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第2話


    ***



 奥まった庭の井戸には、誰の姿もなかった。


「よい……しょっ」


 井戸の(ふた)を開け、アイナはそれを脇に置いた。

 取りつけられていた桶を下に落とし、底にたまった水を汲む。この炎天下で、水はすぐにぬるくなる。照りつける日差しはきついが、濡れていた服が乾いていいかもしれない。

 やっとの事で桶を引き上げると、アイナはほっと息を吐いた。


「急がなくちゃ」


 少しでも遅くなれば、また小言が飛んでくる。

 怒鳴られるだけならいいが、食事抜きは辛い。ただでさえろくなものを食べさせてもらっていないのだ。この上食事を抜かれたら、すぐに飢え死にしてしまう。


 水を手桶に移し、もう一度桶を落とす。二、三度繰り返しただけで、すぐにアイナの全身は汗だくになった。

 桶の底に残った水を飲み、よろよろと立ち上がる。


 ずっしりとした重さが手に食い込み、きしむ手足が悲鳴を上げる。けれど、少しでも運ぶ水の量が少ないと、途端に先ほどの女に怒鳴られる。だからどんなにきつくても、水の量を減らす事はできない。


 ふらつきながら屋内に戻り、手桶の水を大甕に空ける。

 アイナの胸の高さほどもある甕の中には、ほんのちょっぴりしか水が入っていない。今の分を入れても、いっぱいにするには程遠い。


 それでもこれを終えなければ、何も食べ物がもらえない。

 流れる汗をぬぐい、アイナはふたたび手桶を持った。


 べっとりと濡れた髪が、首筋のあたりに貼りついている。

 以前は艶やかだったはずの黒髪は、無残にも短く切られていた。

 番を偽っていた事が分かった瞬間、罰として首元で断ち切られたのだ。

 その時から、アイナは国王の最愛ではなく、みじめで無力な奴隷となった。


 いや――罪人、だろうか。


 どちらにせよ、今の境遇が変わる事はない。

 どうしてこうなったのか、アイナ自身にも分からない。

 彼女は遠い人間の国で、普通に暮らしていただけだった。

 家族は多く、貧しい暮らしをしていたが、それでもアイナは幸せだった。


 そこにやってきたのが、アイナをこの国に連れてきた獣人だ。彼はアイナを「番」と呼び、そして獣人の国へと(いざな)った。

 言葉にすればそれだけだ。


 ――それだけ、だったのに。


 何が起こったのか、今でもやっぱり分からない。

 分かっているのはただ、アイナがひどく(うと)まれている事。

 そして、この暮らしが永遠に続くという事だけだった。



    ***



 あれから十回、同じ作業を繰り返し、ようやく大甕がいっぱいになった。

 食べ物をもらいに厨房へ行くと、先ほどの女がそこにいた。休憩しているのか、近くの使用人達と談笑している。

 女はアイナに気づくと、不愉快そうに眉を上げた。


「なんだい、こっちを見るんじゃないよ」

「あ、あの……終わりました」

「そうかい。それで?」

「……し、食事、を」


 おずおずと告げたアイナに、女は口の端を吊り上げた。


「あーら、それは残念だったねぇ。ちょうど今終わっちまったところだよ」

「えっ……」

「遅れるから悪いのさ。今日は飯抜きだね、可哀想に」


 そう言いながら、女の口元は楽しそうに歪んでいる。周囲も笑いをこらえるようにその様子を見物していた。

 本当なら立ち去らないといけなかったが、アイナはかろうじて食い下がった。


「で、でも、朝も食べていなくて、昨日の夜も、水だけで……っ」

「それがなんだってんだい。あたしのせいだとでも言うのかい?」

「そう……じゃ、ないですけど。でも、もう、お腹が減って……」


 今食べ損ねたからといって、明日の朝、食事を出してくれるとは限らない。それは骨身に染みて分かっていた。

 だからこそ、今ここで引き下がってしまったら、次に食べられるのがいつになるか分からないのだ。


 必死になって頼み込むアイナに、女は意地悪そうに口元を歪めた。


「どうしても食べたいってんなら、その辺を漁りな。パンくずか何かはあるだろうさ」

「野菜の切れっぱしもあるぜ」

「床に落ちてる皮は食ってもいいからなーっ」


 すぐに心無い野次が飛んでくる。

 ぎゃはははっと笑いながら、うつむくアイナを見て楽しむ。そうするのが、彼らの一番の娯楽なのだ。


 だが、許可が出たのはありがたい。

 ぺこりと頭を下げ、アイナは近くの棚を漁った。


 肉や魚は残っていなかったが、しなびた果物がひとつと、乾いたパンのかけらがある。鍋の底に残っていたスープをかき集めると、わずかに腹を満たせる量となった。


 急いでスープを飲み干し、果物とパンを持って立ち上がる。

 ここで食べていると、どんな嫌がらせをされるか分からない。


 背中を向けるアイナに、果物の芯が飛んでくる。

 魚の骨に、野菜の皮。それが当たるたび、口笛と歓声が沸き起こる。

 彼らは全員獣人で、人間であるアイナを嫌っている。


(でも)


 好きで来たわけじゃ――ないのに。


 こぼれそうになった声を、アイナはぎゅっと噛みしめる。


 涙はとっくに涸れてしまった。

 助けを求める声も、手も。

 何もかも、壊れたように動かない。

 傷つく心さえ、どこかに置き忘れてしまったようだ。


 今の自分はぼろぼろで、どこもかしこも薄汚れている。全身がすり切れて、おびただしい血を流しているようだ。

 一体いつまで、こんな生活が続くのだろう。


(「(つがい)」になんて……)


 ――なりたく、なかった。


 望んだ事など一度もない。

 手に入れたいと思った事もない。

 愛した事さえないというのに、どうしてそれを願えるだろう?


 家に帰して。

 家族に会いたい。


 こんな事になるのなら、あの時、どんな手を使ってでも断ったらよかった。


 ――でも、もう、遅い。


 厨房を離れるアイナの背に、嘲笑の声が浴びせられた。

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