第5話
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その日はいつも以上に忙しく、アイナは存分にこき使われた。
先ほどアイナを叩こうとした女の姿はどこにも見えない。
他に仕事をしているのか、それともどこかで震えているのか。
そんな事を思ってしまったのは、先ほどの男を思い出してしまったせいだ。
彼は竜の国から来た竜人で、この国の王に面会を求めたという話だった。
内容は知らされていないが、重要な案件なのは間違いない。
彼自身、とにかくものすごい人物なのだそうだ。
本来なら国を出る立場ではないが、内容が内容のため、特別にやってきたらしい。国王に断る理由はなく、諸手を挙げて歓迎している。
「もしかすると、新国王に挨拶をと思ったのかもしれないね」
女のひとりが得意げに言った。
「光栄な話さ。なんたって、竜人は他の獣人とは違う。ものすごい力を持っているんだからね」
「そうなのかい?」
別のひとりが目を丸くする。
「あんた、知らないのかい? そのせいで、竜人は他の獣人と馴れ合わないのさ。何せ、大地を裂いたり、天から雷を落としたり、海を割ったりする力だ。生半可な相手じゃ、竜人さまの足元にも及ばない」
「そりゃすごい。考えるだけで恐ろしいや」
そばにいた別の男が身震いする。
「そんなすごい方の番なんて、どんな素晴らしいお方だろうね」
「いや、聞いた話じゃ、まだ番はいないらしい」
「そうなのかい? そりゃまた……」
気の毒にと続けるつもりだったのだろうか、「ほら、いつまでお喋りしてるんだい!」という声に口をつぐんだ。
「まだまだやることはあるんだからね。余計なお喋りをしてないで、その分手を動かしな」
監督役の女が、腰に手を当てていた。
四十を少し過ぎたくらいの痩せた女だ。きつい物言いで、特にアイナに対するあたりがきつい。今もずけずけと言い放ち、「もっと急ぎな」と命令した。
「遅れたら夕餉は抜きだからね。まったく、どこかの役立たずじゃあるまいし、自分の仕事はきっちりおし」
「違いない」
彼らが馬鹿にしたように含み笑う。
その視線の先では、アイナが食器を洗っていた。
「あんたみたいな汚らわしいやつに、お客人の食べ物を触らせるわけにはいかないからね。本当なら食器も触ってほしくないくらいだ」
忌々しげに女が吐き捨てる。
アイナが肩を縮こめると、「ぼさっとしてるんじゃないよ!」と怒鳴りつけられた。
「まったくもう、とんだ無駄飯ぐらいだよ。ほんとに癪に障るったら」
「今は手が足りないんだから、仕方ねえよ。あともう少しのお楽しみだ」
へへっと男のひとりが舌なめずりする。
よく見ると、他の男達も似たような表情を浮かべている。彼らはアイナの全身を舐めるように見つめ、それからフンフンと匂いを嗅いだ。
「ああ、楽しみだなぁ」
「まったく、男ってのはしょうがないね」
女達はやれやれといった表情だ。中に数名、眉をひそめる者もいたが、彼らをたしなめる気はないようだった。
(もう少しって、何のことだろう)
そういえば、少し前にも同じ事を言われた気がする。
彼らは知っているのだろうか。この先、アイナに待ち受けている事を。
聞いても教えてくれるとは限らない。むしろ、でたらめを教えられる可能性の方が高そうだ。そうなれば、逆に不都合な事が起こるかもしれない。
この場で聞き出すのはあきらめて、アイナはそっと目をそらした。
(それに)
口にする言葉が真実とは限らない。
それと同じように、真実に見えるものが正しいとも限らない。
それはあの時から、痛いほどよく分かっていた。
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――あれは人間の国を出て、しばらくしてからの事だった。
獣人の国へやってきたアイナは、ガルゼルの屋敷に住む事となった。
最初の内はうまくいっていた。
ガルゼルはいつもやさしくて、アイナの希望を叶えてくれた。
その愛情表現が行き過ぎて困る事はあったが、おおむねアイナは幸せだった。
彼はアイナの匂いを嗅ぎたがり、腕の中に閉じ込めたがった。
それは狼の獣人の特性らしい。アイナは困惑していたが、強く抵抗はできなかった。彼はいつもアイナを抱きしめ、いい匂いがするとうっとりしていた。
状況が一変したのはひと月後だ。
国王が失脚し、新しい王が選ばれる事となった。
若く優秀な王だったが、治世の最後はひとりの女を追い求め、国庫を食いつぶした暗君だった。
かろうじて命は助かったと聞くが、二度と表舞台には出られまい。元々、獣人の国は実力を重んじる。能力のなくなった国王をいつまでも崇拝する民はいない。
落ち着かない情勢に不安を覚えたが、それでもアイナの周りは穏やかだった。
新しい国王にガルゼルが選ばれ、華やかに祝われた時でさえ、アイナはひっそりと過ごしていた。
それがアイナの望みだったし、何よりの幸せだったのだ。
――けれど。
前王が失脚した原因は、たったひとりの娘の存在だった。
その娘は不思議な香水を用いて、番に成りすます事ができたという。
そのため、前王は偽りの娘を番と思い込み、本物の番を手放してしまった。
番を偽る娘と、偽りの番を生み出す香水。
偽物の娘はすぐに国を追い出されたが、その時はもう、本物の番はどこにもいなかった。
今も前王の番は見つかっていない。
銀の髪、スミレの瞳を持つ娘。
彼はその王座から引きずり降ろされる瞬間まで、彼女の名前を呼んでいたという。
ガルゼルはその話を重んじていた。
彼はとある伝手でその香水を手に入れて、ひそかに調べさせたのだ。
そして知った。
アイナの体から、同じ匂いがする事を。
***
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(あれはどうしてだったんだろう……)
すべてが変わってしまった時、何が起こったのか分からなかった。
アイナを公の場に引きずり出した男は、どういう事だと詰問した。
お前の体から、番を偽った香水の匂いがする。それはどういう事なのかと。
アイナには身に覚えのない事だった。
それもそのはず、今まで香水などつけた事はない。ガルゼルが余計な匂いを嫌うので、つけたいと思った事もなかった。
贈り物の中にも、匂いを発するものはない。
何かの間違いではないかと告げたが、香りを調べた役人は冷たく言った。
――確かにこの方の匂いは、香水のものとよく似ている、と。
ガルゼルは激昂した。
説明しろとアイナを怒鳴り、髪をつかんで引きずり上げた。
何も知らない、分からないと言っても、彼は信じてくれなかった。
番を偽るのは重罪だ。
前王をたぶらかした娘も、国外追放になったらしい。その後の消息は知らないが、二度と獣人の国に足を踏み入れる事はできないだろう。そう誰かが言っているのを耳にした。
でも、自分は、何も知らない。
番を偽った事もなく、偽ろうとした事もない。
香水に心当たりもない。何かの間違いに決まっている。
けれど、ガルゼルがその訴えに耳を傾ける事はなかった。
今までの愛情がすべて憎悪に変わってしまったかのように、彼はアイナを責め立てた。
どんなに違うと否定しても、彼の胸には響かなかった。むしろ、アイナが認めない事で、余計に彼の怒りをあおったようだった。
でも、それ以外に何が言えただろう?
アイナは本当に知らなかった。
何が起こっているのか、それはどういう理由でなのか、何も分からなかったのだ。
アイナの声は退けられ、訴えはすべて黙殺された。
何も知らない、嘘なんてつかない、調べてほしい、信じてほしい――。
その喉が嗄れるまで訴えても、誰にも届く事はなかった。
アイナは罰として髪を切られ、奴隷へと落とされた。
国外追放にならないのは、それでは到底気が済まないせいだ。彼だけではなく、彼を崇拝する、この国の多くの者達の。
新しい国王を騙していた、偽りの娘。
それは以前と同じ「人間の娘」で、同じ香りをまとっていた。
彼らの怒りが向けられるのはもっともで、仕方のない事だったのだ。
それから三か月が経つ今も、アイナは自由を奪われている。