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第4話


    ***

    ***



 残り物で食事を済ませると、アイナはほっと息を吐いた。


(よかった……)


 これで夕飯を抜かれても、倒れずに済みそうだ。

 それでも、衣服から伸びる手足は痩せていたし、爪の先も割れている。今のアイナを家族が見たら、卒倒してしまうだろう。


 手には切り傷がいくつもできて、無残な痕を晒している。

 ほんの三か月ほど前まで、この手にはいい匂いのするクリームがすり込まれていた。

 衣も軽くて着心地が良く、髪にも香油が塗られていた。

 あの時からそれほど経っていないのに、もう何年も昔の事のようだ。


 なつかしむには遠すぎる記憶を、ため息とともに押し込める。

 目を閉じればすべてが消えて、アイナは小さく首を振った。

 ざわめきが起こったのはその時だった。


「……?」


 なんだろうと、アイナは目を瞬く。

 どうやら屋敷の入口で、騒ぎが起こっているらしい。


 ここは裏口に近いのだが、ここまでざわめきが広がっているのは珍しい。よっぽど大切な客が来たのだろうか。


 不思議に思ったが、アイナはそっと気配を殺した。

 忙しさは尖った気配を連れてくる。

 殺気立った場では、人間のアイナは格好の的となる。

 このまま下働きの仕事に移ろうと思ったところで、ふと、視線を感じた。


「――――……?」


 辺りを見回したが、誰もいない。

 周囲は壁と土に囲まれている。人の気配はなく、足音もしない。


 誰にも見つからない場所を探した結果、この物陰を見つけたのだ。今までに見つかった事は一度もない。

 それならまさか、壁や土を透かして、こちらに目を向ける人物がいたのだろうか?


 ――まさか。いや、そんな事。


 首を振り、アイナは慌てて立ち上がった。

 これ以上ここにいると、その何かに見つかってしまう気がした。

 裏庭を進んでいる最中、「ちょっと、あんた!」と呼び止められた。


「この先に足を踏み入れるんじゃないよ。どっかに行きな」

「え……」


「今日は大切なお客様がお越しなんだ。突然のことで、何も準備ができてないけど、せめて不愉快なものは隠しておきたいからね。絶対にその顔を見せるんじゃないよ、いいね」


 憎々しげににらまれて、アイナは「はい」と頷いた。

 そこにいたのはアイナを目の敵にする女だった。

 先ほどの女と同じ、きつい目でアイナを見つめている。

 じろじろとアイナの全身を見回して、女はフンと鼻で笑った。


「ほんとにみっともなくなったもんだね。いい気味だこと。国王を騙していたんだから、罰が当たったってもんだ」

「…………」


「どうせあと二年もしたら、あんたはここを追い出される。その後どうなるかは聞いてるかい?」

「……いいえ」


 首を振ると、女は「そうかい」と笑みを浮かべた。


「その時を楽しみにしてるんだね。あんたはまだガキだけど、二年もすれば大きくなる。そうなれば、働くには十分だ。せいぜい、あんたの行く末を想像して楽しんでやるさ」


 嬉しそうに含み笑う女は、アイナがどうなるか知っているようだ。

 教えてもらった事は一度もないが、愉快な話ではないだろう。

 もしかすると、本人には聞かせられない話だろうか。


(もしそうなら)


 今度こそ、殺されるのかもしれない。


 それならそれでも構わない。

 家族に会えないのは残念だが、このままここにいても、遠からず自分は命を落とす。それが早いか遅いかの違いだけだ。


 ろくなものも食べられず、眠る時間もほとんどなく、起きている間中こき使われる。休みもろくに与えられず、いつも体が重かった。

 加えて、周囲の人間すべてに憎まれているという状況は、思った以上にアイナの精神を蝕んでいた。


 ――消えてしまったら、楽になれるのに。


 このまま何も考えず、空気に溶けてしまえたら。

 そうすれば、これ以上ひどい目に遭わずに済む。


 辛い事も怖い事もなく、誰かに叩かれる事もない。

 暑さで喉が渇く事も、お腹を空かせる事もない。

 誰にも見つからず、誰からもののしられずに済む。

 この国を出て、家族にだって会いに行ける。

 でも、それも……悲しいだろうか。


 束の間ぼうっとしていたらしい。女がぴくりと眉を上げた。


「聞いてるのかい、この間抜け!」

「あ……っ」


 ごめんなさいと言うより早く、女の手が振り上げられる。

 その手が頬を張り飛ばす寸前、ふわり、と風が揺れた。



「――何をしている」



 目の前で、衣が揺れていた。


 アイナの体を後ろから支えるようにした人物が、左手で女の手を防いだのだ。

 アイナの前で揺れているのは、男のマントの一部らしい。

 さらり、と布が擦れる音がして、マントの布地が視界から消えた。

 残っていたのは男の腕と、肩を押さえる感触だけ。


(あ……)


 いい香りがする、と思った。


「なんなんだい、あんた――」

 言いかけた女が言葉を切る。同時に、その顔がさっと青ざめた。


「……ひっ」


 何が起こったのか、女の顔が引きつり、わなわなと唇を震わせている。

 怒っているわけではない。これは多分――恐怖だ。


「聞こえなかったか」


 それを与えたはずの背後の人物が、ふたたび言った。


 その体は微動だにしない。

 肩を包み込む腕も、目の前を覆う男の手も。

 ただ、アイナをかばうように支えた指先が、ほのかな体温を伝えてきた。

 固まっていたアイナの体から、ふうっとこわばりが解けていった。


「何の騒ぎだ。説明しろ」


 低く心地よい声が、耳の少し高い場所で紡がれる。

 威圧感を含んでいるが、まるでそれを感じさせない響きだった。

 それなのに、目の前にいる女には違うらしい。ふたたび「ひっ」と悲鳴を上げた。


「あっ……あっ、あの……っ」

 女が怯えた顔になり、あたふたと手を揉み絞る。


「そ、その娘が愚鈍だったので、少ししつけをと思いまして……」

「愚鈍?」

「そ、その通りでございます。自分の立場を分かっていない愚か者で、身の程知らずの恥知らずのため、それを分からせようと……っ」


 話せば話すほど、目の前の男の表情が冷たくなっていくのが分かったらしい。女の顔はこれ以上ないほど青ざめている。唇の色も白くなり、今にも倒れそうだ。大丈夫だろうか、と場違いにも思った。


「――もういい。行け」


 男が視線を動かしたらしい。女はひっと悲鳴を上げて駆け出していく。

 それを見送り、ようやく腕が離れていった。


「――――……」


 何が起こったのか分からなかったが、「大丈夫か」と尋ねられて我に返る。

 どうやらアイナは、彼に助けられたようだった。

 お礼を言おうと振り向いて、アイナはぽかんと口を開けた。


 そこにいたのは、見上げるほど背の高い男だった。


 年齢はずいぶん上だろう。少なくとも、二十歳はとっくに超えている。

 濡れたように光る黒髪に、深い藍色の瞳。その中に、よく見ると金色のかけらが散らばっている。まるで満天の星空のようだ。きらきらと輝いて、目を奪うほどに美しい。


 顔立ちは恐ろしいほど整っていたが、わずかな喜怒哀楽も浮かんでいない。静かな目で見つめられ、アイナは思わず立ちすくんだ。


 この人は――誰だろう?


「――怪我はないか」

 その声は、先ほど助けてくれた声と同じものだった。


「は、……はい」

「それならいい。邪魔をした」


 そう言うと、彼はアイナとすれ違った。

 つい先ほど、「この先に足を踏み入れるんじゃない」と言われた方に歩いていく。そこでようやく、アイナは我に返った。


「あ、あの」

 かすれた小さな声だったが、彼はぴたりと足を止めた。


「……ありがとう……ございます」

「いや」


 振り向かずに言うと、男はふたたび歩き出す。

 見た事のないほど上等な衣服が遠ざかっていくのを、アイナはただ見つめていた。

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