第4話
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残り物で食事を済ませると、アイナはほっと息を吐いた。
(よかった……)
これで夕飯を抜かれても、倒れずに済みそうだ。
それでも、衣服から伸びる手足は痩せていたし、爪の先も割れている。今のアイナを家族が見たら、卒倒してしまうだろう。
手には切り傷がいくつもできて、無残な痕を晒している。
ほんの三か月ほど前まで、この手にはいい匂いのするクリームがすり込まれていた。
衣も軽くて着心地が良く、髪にも香油が塗られていた。
あの時からそれほど経っていないのに、もう何年も昔の事のようだ。
なつかしむには遠すぎる記憶を、ため息とともに押し込める。
目を閉じればすべてが消えて、アイナは小さく首を振った。
ざわめきが起こったのはその時だった。
「……?」
なんだろうと、アイナは目を瞬く。
どうやら屋敷の入口で、騒ぎが起こっているらしい。
ここは裏口に近いのだが、ここまでざわめきが広がっているのは珍しい。よっぽど大切な客が来たのだろうか。
不思議に思ったが、アイナはそっと気配を殺した。
忙しさは尖った気配を連れてくる。
殺気立った場では、人間のアイナは格好の的となる。
このまま下働きの仕事に移ろうと思ったところで、ふと、視線を感じた。
「――――……?」
辺りを見回したが、誰もいない。
周囲は壁と土に囲まれている。人の気配はなく、足音もしない。
誰にも見つからない場所を探した結果、この物陰を見つけたのだ。今までに見つかった事は一度もない。
それならまさか、壁や土を透かして、こちらに目を向ける人物がいたのだろうか?
――まさか。いや、そんな事。
首を振り、アイナは慌てて立ち上がった。
これ以上ここにいると、その何かに見つかってしまう気がした。
裏庭を進んでいる最中、「ちょっと、あんた!」と呼び止められた。
「この先に足を踏み入れるんじゃないよ。どっかに行きな」
「え……」
「今日は大切なお客様がお越しなんだ。突然のことで、何も準備ができてないけど、せめて不愉快なものは隠しておきたいからね。絶対にその顔を見せるんじゃないよ、いいね」
憎々しげににらまれて、アイナは「はい」と頷いた。
そこにいたのはアイナを目の敵にする女だった。
先ほどの女と同じ、きつい目でアイナを見つめている。
じろじろとアイナの全身を見回して、女はフンと鼻で笑った。
「ほんとにみっともなくなったもんだね。いい気味だこと。国王を騙していたんだから、罰が当たったってもんだ」
「…………」
「どうせあと二年もしたら、あんたはここを追い出される。その後どうなるかは聞いてるかい?」
「……いいえ」
首を振ると、女は「そうかい」と笑みを浮かべた。
「その時を楽しみにしてるんだね。あんたはまだガキだけど、二年もすれば大きくなる。そうなれば、働くには十分だ。せいぜい、あんたの行く末を想像して楽しんでやるさ」
嬉しそうに含み笑う女は、アイナがどうなるか知っているようだ。
教えてもらった事は一度もないが、愉快な話ではないだろう。
もしかすると、本人には聞かせられない話だろうか。
(もしそうなら)
今度こそ、殺されるのかもしれない。
それならそれでも構わない。
家族に会えないのは残念だが、このままここにいても、遠からず自分は命を落とす。それが早いか遅いかの違いだけだ。
ろくなものも食べられず、眠る時間もほとんどなく、起きている間中こき使われる。休みもろくに与えられず、いつも体が重かった。
加えて、周囲の人間すべてに憎まれているという状況は、思った以上にアイナの精神を蝕んでいた。
――消えてしまったら、楽になれるのに。
このまま何も考えず、空気に溶けてしまえたら。
そうすれば、これ以上ひどい目に遭わずに済む。
辛い事も怖い事もなく、誰かに叩かれる事もない。
暑さで喉が渇く事も、お腹を空かせる事もない。
誰にも見つからず、誰からもののしられずに済む。
この国を出て、家族にだって会いに行ける。
でも、それも……悲しいだろうか。
束の間ぼうっとしていたらしい。女がぴくりと眉を上げた。
「聞いてるのかい、この間抜け!」
「あ……っ」
ごめんなさいと言うより早く、女の手が振り上げられる。
その手が頬を張り飛ばす寸前、ふわり、と風が揺れた。
「――何をしている」
目の前で、衣が揺れていた。
アイナの体を後ろから支えるようにした人物が、左手で女の手を防いだのだ。
アイナの前で揺れているのは、男のマントの一部らしい。
さらり、と布が擦れる音がして、マントの布地が視界から消えた。
残っていたのは男の腕と、肩を押さえる感触だけ。
(あ……)
いい香りがする、と思った。
「なんなんだい、あんた――」
言いかけた女が言葉を切る。同時に、その顔がさっと青ざめた。
「……ひっ」
何が起こったのか、女の顔が引きつり、わなわなと唇を震わせている。
怒っているわけではない。これは多分――恐怖だ。
「聞こえなかったか」
それを与えたはずの背後の人物が、ふたたび言った。
その体は微動だにしない。
肩を包み込む腕も、目の前を覆う男の手も。
ただ、アイナをかばうように支えた指先が、ほのかな体温を伝えてきた。
固まっていたアイナの体から、ふうっとこわばりが解けていった。
「何の騒ぎだ。説明しろ」
低く心地よい声が、耳の少し高い場所で紡がれる。
威圧感を含んでいるが、まるでそれを感じさせない響きだった。
それなのに、目の前にいる女には違うらしい。ふたたび「ひっ」と悲鳴を上げた。
「あっ……あっ、あの……っ」
女が怯えた顔になり、あたふたと手を揉み絞る。
「そ、その娘が愚鈍だったので、少ししつけをと思いまして……」
「愚鈍?」
「そ、その通りでございます。自分の立場を分かっていない愚か者で、身の程知らずの恥知らずのため、それを分からせようと……っ」
話せば話すほど、目の前の男の表情が冷たくなっていくのが分かったらしい。女の顔はこれ以上ないほど青ざめている。唇の色も白くなり、今にも倒れそうだ。大丈夫だろうか、と場違いにも思った。
「――もういい。行け」
男が視線を動かしたらしい。女はひっと悲鳴を上げて駆け出していく。
それを見送り、ようやく腕が離れていった。
「――――……」
何が起こったのか分からなかったが、「大丈夫か」と尋ねられて我に返る。
どうやらアイナは、彼に助けられたようだった。
お礼を言おうと振り向いて、アイナはぽかんと口を開けた。
そこにいたのは、見上げるほど背の高い男だった。
年齢はずいぶん上だろう。少なくとも、二十歳はとっくに超えている。
濡れたように光る黒髪に、深い藍色の瞳。その中に、よく見ると金色のかけらが散らばっている。まるで満天の星空のようだ。きらきらと輝いて、目を奪うほどに美しい。
顔立ちは恐ろしいほど整っていたが、わずかな喜怒哀楽も浮かんでいない。静かな目で見つめられ、アイナは思わず立ちすくんだ。
この人は――誰だろう?
「――怪我はないか」
その声は、先ほど助けてくれた声と同じものだった。
「は、……はい」
「それならいい。邪魔をした」
そう言うと、彼はアイナとすれ違った。
つい先ほど、「この先に足を踏み入れるんじゃない」と言われた方に歩いていく。そこでようやく、アイナは我に返った。
「あ、あの」
かすれた小さな声だったが、彼はぴたりと足を止めた。
「……ありがとう……ございます」
「いや」
振り向かずに言うと、男はふたたび歩き出す。
見た事のないほど上等な衣服が遠ざかっていくのを、アイナはただ見つめていた。