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第一章「少女たちの夕焼けは今日も咲く」

 彼女はいつだってそこにいた。いつだって夕焼けを眺めていた。



 記録的な猛暑日が続いたあの夏休みがついに明けた。日中は当然暑くて外出する気がまるで起きないし、夜になってもむしむしと暑くてぐっすりと眠れた記憶がない。夏ってもっと爽やかな青春のイメージがあったんだけどなぁ。これも温暖化のせいだろうか、なんてことをいちいち考えただけでもいらいらする。まぁ、夏には悪いけれど私は秋が好きだから明けてくれてほっとしている。


 教室では久しぶりに顔を合わせるクラスメイト達が各々の休み中に起こったあれやこれやを楽しげに話し合っていていつもよりにぎやかだ。男子はほとんどが部活に熱中していたのだろう、結構日焼けしているメンバーが見られる。

「じゃあ旭は何してたの?」

 窓際に体重をかけて野菜ジュースを飲みながら澪が聞いてくる。

「特に変わったことはしてないよ。夜に何度か星を撮りに行ったくらいかな」

「えー、暑くなかった?夜の山でも結構厳しいんじゃない?」

「いや、少なくとも部屋よりは快適だった。むしろちょうどいいくらい。木とかがたくさんあるから程よく涼しい風が吹いていたよ」

 私は夜眠れなくなることが多いからよく家から近い山に行っては写真を撮るようになっていた。もともと写真を撮るのは好きだったが大半は写真家のお爺様の影響だと思う。といっても基礎的なことしか知らないから本当に自己満足のひとつとしてやっているだけだ。

 それに、私の本命は夏の夜空でも祭りの鮮やかな提灯の群れでもないから、それらはちょっとした予行演習みたいなものだった。作品を撮りたい訳じゃない。

「澪は?ちゃんと練習出たの?」

「あー、一応……出たよ……?」

  あからさまに痛いところを突かれたといった反応をする。わざとらしく窓の外に目をそらしてストローに口をつけた。ズズズと音がするから中身はもう殆ど無いのだろう。

「で、本当は?」

「うっ、三日に一回くらい、かな?」

 やっぱり、そうだと思った。3日に1回って言ってるけれど恐らく酷い週はもっとだろう。

 澪は重度の失踪癖の持ち主だ。授業なんかは流石に抜け出したりはしないけれど、部活になると話は変わってくる。彼女の所属する演劇部は練習も結構ハードだし逃げ出すのも無理はないだろうし、別に逃げ出すのは澪だけじゃないけれど。

「頑張れ、副部長」


 そう、澪は演劇部の副部長を担っている。流石に部のトップが頻繁に逃げ出すのは少し問題がある。しかも、澪が逃亡することにはもう一つ問題がある。

 澪は、数多くの演劇で主演を務めてきた超実力者。可愛らしい役からかっこいい役までこなす上に、クオリティだって本物だ。

 部内だけでなく学校中に彼女のファンがいる。聞いた話だと他校にいるらしい。

 だから、主役がいないと殆どのメンバーが練習にならない。

 それにもかかわらず澪はよく失踪する。失踪してしまう。

「別に練習が嫌なわけじゃないんだよ。ただ、おんなじ場所でおんなじことを繰り返していると新しいことが生まれないというかなんというか・・・」

 彼女なりに理由があってのことなんだろうけど、結局はなんとなくなんだろう。

「まぁ、他の部員の練習の妨げにならないように気を付けなよ?」

「うぅぅ、旭って水谷先生よりも担任っぽいよね」

「褒められている気がしなくてなんか複雑なんだけど」


 そんなタイミングで国語担当の柳先生が教室に入ってきて、私達の会話は強制的に終了することになった。 

 あぁ、一限は古文だっけ。いきなり眠くなるような科目、他とは少し違った意味で気合をいれなきゃいけない。

 柳先生はすごく優しい初老の先生だけれど、その優しくてゆるい声で古文の解説をされて授業終了時までに一度も落ちずにいられる生徒なんていないんじゃないかと思う。ただ、それを柳先生も理解しているらしく、先生のテストはいつも教科書の内容を確認するような基本的な問題が大部分を占めている。

 そんな催眠術使いの柳先生の授業が始まって15分が経過した。何度時計を見てもやっぱり15分しか経っていなかった。

 ヤバい……すでにかなり眠たくなってきた。

 首元に手を当てると確かに体温が上がっていたのがわかった。

 眠いから体温が上がるのか、それとも暑いから体が寝る準備完了と勘違いしたのかはわからないけどピンチであることには変わりない。流石に一限からこんな調子だとこのあとの授業全部こうなってしまいそうだ。

 わかってはいても、眠い。

 教室を見渡すと、私以外にもみんなうっつらうっつらと意識が朦朧としている。中には眼鏡を外してがっつり寝ている生徒だっている。

 みんな気付かれていないと思っているだろうけど、教卓からはよく見えるらしい。

「おやぁ、皆さんお疲れのようですねぇ。みなさぁん、一旦ストレッチでもしましょうかぁ」

 柳先生は特に重要なところをちゃんと解説するためにこうやってみんなを起こそうとしてくれる。居眠りをしている生徒を叱ることはない。

「古文というのはどうしても眠くなってしまいますからねぇ。まぁ私の話し方にも問題があるんでしょうがねぇ」

 と、どこまでも甘々な先生だ。

「ただし、私はこれでも教師ですから。皆さんの成績のためには少し厳しくする時もあります。よろしいですか?今から説明する箇所は試験に出すので、ほんの少し頑張りましょうか」

 にこやかな表情ではあるものの、目はしっかりと先生の目をしている。だからこそ柳先生には支持者が多い。




「さてと、皆さんお疲れさまでしたぁ、今日はここまでにしましょう。」

 時間が止まっていたかのようにも思えた授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。 

  とりあえず柳先生が教室を出たのを見てから、私は顔を洗いに行った。その後の授業はなんとか乗り越えることができた。後で古文のノートを書き直さなきゃいけない。波打ってるから。





「じゃあ適当に連絡事項を伝えるぞ、適当に手帳にメモしろ」

 ホームルームで担任の水谷先生が相変わらずだるそうに進行する。

 恐らく昨日も徹夜で作業していたのだろう。実際に水谷先生はホームルームでも授業でも板書自体は分かりやすくまとめているが、その口調はいつもだるそうでなんだかむず痒いことが多い。今だって視線は手元のボードに留まっていて生徒の方には向かない。

 側からはやる気がないように見えるかもしれないけど、目元の隈を見ると同情しちゃう。

「彼はいつも大体十一時くらいまで残って作業してますからねぇ。ひょっとしたら家に帰ってもろくに休んでないのかもしれません……。加えて彼はものすごく少食なんですよねぇ、色々と心配です」と柳先生から聞いたことがある。だから皆もあまり文句を言ったりはしない。実際、文句をいうような点もないし。

「あ―、詳しいことはまた後で通達するから今日のところはいいや。宮崎、八雲、あとで職員室来てもらえるか、プリント渡す」

 委員長である宮崎香と八雲響の二人は過労死寸前の担任を全面的にサポートする有能な生徒で人望も厚く信頼できる二人だ。なんやかんやでこのクラスは成立しているのだと思う。

 とりあえず一通りホームルームが終わり大半の生徒は部活に向かい、所属していないものは教室で駄弁り始めた。

 私も部室に向かうために荷物の整理をしていると、入り口付近でちょうど澪が同じクラスの演劇部員たちに連行されるのが目に入った。「あさぁひぃぃ」と助けを求める叫びが聞こえたが、演劇部員たちが大変な思いをしてるのは知っているし、軽く手を振って見送った。

「さて、私も行くか」




 教室を抜け、廊下ですれ違うクラスメイトたちに適当に挨拶をしてから私は写真部の部室がある北棟三階に向かった。グラウンドから離れた北棟は、隣接している南棟の影となってしまうためこの時間帯は薄暗く少しばかり肌寒い。吹奏楽部は南棟四階にあるためその音も小さく聞こえる。人の姿もないため、静寂が支配する空間だ。そのため、私が階段を上る音がやたらと大きく響く。

 階段を上るとすぐ右に部室が見えた。鍵を取り出し、錆びかかった重めの扉を開けた。

「お疲れ様でーす」

 部屋に入り声をかけてみたけど、中には誰もいない。まぁ、私が鍵を開けたのだから当然か。

 部屋中央にある長机に荷物を置き、お湯を沸かすことにした。多分もう少ししたら後輩たちが来るだろうから。今のうちにレンズでも磨いておこう。

 パイプ椅子を窓際に動かし、レンズを拭いては見たものの、視線は手元には向かなかった。

 ふわりと差し込む光が頬に当たり、気分が和む。だからか、どうしてもその方を向いてしまう。

 窓の外はちらほらと小さな雲が浮かんでいて爽やかな青にうっすらとした白が覆っている。聞こえるのは運動の掛け声と吹奏楽部のチューニングくらいだ。それも微かに。あとはポッドが一生懸命にお湯を沸かす音とパイプ椅子独特のぎしっとした音だけ。きっと今窓を開けたら絶妙な涼しさの風が入って来るんだろうな。でも、その代償にいろんな音が入ってくる。せっかくだから、もう少しくらいこの空間を、この完成された静寂を楽しみたいな。開けるのは他の子たちが来てからでもいいんじゃないかな。

 ポッドの中で騒ぐお湯のボコボコとした音がだんだんと収まると、廊下からダンダンダンダンと走ってくる音が聞こえてきた。残念ながらこの音は後輩たちのものではない。

「今日は結構早いな……」

 ため息がつき終わる前に部室の扉が勢いよく開いた。

「桜島っ、いるか!」

 肩で息をしながら天笠夏希が叫ぶように聞いてきた。

 高身長でショートカット、ボーイッシュでバレーボール部にいそうな彼女だが、実際は演劇部部長。役者もするが基本は運営など舞台裏担当が多いらしい。補足すると彼女の演技力はもちろんすごい。男女関係なく彼女の演技に魅了されるものはそう少なくない。普段は活発だが、ひとたび演じると気高く、繊細なもので、それにより生じるギャップが見る者の心を確実に打ち抜く。うちの演劇部のクオリティってほんっとどうなってんだろう。

「いるよ、どうかしたの……、って聞くまでもないよね」

 そう、聞くまでもない。演劇部の部長自ら全力で校内を駆け回る必要のあることと言えば、一つしかない。

「ああ、澪、来てないか?セットの調整をしていたらいつの間にか逃げられてた」

「澪は来てないね、私もここをついさっき開けたばっかりだし」

「そうか、そうだよな。うちも練習始めてから少ししかたってないはずなんだが。あぁ、もう、どこへ行ったんだ。新学期になった途端にこれかよ」

 夏希は扉に体重をかけ、ガックシきていた。

「まぁ、そのうち見つかるって。お茶入れるけど、少し休んでいく?」

「いや、ありがたいけど遠慮しておく。部のツートップがさぼりは良くないだろう」

 確かにその通りだ。あとで澪に会ったら夏希をしっかり休ませてあげるように言っとかなきゃ。

「わかった、じゃあもう少ししたら私も探しに行くよ。多分あとちょっとで後輩が来るから」

「助かる、あの澪でも桜島には敵わないからな」

 そういって夏希は再び走り始めた。

 階段のほうから「わっ、びっくりした」「あーごめん、急いでて」というやりとりが聞こえた。夏希がぶつかりそうになったのだろう。

 そのぶつかりそうになった相手は「いやー、天笠先輩は急いでる姿もかっこいいですね」と言って部室に入ってきた。

「おつかれ、鹿島。早速で悪いんだけど留守を頼めるかな」

 鹿島は一見ちゃらちゃらしているが、案外真面目で成績も良いため写真部でも同期のメンバーをまとめるポジションにいる。だから私も結構頼ってしまうことがある。

 鹿島は「いいっすよ」と一つ返事で受け入れてくれた。

「大方、明坂先輩ですね?」

「そ、また逃げ出したみたいだから探してくる。ポットの中、お湯が入ってるから自由にお茶でも飲んでて、さっき沸いたところだから」

「あざまっす。じゃあ今日の活動はどうします?」

「他のメンバーが揃ったら秋の展示会のテーマ決めしといて。終わったら各自帰っていいから、適当に三つくらい案を決めて後で報告して」

「了解っす」

 鹿島に指示を出し、私は澪を探しに、とりあえず南棟に向かった。



 夏希が澪を探すのに私を頼るのは、私たちが普段一緒にいるからという理由だけではない。実績が断トツで一位だからだ。澪の逃げる場所はいつも同じではない。時には校舎を抜け出していることもある。そのときも見つけたのは私だった。だから演劇部からやたらと信頼されている。この間、一年の子からコツを教えてくれって言われたくらいだ。

「今日は……」

 窓を開けて外の景色を眺める。秋風が一遍に入ってきて気持ちが良い。

 私は特に焦ることなく、階段を上った。最上階、吹奏楽部の勇ましい演奏が聞こえる。確か、ベートーヴェンの歓喜の歌だったか。まぁ、当然澪は吹奏楽部じゃないからここにはいない。

 けれど、この上にはいるだろう。



 屋上は当然危ないから普段は鍵がかかっている。けれども、ドアノブを軽くひねってみるとそこにあるはずの引っ掛かりはなかった。

 重々しい扉を開けると、ところどころに錆びの入ったフェンスと欠けたタイルまみれの床が目の前に広がった。フワッっと少し冷たい風が肌をさすって心地よい。

 きっと彼女もそう思っているんだろう、壁に寄りかかって鼻歌交じりにこの状況を謳歌していた。ちょうど下から流れてくる歓喜の歌だ。

「フロイデ―シェーネール、ゲッテルフンケンッ、ふふっ」

「楽しそうだね、澪」

「あ、あさひー、待ってたよっ」

 特に驚いた様子もなく、澪は上機嫌だった。かくれんぼをしている子供と変わらないような笑顔だ。

「夏希が探してるよ。なんでまた逃げ出したんさ、早すぎるって」

「いやぁ、一通り合わせてみたんだけどどうも自分の演技にしっくりこなくて、ちょうど歓喜の歌が聞こえてきたから気分転換に。それに――」

「見て」、と澪はフェンスの向こう側を指さした。

 そこには鮮やかに揺らめく楓色の夕日があった。その周りは淡い黄色に染まり、遠く離れた青空にはコントラストの層が出ていた。

 そう、これこそが、逃げた澪を探しあてることのできる最大の理由だった。

 夕焼け。私たちが共通して好きなもの。その日一番きれいに夕焼けが見える場所に彼女は必ずいる。まるで、夕日が彼女を誘うように。そして私も。

 誘われたということもあり、やっぱり最高の眺めだった。夕日も、その周りの夕焼けも心惹かれる。部室から見た景色も、廊下から見た景色もこれには敵わない。視界一杯に広がるあまりにも複雑でこれ以上ないくらい単純な一色と秋を伝える風、温度。何もかもが最適で愛おしい。

「綺麗だよね、今日の夕焼けも」

 ため息に近い感想がこぼれる。

 そして、隣では演劇部のスターがキラキラした目でそれを見ている。その姿は、様になっていた。清涼飲料水のコマーシャルに使われてもおかしくはないだろうなぁ。

「うん、綺麗……。本当に」

 部室にカメラを忘れてきたことを思い出し、かなり悔しい思いだ。夕日も、夕焼けも、澪さえも撮れない。ただ、脳裏に焼き付けることしかできなかった。せっかく夏休みにリハビリをしたっていうのに。

 お楽しみはまた今度にしよう。

「さ、夏希たちが待ってるよ。早いとこ練習に戻らないといろいろまずいんじゃない?」

 スマホの時計を見たらもう五時を回ろうとしていた。私も写真部に戻らないと、いつまでも鹿島にまかせっきりは良くない。手を伸ばすと澪は少し不服そうな表情で起き上がった。

 気持ちは分かる。日が沈む瞬間まで見届けたいという気持ちは私にもあるけれど、他の人たちに迷惑かけちゃいけないだろうから。

「旭はこの後どうするの?」

「他のメンバーと会議をして、それが終わったら帰るつもり」

「じゃあ終わったらうちの部室においでよ、演技見ていって」

「まぁいいけどちゃんと練習するんだよ?」

 澪は「分かってる分かってる」と少しご機嫌な様子で返事した。

 一応、現地解散だとまずい気がしたから、私は澪を演劇部の部室まで連れていくことにした。澪は、流石に自分で帰れるよと言ったが、いつ心境が変化するか分からない。


 澪を疲弊しきった夏希に渡し、とりあえず写真部の部室に戻ってくることができた。

「おかえりなさいっす」

 ノートにカリカリと何かを書いていた鹿島はいったん手を止めて振りむいた。

「あれ、他のメンバーは?」

「伊藤ちゃんはバイト、白神君は眼科、水川副部長はカメラのメンテナンスに行くってことでみんな帰っちゃいました。とりあえず、テーマを次回の会議までに決めてきて欲しいとは言っときました」

「相変わらず的確な指示で助かるよ。で、鹿島は帰らずに何をやってたの?」

 覗き込むと数Ⅱのテキストが開いてあった。

「あ、はは。どうも微積が分からなくって……。先輩が返ってくるまで少し勉強しようかと」

 迷惑もかけたことだし、私は少し手伝うことにした。微分積分か、基礎問題までなら何とかなる気がする。



「で、こっちをα、こっちをβとして計算してみて。あ、aの値も確認してからね」

「こうっすか?」

「そう。すると実際に公式と一緒の答えになるでしょ?」

「はー、なるほど。助かりました先輩。家に帰っても一回やってみるっす」

「真面目だね、君は本当に。気にしなくていいよ、またいつでも相談にのるから。私がわかる範囲でだけど」

 そんな感じでその後に軽く談笑をして、私たちは部室を閉めた。

「じゃ先輩、お疲れっしたー」と言って鹿島は帰っていったが私は澪に言われた通り演劇部の部室に再び行くことにした。


 演劇部の部室は実は音楽室の隣にあった。どちらの教室も普通の教室の倍以上の広さを持っており、大規模な文化部である吹奏楽部と演劇部が使うにはもってこいの構造になっていた。つまり、今回の澪の逃走劇は意外と小規模なものだったけれど、みんな遠くに逃げたものだと勘違いしてあちらこちらを走り回ったようだ。灯台下暗しってわけか。

 扉の小窓から中を覗いてみると夏希が腕を組みながら真剣なまなざしで部員の演技を見ていた。今回も裏方なのだろうか、久しぶりに見てみたい気もするんだけれど。

 視線に気づいた夏希がこちらを向いて、手のひらをちょいちょいっとした。入っていいよという合図なのだろう。

 なるべく扉の音を立てないようにそっと入室してみる。幸いステージ以外は照明がついていない暗室のため必要以上に目立つことはなかった。

「さっきは助かったよ、いつも悪いんね」

 夏希はにっと笑いながら小声で言った。

「いいよ、案外すぐに見つかったし。夏希こそ走り回ってつかれたでしょ、お疲れ」

「ははっ、サンキュー。で、探し終わったから今度はさらいにでも来たのかい?」

「そんなつもりはないよ、澪が活動終わったら練習見に来てくれって言うから」

「ほんっと、桜島がいるといないとではやる気の出し方が段違いだからなぁ。いや、いないときのやる気もすごいんだけどさ。っと、そろそろ出番だよ」

 ステージを見ると澪が登場した。流石に本番ではないからジャージのままだけれど、表情は完全に出来上がっていた。「あの娘はこの話の主人公の踊り子さ」と隣で夏希が教えてくれた。




 スポットが澪に、いや踊り子に当てられ彼女は遠くを見ながら高らかに歌った。

 明日に向かっていくために、苦しい生活から抜け出すための努力を諦めない。みんなで一緒に乗り越えよう、といった歌だった。その歌声は透き通っていて、力強くて、観客全員をくぎ付けにさせるような歌声だった。それだけでなく、今彼女たちが何に苦しまれ、何と戦っているのかまでも鮮明にイメージさせるものだった。

 そして踊り子は、大きく両手を掲げた。瞬間ステージ全体に明かりが灯され、周りの客たちと一緒に踊り始めた。華麗で軽やかで、彼女たちの服装がだんだんと目の奥で見え始めた。そして、その世界で生きている彼女らの目はとても生き生きとしていて、この上ない楽しさを感じ取れた。


「オッケー、カットで」

 一通り演技が終わり、夏希が練習終了の合図を出した。異世界から呼び戻す呪文のようだった。

 夏希は私を一瞥して満足げにドヤ顔した。

 役者たちは「あー、終わったー」と一遍に肩の力を抜いてそこら中に座り込んだ。

「みんなお疲れ、とりあえずこのパートは今やった感じを忘れないでいこう。今までで一番良かったよ」

 夏希がみんなを褒めた。澪から聞いた話だと滅多に褒めることがないらしいからよっぽど良かったんだろう。

「そりゃ、桜島先輩がいりゃいつもより緊張しますってー」

 男子部員が疲れ切った表情でそう答える。他の部員も賛同するかのようにうんうんと頷いていた。

「なんだ?桜島がいないとこの演技はできないのかぁ?」

 夏希がニヤッと笑いながら茶化す。「そうじゃなくって、臨場感とか緊張感ってやつですよ」と笑いながら反論している。

 ステージの奥の方に目をやると澪がまだ真剣な顔で考え事をしているようだった。恐らくさっきの演技の反省点を自分なりにあげているんだろう。一度スイッチが入ってしまうとなかなか抜け出せなくなってしまうらしい。多分、演技中に私が入ってきたことにも気づいてないんだろうな。

「澪ちゃん、桜島さん来てるよ」

「えっ……。あー、旭、来てくれたんだ!」

 他の部員に言われて初めて踊り子から明坂澪に戻った。瞬間、こちらに向かってきた。

「お疲れ、来たよ」

「ありがとー。でもごめんね、ちょうど練習終わっちゃって」

「いや、見てたからちゃんと」

「うそっ、いつの間に」

 屋上で彼女を見つけた時と違って今度は本気で驚いていた。

「え、じゃあどうだった?私の演技」

「澪、踊れたんだね」

 感想としてはあまりにも乾ききっているものだと自分でも思ったが、それしか出てこなかった。他の感想を言葉にしてまとめるにはあまりにも時間が足りない。それでも澪は大きく笑った。

「そう、練習したんだ!でも、最後のところはまだキレが足りないんだけどね」

 たとえ部員でない私と喋っている時でも最も基本的であり最も重要である自己分析をして、改善点を心得ている。一番である彼女が一番であり続ける理由のひとつなんだろう。

「じゃあもう少し練習とかするの?そろそろ帰ろうかって思ってたんだけど」

「いやいや、今日はもうおしまい。一緒に帰ろう、旭」

 澪は急いで帰りの支度を始めた。私のすぐ後ろで夏希が「ふふっ」っと笑った。

「ん、どうしたの?」

「いや、なんでもないさ。桜島、いつもありがとうな」

 どういうことかと聞こうとしたとき、澪がちょうど準備が終わり駆け寄って来た。

「旭、お待たせ」

「ん、あぁ、じゃあ帰ろうか。夏希、また明日」

「あぁ、また明日」

 夏希は軽く手を振りながら見送った。


 澪と一緒に帰るのは夏休みが終わって初めてのことだ。久しぶりだから朝に話せなかった夏休みの話の続きをした。

「じゃあ結局お祭りには参加しなかったの?」

 道中で寄ったコンビニで買い物を終え、澪は野菜ジュースを演劇で疲れ切った喉に流し込んだ。ストローを噛んでしまうのは癖みたいで、チーッとストローのわずかな隙間から野菜ジュースが流れていく音がした。

「そうだね、やっぱり人が多いとちょっと怖いからね。祭りがやってる近くの神社とかに行って鳥居とかなら撮ったよ。あと、そこから見た祭りの風景とか」

「えー、なんか自分の世界を持ってる感じで素敵じゃん。やっぱり、旭はすごいなぁ、あとで見せてよ」

「いいよ、後で持ってくるね」

 ニッと嬉しそうに笑い、澪はコンビニの袋の中から真緑色の何かを取り出した。その瞬間、ものすごく嫌な予感がした。

「え、澪、待って、何、それ」

 恐る恐る聞いてみたが、心当たりはあった。コンビニの駐車場に新発売の旗が立っていたし、レジの隣でも堂々と売っていた。ただ問題は、一つも売れていなかったということだった。そりゃそうだろう、こんなにも真緑なんだから……。

「これねー、新作なんだって。エビアボカドサラダまん」

 エビアボカドサラダまん――。

 エビアボカドサラダをなぜ肉まんにしたのか……。担当者に今すぐ会いたい。いや、やっぱり会いたくない。なんか厄介なことになりそうだから。

 しかもそれ以上に厄介なことに、澪はこういった変わったモノにすぐ手を出したがる。表現者ってのはいつだって刺激を求めているのだろうか。

「わかってると思うけど、自分で全部食べなよ」

 一口食べてリタイアからの私にパスというルートは何としてでも避けたい。以前澪がリタイアして私が飲む羽目になったサーモンのカルパッチョ風味の野菜ジュースは酷かった。

「大丈夫、今回は絶対に美味しい!私エビ好きだから」

 そこはせめてアボカドが好きじゃなきゃ。私の心配のまなざしに気づくことなく、澪は目をキラキラさせながら大きくかぶりついた。ジューシーで肉厚なハンバーガーでも食べるかのように。

 少し反応が気になって澪の食事を観察してみる。もぐもぐとテンポよく笑顔で咀嚼すること数秒、徐々に動きがなくなり、笑顔は消え、一点を見つめるようになってきた。嫌な予感的中。飲み込むタイミングを考えているのだろう口いっぱいにアボカドサラダを詰め込んでこちらを見ている。

 数秒後、勇気ある嚥下。からの沈黙。

「あー、あのさ、旭」

「嫌だ」

「お願いぃぃぃぃ、食べて、おいしくなぃぃぃ」

「おいしくないものを買うな!食べるな!押し付けるな!」

 ぐいぐいと来られ、どれほどまでにおいしくないのか少し気になってしまうのが私の悪いところなんだろう。少し震えながら手に取ってみる。外は真緑、澪がかじったところから見える中身はそれにところどころ桜色の具材が見える。恐らくエビだろう。

 意を決して一口。間違いなく餡を存分に口の中に含んだ。一回目の咀嚼に入るよりも前に、中途半端に温まったアボカドのもさっとした感覚が一斉に襲ってきた。これはまずいと思い、咄嗟にさっき買っておいたスポーツドリンクで流し込んだ。

 前言撤回。これを開発した責任者は今すぐ出てこい、蹴り飛ばしてやる。

「だぁっ、はぁ、はぁ、まっずっ」

 すぐさま残りをレジ袋に突っ込み、固く縛った。


「ふっ、ふふっ、あっ、ははは」

 何かを我慢していたように一気に澪は笑い出した。

「何がおかしいのさ……」

 理由も分からず、謎の笑いについていけない私はまだ息が整っていない。

「はぁ、はぁ、はっはは、あー。旭、ありがとうね」

 満足するまで笑った澪は急にそう言った。

「本当だよ、流されて食べちゃう私も私だけどさ。そろそろふつうのもの買おうよ」

「いや、確かにこのこともそうなんだけどね。私が言いたいのは、いつもありがとうってこと」

 ありがとうと言われたものの、澪が一体何を伝えたいのかよくわからなかった。多分、そのことは澪も表情から分かったらしく、「どういうこと?」と聞く前に澪は続けた。

「わかってはいるんだ、私はちょっとっていうか大分いかれている。普通の人は部活中に逃げ出したりはしないだろうし、勝手に屋上に行ったりもしない、ましてや逃走から帰ってきて何もなかったかのように練習に戻ったりもしないだろうね。当然、普通の人はこんなゲテモノは食べない」

 少し自虐的にものを語る澪を見るのは珍しい。一見、天才的な自由人のような彼女でもやはりそれなりに悩んでたりするのだろう。ここまで来るとだいたい私も何を伝えたいのかがわかってきた気がする。

「なのに、旭はいつも一緒にいてくれるじゃん。逃げ出しても探してくれる、夏希の頼みだからってのもあるかもしれないけどそれだって断ることはできるわけだし。だからさ、いつもありがとうね、旭」

 その切なげな表情は、夕日と重なって見えにくかった。それでも、澪がぎこちなく笑っていたのは分かった。

「ねぇ、旭」

 野菜ジュースのラベルを見ながら、聞いてきた。


「旭はさ、これからも私のそばにいてくれる?」

 その言葉からは何も感じ取れなかった。

 その表情は何も考えさせてはくれなかった。

 淡く、淡く、どこまでも淡い。遠くの方に広がっていくようだった。紙の絵具を、水をたくさん含んだ筆で何回も何回も延ばし続けたような。

 悲しいのか、期待しているのか、不安なのか、何一つわからなかった。感情がないのではなく、いろんなものが混ざって、私の知らない新しい感情ができたような気がした。何百倍にも感じた2秒間、頭の血管がドクンドクンと鳴る音がやたら大きく聞こえた。

「澪、私は。たぶん、この先も澪と、いる気が、する」

 ようやく絞り出せた抜け殻のような言葉は何とも曖昧なものだった。私たちの横を通り過ぎる少し乾いた風が全て持っていきそうだった。それでも澪には届いたようだ。

「うん、なら良かった。ありがとうね、旭」

 【面】から【線】に変わり、今にも【点】になりそうな夕日を背に澪はニッと笑った。手を後ろに組みながら、後ろ向きのまま軽快にステップし始めた。

 夕日は今日一日の限られた時間内での仕事を終え、空は藤色に染まりだした。

 私は今、どんな色をしているのだろう。目の前にいる彼女はどんな色で笑っているのだろう。



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