第7話※
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「どこで遊びほうけていたんだい、この怠け者!」
室内に戻った瞬間、バシッと肩を叩かれた。
「ご……ごめんなさい。水を汲みに行っていて……」
「水なら大甕にあったじゃないか。嘘をお言いでないよ」
それは早起きしてアイナが入れたものだ。けれど、あの男性と少しだけ立ち話をしていたのも事実なので、アイナはおとなしく頭を下げた。
「……すみません」
「罰として、朝飯は抜きだ。いいね」
「はい……」
女の機嫌を損ねたため、三日前も同じ罰を受けている。アイナが抵抗しないのが面白くなかったのか、女は細い眉を吊り上げた。
「反省が足りないようだね。今日は昼も抜き、夜も抜きにするからね」
え、とアイナが目を見張る。
「そんな……」
「そうすれば、少しは骨身に染みるってもんだ。当然だろう? あんたは奴隷なんだから」
フンと女がせせら笑う。
意地悪そうな目には、弱者を嬲る悦びが浮かんでいた。
彼女は特にアイナを嫌っているひとりで、何かにつけて折檻してくる。アイナの体にある無数の傷のいくらかも、彼女がつけたものだった。
「そうだ、口答えした罰に、明日の朝飯も抜きにしようかね。もし隠れて食べてごらん、三日飯抜きの上、ひどい目に遭わせてやるから」
「待ってください、それは……」
今でさえお腹が空いているのに、丸一日食事抜きの上、明日の朝も食べられないなんて。
昨日の夜に食べた分は、とっくに消化してしまった。
ただでさえ普通の食事の半分ほどだったのだ。これ以上食べる事ができなくなったら、本当に飢え死にしてしまう。
青くなったアイナに、女は面白がるような目を向けた。
「心配しなくても、死にゃあしないさ。水は好きなだけ飲んだらいい。もっとも、そんなに飲めるもんでもないけどね」
「でも……それじゃ……」
「なんだい、不満があるって言うのかい?」
生意気な、と乱暴に小突かれる。
よろけたアイナに、女は憎々しげな瞳を向けた。
「国王の番を偽った罪人のくせに、大きな顔をするんじゃないよ。あんたにはこの先ずっと、自由なんてないんだからね」
「…………」
「分かったなら返事をしな!」
女が手を振り上げたところで、「ちょっと!」という声が割って入った。
「それどころじゃないよ。支度しないと」
「支度?」
現れた別の女が、慌てた様子で口を挟む。急いでいるのか、息がわずかに弾んでいた。
「その子を連れてくるようにって言われたんだ。国王からの命令だよ」
――国王。
それを聞き、アイナの心臓がドクンと鳴った。
「国王が? どうしてさ」
「あたしにも分かんないよ。しばらくはおさまってたけど、また『遊び』がしたいんじゃないのかい?」
それを聞き、アイナを引っぱたこうとしていた女がにやりと笑った。
「ああ……そうか。そういや、久々だったね。このうすのろで遊ぶのは」
「前回はどうなったんだっけ? 確か、この子が気絶したんだっけ」
「犬はいつの時だった? 水責めは?」
「やっぱり鞭打ちが面白いよ。首輪をつけて、四つん這いにさせてさ」
周囲で交わされる楽しげな声に、指先が細かく震えてくる。
蒼白になったアイナに、女はにんまりとした顔で笑った。
「あんたへの罰は、国王が代わってくれるってさ。よかったねえ、役立たず」
「あ……」
「今日の趣向がどんなものか、あとでじっくり聞かせてもらうよ」
ほら行きなと、強く背中を押される。
よろけた拍子に足がもつれたが、その腕を乱暴につかまれた。
「言っとくけど、逃げるんじゃないよ。もし逃げたら、うんと後悔するような目に遭わせてやるから」
アイナを迎えに来た女がつっけんどんに言う。
引きずられるようにして向かった先は大広間だった。
そこで待っていた人物に、アイナの全身が冷たくなった。
「――遅かったな」
目の前の玉座に座っていたのは、二十歳前後の青年だった。
銀色の髪、赤い瞳。顔立ちは前王とよく似ている。
精悍な顔つきに、浅黒い肌。狼の国の若き国王ガルゼルは、頬杖をついたまま二人を見ていた。
その目がアイナを捉え、すっと冷える。
「ご苦労だったな。行け」
顎だけで女を下がらせると、ガルゼルはおもむろに立ち上がった。
「久しいな、偽物」
「……」
「口がないのか。出来損ないが」
「……あ……」
「誰が答えていいと言った」
手にしていた杖で、トンッと胸を突かれる。
それだけで、どっと全身から汗が噴き出た。
「客人と話したようだな。何を話した?」
「……」
「答えろ」
「……何、と、言われても」
どう答えていいか分からない。
最初に助けてもらった時、彼とはほとんど話さなかった。かろうじてお礼は言ったが、それだけだった。
二度目はついさっきだ。
少しだけ話したが、何を言ったか覚えていない。確か年齢を聞かれて、それから、人間かと聞かれた気がする。あとは――あとは、なんだろう……。
「そんなことも分からないのか」
トンッと、ふたたび胸を突かれる。
平坦な声の中、かすかな苛立ちが混じった気がした。
こうして彼に会うのは久しぶりだった。
いつもは彼の目に触れない場所で、下働きの仕事をこなしている。たまに呼びつけられる日はいつも、彼が気まぐれを起こした時だった。そんな時の彼はひどく残酷で、アイナは手ひどく痛めつけられた。
それが分かっていても、断る事なんてできはしない。
アイナは彼の生贄だった。
不機嫌な時、八つ当たりしたい時、興が乗った時、暇つぶしをしたい時。
彼の気が向くまま、アイナは存分にいたぶられた。
晒し者にされ、笑い者にされ、心ゆくまで罵倒される。そうしている時でさえ、彼は侮蔑の態度を崩さなかった。
アイナを見つめるガルゼルの目からは、かつての熱情が消えていた。
代わりにあるのは、凍りついたような憎しみだけ。
今も消えない冷たい炎が、彼の瞳に燃え盛っているようだ。その目に見つめられるだけで、息が止まったようになる。
答えられずにいたアイナに、彼は小さく舌打ちした。
「命令に従えないのなら、いつもの『遊び』を始めるか」
「……!」
「この間は何をしたんだったかな。確か、蛇のいる檻に入れたんだったか? お前が気絶したせいで、最後まで楽しめなかった。あれをもう一度してやろうか」
「や……」
「それとも犬をけしかけようか。お前は泣き叫んでいたな。あれはなかなか楽しめた」
杖の先で、くいっと顎を持ち上げられる。
アイナに罰を与える時、好んで使っている特別製の杖だ。細くて頑丈なのに、それで打たれても気絶しにくく、体に痕も残りにくい。
そのまま喉をたどった杖が、鎖骨の上で止まった。
「まさかとは思うが、竜人をたぶらかしたのか」
「そんな……っ」
「誰が口を開いていいと言った」
杖の先で軽く頬を打たれる。手でかばうと彼の怒りをあおるため、アイナはぎゅっと目をつぶって耐えた。
「あの客人はもう帰った。お前を助ける者はいない」
「……」
「お前は一生、俺の奴隷だ」
ついさっきも同じような事を言われたはずだ。
そんな事は分かっている。
ここから逃げ出すすべもなく、逃げても行く場所なんてない。
銅貨一枚も持っていない自分では、人間の国に帰る事もできない。
たとえ逃げても、あっという間に捕まるだろう。
――だけど。
(逃げたい……)
ここから出て、自由な世界で暮らしたい。
アイナが番でないのはよく分かった。そのせいで、彼を怒らせてしまった事も。
けれど、もう十分ではないか。
騙すつもりなどなかったし、番だと言った事もない。勘違いしたのは彼の方だ。
それならもう、解放されてもいいのではないか。
そう思ってしまったのは、あの瞳を思い出したからだった。
宝石のように目を奪う、満天の夜空のような色。
あの静かな輝きに、心まで洗い流されるようだった。
理屈ではなく、理由もなく。
あの瞳に、心ごと奪われた。
「……なんだ、その目は」
その時、ガルゼルの目に怒りが宿った。
「!」
強く肩を打たれ、アイナはよろけて尻もちをついた。
ちょうど敷物のところに倒れ込んだため、痛くはなかったが、一瞬起き上がれなかった。
粗末な服の裾から、白い脚がのぞいている。
それを見て、ガルゼルの喉が小さく鳴った。
「……魔女が……」
ぎりっと歯を噛みしめる音がする。
「偽物の分際で、まだ俺をたぶらかそうとするとは……っ」
「なに、……っ」
いきなり押し倒されて、アイナはぎょっとした。
胸のすぐ上に、ずっしりとした重みがある。それがガルゼルの体だと気づき、アイナは小さく息を呑んだ。
「や、何っ……」
「一度抱けばおさまるだろう。くそ……偽物風情が……っ」
「やだ、やっ、何っ……」
「おとなしくしろ」
両腕をつかまれて、頭上で縫い留められる。何が起こっているのか分からず、アイナは混乱して首を振った。
殴られるのや、蹴られるのとは違う。もっと恐ろしい、肌が粟立つような感覚があった。
「貴様のせいだ、貴様のっ……」
呪詛のような言葉が吐き出される。
「貴様がいたせいで、俺は番を見誤った。前王と同じ、偽物の番の匂いなど……っ」
「そんなの、知らなっ……」
「黙れ!」
パンっと頬を叩かれて、短い髪が顔にかかった。
息を荒くしたガルゼルが、恐ろしい顔でアイナを見下ろしていた。
その手が上衣にかかり、ぼろきれのようにむしり取られる。
「や……っ」
痩せた体からのぞく肌は、思った以上に白かった。
浅黒い肌が多い狼の獣人に比べ、人間であるアイナは色素が薄い。まだ幼い体だが、しなやかな手足はすんなりと伸び、この先の成長をうかがわせる。あともう少しすれば、体つきもぐっと女らしくなり、子供っぽさも抜け落ちるだろう。
他の男達がアイナを見るのも、それを見越しているからだ。
彼らがアイナを見る目には、下劣な欲望が宿っていた。
でも――でも、一体なぜ?
その答えは、目の前の男が教えてくれた。
「――どうせ二年後には同じ目に遭うんだ。多少早くなったところで、たいした違いはないだろう」
「え……」
見ると、ガルゼルが嗤っていた。
柘榴石のような瞳が、今は暗く濁っている。その事が悲しいと思うより早く、彼は言った。
「なんだ、知らなかったのか? 貴様は二年後、娼館行きが決まっている。ここで俺の気が済むまでいたぶった後、男たちの慰み者になる」
「……え?」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「しょう……何……?」
「なんだ、娼館も知らないのか? 金をもらって、男の相手をする店だ。お前はまだ幼いが、育てばそれなりに見られるだろう。今からお前を買いたいという獣人がいるくらいだ。店に行けば、さぞかし売れっ子になるだろうな」
ガルゼルの目は憎しみを宿していた。
乾いた唇を舐め、アイナを見下ろしてせせら笑う。
その奥に宿っているのは――劣情、だろうか。
その時になってようやく、アイナは彼らの言っていた事の意味を理解した。
――二年のうちに、逃げる手はずを整えな。
ああ――……。
(そうか)
みんな、知っていたのだ。
二年後、アイナがどんな目に遭うのかを。
ある者は待ちわび、ある者は意地悪な楽しみを抱いて、ある者は気がかりといたわりを持って。
みんな、みんな、知っていた。
奴隷となったみじめな少女が、今度は男達に弄ばれるのを。国王をたぶらかした罪人が、この先どんな目に遭うのかを。
そしてその命令を下すのは――目の前の、この男だ。
呆然とするアイナに、彼は冷たく言い放った。
「国王の番を偽った罪、その体で存分に償え」
「……や……」
ガルゼルの顔が首元にかかり、その感触に鳥肌が立つ。
あの時、慈しむようにして抱きしめてくれた腕が、冷酷に自分の体を押さえつけている。それが苦しくて、悲しかった。
――どうして。
どうして、こんな事。
暴れた体をねじ伏せられ、強引に組み敷かれる。それでも抵抗すると、容赦なく力を込められた。
素肌をまさぐられ、力ずくで足を割り開かれる。
恐怖と嫌悪感に、アイナは夢中で抵抗した。
こんな事を、他の男達ともするというのか。
自分の意志など関係なく、嫌だと言っても押さえ込まれて。
彼らの欲望の赴くまま、好きに体を弄ばれる。
許される事もなく、解放される事もなく、この先一生囚われたまま。
(いや)
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
「やめて……」
誰か。
「助けて……っ」
叫んだ瞬間、ゴウッ!! と風が吹き荒れた。
ガルゼルが吹き飛び、急激に体が軽くなる。
目に見えない風がガルゼルを引きはがし、アイナを救ってくれたように見えた。
「――何をしている」
その言葉を聞くのは二度目だった。
振り向くより早く、大きな影が目の前にあった。
「狼の王よ。どういうことだ」
「……竜、の」
「戯れにしては趣味が悪い。一体ここで何をしている?」