ、アイナは前方へ目を向けた。
黎明の空に、うっすらと星が残っている。あといくらもしないうちにその輝きは失せ、見えなくなってしまうだろう。
けれど、消えてしまうわけではない。
彼の腕に抱かれたまま、アイナはそっと目を閉じた。
――番の糸は、切れる事があるという。
前王は番との絆を断たれた。どんなに希っても、それが戻る事は永遠にない。彼は生涯喪失を抱え、空っぽの腕を抱いて生きていく。
では――彼は?
分からないけれど、アイナは自分が番でなければいいと思った。
家族に援助をしてくれた。いっぱいの食べ物を届けてくれた。何も心配いらないと言って、数え切れないほどの事をしてくれた。
彼のおかげで、アイナの家族が助かったのも確かなのだ。
あの辛い日々を思い出すと、体が竦む。もう戻りたくないのは事実だけれど。
でも。
「……どうしてこんなことになったんでしょう」
「巡り合わせだ。お前は何も悪くない」
「でも、私がいなければ……」
「番の誤認はあっても、誤認した番を虐げるのは話が違う。あの男は許されないことをした」
そうかもしれない。けれど、胸が痛いのも現実だった。
彼はどこで間違ったのだろう。
アイナを番と認識した時か、偽物だと断罪した時か、激昂して奴隷に落とした時か、それとも。
今さら考えても詮無い事だが、忘れてしまう事はできなかった。
「……お前の国に連れて行きたいところだが」
しばらく黙っていた男が口を開いた。
「その体では、長旅はまだ無理だろう。しばらく体を癒すといい。家に帰すのはそれからだ」
「え……」
「心配しなくとも、必ず連れて行く」
目を開けると、彼はただこちらを見ていた。
深い藍色の瞳。金色の輝き。
何か言おうとして、アイナはきゅっと唇を噛んだ。
浮かんだ涙に視界がにじみ、彼の姿を揺らめかせる。その中に浮かぶ藍と金の輝きが、綺麗だと思った。
「ど……どうして、そこまでしてくださるんですか……?」
「私にも分からない」
ただ――と彼が言葉を紡ぐ。
「なぜか気になった。それだけだ」
「そう……ですか」
それはどういう意味なのだろうと、アイナはひそかに考えた。
アイナの体を抱く腕は、力強くて心地いい。
その中に包まれていると、感じた事のない安堵感に満たされる。
なんだろう、この感じ。
まるで体の奥底で眠っていた感情が、ゆっくり目覚めていくような――……。
けれど、アイナは言わなかった。
なんとなく、言ってはいけないような気がした。
「弟の番も人間だ。そのせいかもしれない」
「弟さんがいらっしゃるんですか?」
「番を得たおかげで、毎日元気いっぱいだ。番の苦労がしのばれる」
男がため息をついたので、アイナは思わず笑ってしまった。
「番の方って、どんな方なんですか?」
「心のやさしい、綺麗な娘だ。銀の髪、スミレの瞳。城に着いたら会えるだろう」
「そうなんですか……あれ、それって」
「どうかしたか?」
「いえ、どこかで聞いたような……」
――銀の髪、スミレの瞳。
どこへ行ったのか分からない、行方知れずの前王の番――。
「……思い出せないです。すみません」
「構わない」
「ところで――お城って?」
首をかしげたアイナに、男は事もなげに頷いた。
「言い忘れていたが、私は第一王子だ。竜の城に住んでいる」
「そうなんですか……え、王子様?」
「今の話に出てきた弟は第七王子だ」
「いえ数がどうとかではなく……そういえばご兄弟多いですね」
「嫌か?」
「いいえ、私の家にもいっぱいいます」
目を閉じれば、家族の顔を思い出す。
会いたくて、会いたくて、涙が出るほど恋しかった。
帰りたくてたまらなくて、何度も何度も夢に見た。
でも、それもあと少しだ。
「早く元気になって、家族に会いたい。また一緒に暮らしたいです」
「すぐにそうなるだろう。問題ない」
「その時は、あなたを紹介してもいいですか?」
「もちろんだ」
彼の腕に力がこもり、アイナはしっかりと抱え込まれた。
先ほど芽生えた感情については、深く考えない事にした。
そこでふと気づいたように、男が何か言いかけた。
「そういえば――いや」
「どうかしましたか?」
「……いや、なんでもない」
ふいと視線をそらし、ふたたび空を駆ける。アイナに理由は分からない。
よく見ないと分からないが、彼は決まり悪そうな顔をしている。
少し捕捉すると、出会った男女が名乗り合うのは、高位の人間における作法のひとつだ。竜人である彼も立場上、それはよく知っている。
互いに名乗っていないとアイナが気づくのは、もう少し後の事だった。
「少し飛ばす。つかまっていろ」
「はい――わあっ」
ぐんっと速度が増して、アイナは思わず歓声を上げた。
どれだけ高く飛んでも、この腕の中にいるうちは心配ない。
それがくすぐったくて、嬉しかった。
「初めに会った時も思ったが、お前はいい匂いがするな」
「あ、私もそう思いました」
「そうか。偶然だな」
「偶然ですね」
そこで一度会話が途切れ、彼がふたたび口を開く。
「二度目に会った時も、お前があそこにいる気がした」
「そうなんですか。不思議ですね」
「ああ、不思議だ」
「偶然ですね」
「偶然だな」
二人は何も気づかない。
景色は飛ぶように過ぎていく。
竜の国まで――あと少しだ。
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***
数年後、竜の国で婚礼が執り行われた。
長らく番が見つからなかった第一王子と、彼が愛した人間の娘。
後に彼の番となる、黒髪の娘だった。
了
お読みいただきありがとうございました!
*『わたしはあなたの番だった』の兄弟編です。前作から半年~一年後くらいのお話になります。前作の二人も、仲良く幸せに暮らしています(※兄弟そろって相手の名前を聞き忘れる)。
*いいね・ブクマ・評価など、どうもありがとうございます。もうちょっと書き足りない感じなので、いつか後日談も書けるといいなと思います!
≪追記≫
後日談始めました。