第四十六話 暗闇の底に佇むもの
真理救済教は数々の不動産を保有している。宗教法人であるから、厳密な金や制度のことはともかくとして、その数や規模は侮れるものではない。
実際に、清美の率いる真愛烈士団や水浦らの派閥の特殊体質者たちはこういった施設を拠点にしている。
その中で最も巨大なのは、この本部会館だろう。
異変以後の東京再一極集中に伴う都市再生と共に誕生した、巨大建築物の走りと言える。
幾つかの部屋に分かれることになるがその気になれば、凡そ一万人程度収容可能であり、教団の創立記念日には、その倍近い信者が集う。
しかし幾ら巨大で立派な施設を建設しても、そのスペースのほとんどは普段使いされることはない。せいぜいいくつかの部屋で集会や勉強会を開くか、あとは修行──特に特殊体質者向けの──を行っている程度の、税金のあまりかからない大いなる見栄である……ということになっている。
ここに秘密の地下室が存在し、まさかその奥底に教祖が籠っているなど、一体誰が想像できるだろう。そんな箱の最も重要な中身を知る者は信者でもごく僅かだ。
教祖の右腕の男であり秘密を知るひとりである清美は、今、地下の階段を下っていた。
男はその大きな体を窮屈そうに縮めながら、片手に握りしめた懐中電灯でその足元を照らす。
その地下は深く暗く、静かであった。足元を映し出す光の先は深く、暗闇は長く続くことが伺える。清美のゆっくりとした足音だけがこだまする。
清美は、人生で直面してきたストレスには信仰で以てして対処してきた。厳しい修行に耐えた彼は健康な肉体を持ち、その肉体に宿る健全な精神は、岩のように強靭である。
彼の背負う責任は高校生が最低賃金でやるアルバイトとは比べ物にならない、世界を変える宿命の戦い。そして、闘いのために、信心のために、この人間社会に大変革を齎す偉大な革命のために、何人もの同志が斃れてきた。
そのための任務が立て続けに失敗すれば、誰もハッピーな気持ちにはなれまい。
それに、悪い報告は此度の失敗だけではなかった。
「しかし、いつにもましてここは……」
清美が思わず眉を顰める。
薄暗い地下は、建物の外観が東京のビルらしく洒落ているのとは対照にコンクリートが剝き出しの廃墟じみた、あるいは秘密の脱出ルートらしい様相だ。
空気が籠っていてかび臭く、長く留まっていると気が滅入ってしまう。そんな日の当たらない暗がりは、お世辞にも健康に良いとは言えない。どう考えても、長居する場所でも籠る場所ではない。
階段をしばらく下った後、空間が一気に広がる。
地下の通路に出て清美は立ち止まった。
懐中電灯の灯りを持ち上げてやれば、コンクリート壁に浮かぶように扉が照らされた。
カチリと音が響いた。それは彼が灯りを切った音だ。
深淵を切り拓く光は消失し、もはや一寸先も見えなくなる。
部屋には灯りを消して入るべし、雁野田の言いつけである。
暗闇の最中、清美が扉を叩けば、ドン、ドン、ドンと、音だけが三度響く。
「……先生、清美です」
深淵の中、清美が呼び掛けた。
声は闇に飲み込まれ、扉の先に届いているか定かではない。
しばしの沈黙の後だった。
「入りなさい」
掠れるような、老いた男の声が響いた。
扉越しに届くにはあまりにか細く頼りのない声であるが、確かに清美には聞こえていた。
清美が扉を開けば、部屋に足を踏み入れた。
厳密には、部屋らしきどこかだ。
「失礼します」
広がりはあると感じられるが、漆黒に塗りつぶされた視界にはそれ以上のことはわからない。清美もまたその仔細は知らないが、しかし彼のなすべき使命を果たすには、知らずとも問題のないことだ。
男は杖を喪った盲人が如く、まずは背後にある壁に手を当ててその感触を頼りに進む。
彼はどの方向に何歩進めばよいか既に覚えていたし、暗闇に目が慣れたのか人影くらいは捉えられた。
彼の教祖は、いつもと変わらぬ位置に鎮座していた。
深淵の最中、気がつけばふっとたどり着くようにして清美は跪いていた。
この眼前に、すぐそこに彼はいる。確かに気配がそこにある。
かつては信者の皆の前で雄弁に激励を送り、メディアにも頻繫に露出していたあの雁野田畢竟が、今では地下に潜っている。
そのことに疑問を呈す者は多い。
しかし、こと清美においてそんなことは有り得なかった。
「先生、報告に参りました」
雁野田畢竟への報告と、大まかな方針を受けてこれを反映する。現在、清美にのみ与えられた職務である。
「……首尾は」
ゆっくりと、雁野田が言葉を紡ぐ。
彼らの教祖は、地下に潜る前と変わってしまった。かつて教祖は言葉巧みに真理を説き伏せ、時に激情的に誠実に語った。しかし、今では静かに、最低限の言葉しか発さなくなっていた。
それが何か悟りを得た者の境地であることを清美は疑わなかったが、実際のところ雁野田畢竟について測りかねてもいた。もちろん、彼は自らのようなちっぽけな存在に計り知れるほど軽いお方ではないと感じているからである。
「……二重体質者奪還作戦は、異能組合側と思わしき怪異生物により失敗。千田は生存しましたが、他の二人は死亡、こちらの怪異生物も回収に失敗しました。二重体質者は逃走、行方は不明です。申し訳ございません」
作戦の結果は、ハッキリ言って悲惨である。不幸中の幸いがあるとすれば、不明の怪異生物相手に大勢を動員しなかったことくらいなものだ。
清美は、辛辣な思いを抑えて言った。
そして、教祖からの返答はない。ため息ひとつ聞こえず、息遣いひとつ変わる気配もない。
暗室は変わらず、不気味なほど静かだ。
嫌な緊張感が清美の背中を這いずり回る。これが緊張や動揺のためなのか、あるいはこの地下の空気に気分をやられてしまったのか定かではない。
そして、しばらくの沈黙の後、ゆっくりと音が響く。
「……二重体質者の、覚醒は」
教祖の声色にはまるで感情が感じられず、動揺ひとつ見えない。
どこまでも冷静で、事務的だった。
清美が跪くのは元より、この闇の中では教祖の表情は読めない。
家族と呼ぶべき同志の死と失敗に、何を思うのか。慮ることしか清美にはできなかった。
「未覚醒、生存で間違いありません。ただ、翼の異形でありながら、それを喪っていたようです。外科手術で取り除いたのかと」
清美が、教祖の問いに正確に答える。
そして、また居心地の悪い沈黙を挟んで、教祖がか細く声を発するのだった。
「水浦の様子は」
籠るようになる以前、雄弁だった頃から、教祖は水浦の様子について清美によく問うていた。はじめに問うたのは、十年ほど前になるだろうか。
若き日の水浦について、清美は信心に厚く真面目な好青年であると答えた。
だからこそ、彼は取り立てられた。彼は要領よく使命をこなした、水浦の持つ希少な空間移動能力は教団のさらなる発展に大いに役立った。彼は教団から距離を取る岡田や平柳のような輩や、在野のプロの犯罪者との繋がりを保ち、維持しながらも、上手くやってきていた。
お陰で今では水浦は明確に幹部と呼ぶべき存在で、権力は教祖にも並ぶ清美を除けば他の幹部の中でも頭一つ抜ける。
わざわざ雁野田が清美に定期的に報告させてきた理由はそれだけではない。
それは単に水浦という男が、彼のつながる犯罪者たちと同じように、私欲のために、教団を裏切るような男なのではないかという不安のためだ。
教団は既に彼に依存している。水浦を切り捨てるのは自らの片足を切り落とすのと同義であるが、腐り始めているのならば即座に切り捨てねば本体が死ぬのだ。
ゆえにこそ、慎重かつ大胆に見極める必要があった。
「岡田と平柳を使い、電車の作戦にて邪魔となった少年を始末させるそうです。二重体質者の確保については触れさせていません。意図は読めませんが、万一の場合彼らは戦力となりますし、大きな問題はないかと」
清美が答えた。
教団にとって、このタイミングで、その二人を呼ぶことは決して思わしくはない。
しかし、二人の腕は確かで、巻き込んで戦力にするには都合が良い存在でもある。
それに、まず岡田がいれば負けることはない──水浦も清美もこれだけは奇しくも一致する意見であり、後に外す予測なのだが──だろうし、戦力になるのは事実であるから、今は大きな問題にはならないだろうという希望的観測であった。
「そうか」
またも沈黙の後、雁野田畢竟が答える。
衣服のこすれた音すら聞こえる静粛で、清美には教祖が頷いたのだろうことがわかった。
「それから先程得た情報です。昨夜未明、柞山會の池田組が全滅したようです。下手人については、現場が異常なようで、同一犯ではあるそうですが……詳細は不明です。それはともかく、例の件に警察の捜査が及んでいるようです。露見は時間の問題かと」
清美が報告を続ける。
柞山會と真理救済教は昔から付き合いがある。特に系列の池田組とはある商売で関係していた。だからこそ、かねてから警戒してきた水浦よりも、こちらの方が清美には痛い話だった。そして、それは教祖にも同じなのであろう。
衣服の擦れる音と息遣いの僅かな変化で、その動揺が聞き取れた。
「予備は」
雁野田畢竟の実に端的な問いであった。
「二カ月分ほどです。先生、如何しますか、猶予は残されていません」
清美は答えれば、教えを乞うように問うた。
教団の状況は悪かった。
革命に加担する以前にそこまでの利用価値を持つ熱心な特殊体質者は少数だ。
必然的な少数精鋭は、国を相手取った本格的な武力闘争で大いに血を流すことはあっても、組織の徹底的な壊滅の末路は変わりない。
池田組壊滅のイレギュラーが残り時間を2カ月に追い詰め、切り札の二重体質者確保失敗が相次ぎ、内部では絶対的な地位を持つ真愛烈士団と清美はしかし実際には水浦の能力に依存しきっている歪な構造を抱えている。
その状況での実態の掴めない敵、急転する事態がその猶予を容赦なく削り取っていく。
この息苦しい穴倉で絶望に沈むのだろうか?
清美の言葉の後の沈黙は永遠と思われるほど長かった。それが清美には大変な苦痛だったことは言うまでもない。
「私は声を聞いた……真実だ……御仏の言葉……」
沈黙はついに破られた。教祖は静かに語る。
きっと、教祖は神妙な面持ちで言ったのだろう。
「……それは、一体なんと?」
当惑と共に、清美が問い返す。
とうとう雁野田畢竟がおかしくなってしまったのかもしれないなんて考えは、清美には万に一つも過らない。
疑いはない。ただ、あったのは純粋な疑問であった。
教祖が何を聞いたのか、どうすれば打開につながるのか、それを問うているのだ。
「正義の王道に仇なす魔性、真の巨悪……特務機関V……電車内で作戦を邪魔した少年こそ、その手先……」
雁野田畢竟の曖昧な言葉は、唐突な具体性でもって修飾される。
「ならば、どうします……水浦の作戦、中止にしますか」
清美がハッと息を呑む。
水浦の想定が当たっていたのである。
教祖がわざわざ清美にそう示唆するとは、その特務機関と少年こそ真の脅威なのだ。
「その少年の……詠航マコトの死体を、私の前に持ってこい……そこで全て見極めよう……」
教祖が言った。
これは、雁野田畢竟の能力ではない。
しかし、この世には能力では計り知れぬこともありうる。
「先生の聞いた声とは……」
「そうだ、彼女だ……ついに啓示を得たのだ…………清美よ……辛い役割を任せてしまったな……だが、もう少し、耐えてくれ。二重体質者を確保した暁には、正義の時代が訪れる」
雁野田畢竟の答えは、清美の想像した通りであった。
教祖の言葉を聞いて、清美は肩を震わせた。
これは教団の教えは本物なのであるという確信が、彼の胸を熱く打ったからだ。
「……止まない雨はない。嘗て、そうおっしゃったのは貴方ではありませんか。この清美、まだまだ精進してまいります」
感涙と共に清美が言った。
最早、か弱い人の身でも清美は、どんな逆境でも信心を疑うことはないだろう。
「ああ、私たちが勝つのだ」
部屋を出た清美が呟いた。
打開策と大きな進展は、清美の弱気を吹き飛ばした。行きの憂鬱な表情は打って変わって、彼は朗らかな確信と感動を胸に、確かな足取りで地上への階段を登る
「……」
そんな清美の背後、雁野田畢竟の佇む部屋なぞよりももっと深い闇の奥底から、見上げるようにして、漆黒に溶け込んだ眼が清美の背の方を見つめていた。
そして、少しすると、その眼もまた暗闇の奥底へ戻っていった。




