第6話
「ほら、何をぼうっとしてるんだい!」
はっと気づくと、未だに厨房の中にいた。
いつの間にか、山のようにあった皿はほとんど洗い終わっている。あとは数枚を残すのみだ。
無言で顔を上げると、先ほど使用人達に檄を飛ばしていた女がこちらを見ていた。
他の人間は誰もいない。
残っているのはアイナと彼女の二人のようだ。
「夕餉は食べたのかい、あんた」
「……いいえ」
首を振ると、ちっと舌打ちされる。
「ここはもういいから、手を洗ってそっちに行きな。残り物の皿がある」
「……でも」
「いいから、さっさとおし。朝の分までは助けてやれないからね。自分でなんとかするんだよ」
追い立てられるまま物陰に行くと、目立たない場所に料理を盛った皿があった。
量は少ないが、焼いた肉が載っている。果物が一切れと木の実が少し、固くなっていないパンもある。まじまじと女を見つめると、彼女は決まり悪げにそっぽを向いた。
「なんだい。あたしが用意したもんは食べられないって言うのかい」
「いいえ……ありがとう、ございます」
「礼を言われることじゃない。あんたに倒れられると、こっちが面倒なのさ」
顔をしかめて言いながら、残った皿を手早く洗う。先ほどとは違う、棘のない口調で彼女は告げた。
「さっきのは謝らないよ。ああでも言っとかないと、あたしもやりにくいんでね」
「分かってます。大丈夫です」
「ああやって適当に息抜きさせとかないと、却って危ないからね。気をつけな」
ぶっきらぼうな忠告に、アイナはおとなしく頷いた。
「……そうします」
「あんた、ここを出る気はないのかい?」
急に問われ、アイナが目を瞬く。
「……ここを出ても、行くところがないんです。だから……」
「ああそうか、国王の番を偽った罪人だからね。この国を出たら……いや、それでも無理か。すぐに手配書が回るはずだ」
女はふたたび舌打ちし、「忘れていいよ」と言い捨てた。
「けど、まあ、できるなら……二年のうちに、逃げる手はずを整えな」
「二年、ですか?」
それは先ほども聞いた話だ。
男達はにやけ、女達は仕方ないといった風だった。そのどちらもが、あまりいい意味でないのだけは明らかだった。
「二年が過ぎると、どうなるんですか?」
「それは……」
女は初めて言いよどんだ。
「……今は知らなくていいことだよ。とにかく、準備だけはしておきな。無駄かもしれないけど、やらないよりはマシなはずさ」
「……分かりました」
「あんたは――」
そこでふたたび言葉を切り、女はやるせない顔になった。
「あの女とは違う。それくらいは分かってる。けど、それでも……前王の一件がある以上、あんたが許されることはないんだよ」
「……はい」
「どうにかして、逃げられるといいんだけどね」
ふうっとため息をつき、女はアイナに背中を向けた。
「食べた皿は洗っときな。他の連中に気づかれないようにしておおき」
「分かりました。……ありがとうございます」
頭を下げたが、彼女には見えなかっただろう。
ひとりになって、アイナは静かに食事を終えた。
汚れた皿を洗い、他の人達に分からないように片づける。
久々のまともな食事に、ここしばらくの飢えがおさまっている。それでもまだ足りないのは、気にしない事にした。
家でのにぎやかな食卓は、ほとんど思い出す事もない。
思い出してしまったら、耐えられなくなりそうだから。
出ないはずの涙がにじんで、何度も瞬きを繰り返す。
――いつか、この生活から抜け出せるだろうか。
この国を出て、人間の国に戻れるだろうか。
(帰りたい)
さっきはああ願ったけれど、本心は違う。
本当は心だけじゃなく、体ごと帰りたかった。
できるならもう一度、家族に会いたかった。
大好きな人達の元で、また一緒に暮らしたかった。
会いたい。
帰りたい。
会いたい。
帰りたい。
叶うはずのない願いでも、何度も、何度も、夢に見る。
(……誰か)
――助けて。
忘れてしまったはずの願いがこぼれたのは、どうしてだろう。
久々にやさしくされたからかもしれない。
ちゃんとした食事を食べられたからかもしれない。
それとも――もしかすると。
先ほどの出来事のせいかもしれない。
誰かに真正面からかばってもらったのは、本当に久しぶりの事だったから。
***
夜明け前、アイナはふと目を覚ました。
「……?」
周囲を見回したが、何もない。気のせいだろうか、それとも。
首をかしげたものの、そんな暇はないと飛び起きる。急いで身支度を済ませると、アイナは外に飛び出した。
陽が上る前に仕事を始めておかないと、何を言われるか分からない。
(……そういえば)
あの男性はもう帰っただろうか。
できるならもう一度お礼が言いたかったが、そんな事ができるはずもないのも分かっていた。
朝一番の水を汲み、アイナは大甕に注ぎ入れた。
朝の支度で、あっという間にこの半分ほどは使ってしまう。そうなる前に補充しないと、すぐさまアイナが叱られる。
その他にも掃除や洗濯、やる事は山ほどある。
いつもなら起きるのも辛いのに、今日はすんなり目が覚めた。
心なしか、体も軽い気がする。夕餉を食べられたおかげだろうか。
頭がスッキリして、いつになく明瞭だ。
人の気配に気づいたのはその時だった。
「ここにいたのか」
立っていたのは昨日の男だった。
朝早くだというのに、服装にはわずかな乱れもない。昨日と違う衣だが、見た感じはよく似ている。
まだ暗い空の下、艶やかな黒髪がさらりと揺れた。
(綺麗……)
顔をまじまじと見たのは、よく考えたら初めてだった。
昨日も思ったが、息を呑むほど美しい人だった。
女性めいた感じはないのに、男性にありがちな武骨さもない。ごつごつしておらず、たたずまいがしなやかだ。それなのに、背筋を正したくなる風格がある。
彼は無言でアイナを見つめ、それから一度瞬いた。
「――私の顔に、何か」
「あっ……」
じっと見つめていた事に気づき、アイナが慌てて首を振る。
「すみません、つい。見とれて」
「見とれる」
「いえ、なんでもないです」
すみませんと、ふたたび謝罪する。
こんな現場を見られたら、どんな罰を受けるか分からない。
夜明けにはまだ早い時間とはいえ、城には夜間の担当もいる。彼らもアイナを苦々しく思っているのは確実で、見つかるのは得策ではない。
そんな内心を知ってか知らずか、男は何も言わなかった。
「人間か」
唐突に、言葉が紡がれる。
「は、……い」
「珍しい」
「……はい」
「ここで暮らしているのか」
「はい」
「年は」
「……十六です」
「十六?」
「はい」
「十六?」
「……はい」
「十、六?」
「…………はい」
三度も繰り返されて、さすがに答えづらくなる。アイナが頷くと、切れ長の目が見開いた。
「……人間の年齢は難しい」
「すみません……」
「謝る必要はない」
そう言うと、彼はもう一度アイナの全身を見回した。
「……これで十六とは」
「す、すみません」
「だから謝らなくていい」
そういう意味ではないと告げられて、どういう意味かと首をかしげる。そこでふと、相手の視線に気がついた。
彼の目は、棒のような手足に注がれていた。
元々栄養不足だったが、ここ最近の生活で余計に痩せ細ってしまっている。そのせいで、必要以上に幼く見えたのだろう。
仕方なく、アイナは笑ってごまかした。
「私がうまくやれないので……すみません」
「何故謝る」
「それは、あの」
何か言おうとして、クウッと腹の虫が鳴いた。
朝食がまだだったため、すでにお腹が空いてしまっている。顔を赤くしたアイナに、男は何も言わなかった。
見つめ合う時間が数秒、サアッと風が流れる。
「――どこにいるんだい、この役立たず!」
その時、遠くで声がした。
「まったくもう、どこに行ったんだい。出てきな、ごくつぶし!」
「あ……っ」
慌ててアイナが振り返る。
あの声には聞き覚えがある。いつもアイナをいびる使用人の女だ。
「ごめんなさい、私、もう行かないと」
「――ああ」
「お気をつけて。さようなら」
彼の返事を聞く前に、背中を向けて走り出す。
後ろから注がれる視線を感じていたが、角をひとつ曲がるとそれもなくなった。
だからアイナは聞き逃した。
彼が、何と答えたのかを。