第3話
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ほんの半年ほど前まで、アイナは普通の娘だった。
大国の端、小さな村に生まれたアイナは、たくさんの家族に囲まれて育った。
やさしい父母に加え、兄と姉が二人ずつ、弟と妹がそれぞれひとり。真ん中より少し下のアイナは、家族全員に愛されて育った。
暮らしは貧しかったが、家には常に笑い声があふれていた。
それが変わったのは突然の事だ。
アイナを番だという獣人が、婚約を申し入れてきたのだ。
(――君が俺の番だ。どうか妻になってほしい)
そう言ってアイナを求めたのは、男らしい笑みを浮かべた青年だった。
突然の事に、家族は面食らった。
獣人という存在は知っていたが、実物を見るのは初めてだった。
獣人とは、獣の特徴を持つ種族の事だ。
嗅覚や聴覚に優れていたり、泳ぎや狩りが得意だったり、力が強かったりする。動物の耳や尻尾を持つ者や、翼を有する者もいて、その姿は多種多様だ。中には竜の獣人までいるらしいが、定かではない。
彼らには、人間とは違う特徴がある。
曰く――「番」。
彼らには運命の相手が存在する。
それを番と呼び、魂の片割れとも称される。
必ず出会えるわけではなく、この世界に存在する保証もないが、獣人にとってはかけがえのない、たったひとりの存在だ。
番に出会うと、彼らは幸福を感じるらしい。
その相手と離れがたくなり、言葉にできない愛おしさが募り、いてもたってもいられなくなる。もちろん個人差はあるが、多かれ少なかれ、彼らは番に対して執着を抱く。それは獣人としての本能であり、抗えない衝動だ。
番と結ばれる事で、獣人は至上の喜びを得る。
それだけでなく、眠っていた力も解放される。獣人としての能力が高いほど、この傾向は顕著らしい。
ゆえに、番を手に入れるのは獣人にとって、何よりも大切な事なのだ。
そうアイナに語った彼は、ガルゼルと名乗った。
信じられないかもしれないが、と前置きし、彼は狼の獣人であると述べた。
(――一目見た瞬間、目を奪われた。君が俺の番なのは間違いない。どうか、この手を取ってくれないか)
情熱的にかき口説かれて、アイナは仰天した。
それは両親も同様で、目を白黒させていた。
普通なら受け入れられるはずもなかったが、ガルゼルと名乗ったその青年は、引き下がる気はないようだった。
一度帰ると告げた後で、彼は山ほどの贈り物を送ってよこした。
花、宝石、色とりどりの布地、金貨や珍しい食べ物まで。
毎日毎日、工夫を凝らした品物が届けられる。
貧しい暮らしをしていた家族にとって、その贈り物は天の恵みだった。
こんなに裕福な相手なら、アイナを幸せにしてくれるかもしれない。
何より彼は情熱的で、本気でアイナを求めている。
最初は心配していた家族も、やがて少しずつ、彼の事を受け入れるようになっていった。
彼がふたたび訪ねてきたのはそんな時だった。
彼は遅れた詫びを述べ、国王の具合が悪い旨を教えてくれた。
国王も狼の獣人だという。驚いた事に、ガルゼルは国王の遠縁にあたるらしい。つまり、彼も王族のひとりなのだ。
元は有能な王だったが、少し前に悪い魔女にたぶらかされて、番を失ってしまったという。彼は今でもあきらめ切れず、番を捜しているらしい。
ガルゼルが人間の国に来たのも、国王の番を見つけ出すためだった。
(――おそらく、近々動きがあるだろう。国王はもう限界だ)
そのため、しばらく国を離れられなかったと説明する。
だが、アイナを忘れた事はなかったと彼は述べた。
――会いたかった、抱きしめたかった、もう離したくない、一緒にいたい。
発される言葉は熱をはらみ、その目はうっとりとアイナを見ていた。
家族への援助を約束され、この先も面倒を見てくれるという言葉に、アイナは一も二もなく頷いた。アイナの家は本当に貧しくて、この冬が越せるか分からなかったのだ。
それに、その時にはもう、彼の事を信頼してもいいと思えていた。
アイナはガルゼルと一緒に獣人の国へ向かう事になった。
彼の事を愛していたわけではない。
自分には番が分からないし、そんな実感もないのだから。
そんな自分で、本当にいいのだろうかと。
正直に告げたアイナに、彼はもちろんだと頷いた。
(――それでもいいから、一緒に来てくれ。俺の番になってほしい)
差し出された手は力強かった。
そっと手を伸ばし、アイナは彼の手に指を重ねた。
そうして、アイナは彼の番になった。