第四十四話 遭遇
羽黒レイの背に勘崎の命と同じだけの重さがのしかかり、真っ赤に染み出すその一滴一滴が衣服に染み付く。
彼は自分の誘拐に関わり軟禁していた一味のひとりを、今度はその命を救おうとおぶっていた。
事実とは、実に奇妙だ。
「他の方は、ご無事ですか」
レイは勘崎に確認するように、ヒーロー候補生らしく実に丁寧に問いかける。
「いや、いい……お前の部屋に行け……」
勘崎のかすれ声がレイの背中から響く、口の中が切れたのかあるいは内臓をやられたのか、言葉を並べるごとに生暖かい血がぽたぽたと垂れてくる。恐らく、後者の方か。
そして、それだけ言ってしまえば、彼はぐったりと力の抜けた体をレイに預けるままにする。
朦朧としているのか声の調子は一層弱っており、危険な状態なのは明らかだった。
「わかりました」
レイが言った。その声は僅かに落ち込んでいた。
当然、彼は他の者がどうなっていたか大方わかっていたのに、それでも問うたのは僅かな望みを捨てられなかったからか。鳥類と同じ視覚は人の見えない紫外線がわかり、より鮮明に見える視界は二階からでも一階の血しぶきがより明白に映るのだから。
「……僕の、せいなのか」
凄惨だった。何人もが、羽黒レイと関わった為に殺された。
目的のために、佐藤も、鋼線を使う男──ハシモト──なる男も命を捨てた。
犯罪組織に所属する彼らがどれだけの悪事を働いてきたのか、襲ってきた敵が何を考えているのか、レイにはわからない。
ただ、この少年は今の状況を前にして知らぬフリができるようにはなっていないだけだ。
しかし、沈痛の為に感性を機能させることを現実は許さない。
敵を二人、追い払った。しかし、キリギリスはまだしもカブトムシは動けるだろう。
であれば、レイは動く。
「飛び降ります」
レイはボーガンを拾いあげれば、言った。
勘崎から返答はないが、息遣いは感じられる。
言おうが言うまいが、地下一階に続く扉は、レイと交戦したワイヤを操る金属使いに閉鎖されている、一階を経由するのは敵二人のために不可能。どの道、飛び降りることになるが、せめてもの気遣いだろう。
レイの足が空洞にかかる。あと一歩、それで穴に飛び降りるだけ。
その時だった。
羽黒レイが足を止めた。あるいは、何かに止められた。
「……」
それは、圧倒的な違和のためだ。
敵の来ない事か。いや、諦めたとも、一度退いたからとも見える。
足を止めるほどの理由ではない。
「……あれ」
レイの心臓がバクバクと高鳴る。これは緊張と恐怖から早まっていることに今更気が付いたのか。
しかし、今自覚するにはあまりに唐突だ。それに、震えているのは心臓だけではない。
それはレイに血と火薬の臭いを忘れさせ、ぬめりとした血の感触すら曖昧にする。
恐怖、緊張からくる体の微かな震えが止まって、けれども、呼吸は確かに深い。
これは、ずっとそこにいたものが、傍らにあるような。
あの日あの時、確かにこの頬を撫でたのと同じ風が、今一度この頬を撫でたような。
そよ風というほど弱くなく、竜巻と呼ぶには雄大で、台風と呼ぶにはからり晴れていて。
それは、翼のあるものを、天高く導く、あの。
「マコト?」
少年が言葉をこぼす。そして、自分自身の言葉に目を丸くした。
ありえないことだ。彼は、死んだはずなのだ。
「……」
少年が深く息を吐く。これは期待などではない確信だった。
今そこに君がいる。
振り返れば、星を散りばめた瞳をギラギラに輝かせ、すべてを悟ったとでもいうように黄昏れて、この世に怖いものなんてない風に何だって見すえて。
そして、桃色がかった白髪靡かせて、あどけなく微笑んで。きっと、レイの目をまん丸にして驚いた顔を見て、ニヤりと不敵に笑って。
そして。
刹那的逡巡の後、振り返る。
そこで真っ先に感じたのはギロリ、上方から少年を睨む視線だ。
それに従って、レイは無意識にそれを見上げた。
そこに立つ人影、そのシルエットは確かに人影と呼べるが、こうして対面すれば、いわばその存在がヒトのそれではないことがわかる。
そいつは、レイを凝視していた。
「!……」
レイが目を見開いた。
そいつは、真っ赤な顔に、長い鼻、真っ白な髭をたくわえる。その背に携えるのは巨大な翼、化け物じみた巨躯を、法衣が包む。両手にそれぞれ握られるのは羽団扇に錫杖。
一見して異形の特殊体質者に見えるが、しかしその瞳に宿る理性は人のそれとはまるで異なる。
まるで、「天狗」のような姿形のそいつは、恐らくは。
「怪異生物……」
怪異生物とは、ヒトの思念の純粋な力。それにイメージという名の形、指向性をつけたもの。
で、あれば。
山岳において信仰を集めた山神の一種、大天狗というイメージの器を満たすほどの思念となれば、恐らく怪異生物のピンからキリの中でも──。
「……」
羽黒レイに、緊張が走る。眼前の存在から感じられるプレッシャーは、あの異形二人より遥かに強い。そんな中、心細くも彼を支えるのは、その手に握られるボーガンの重みだけだ。
そいつは口も開かず、微動だにしない。しかし、確かにレイを見据えている。
その視線は、ただ純粋に見ていること以外預かり知れぬ色をしていて、人類にはその腹の内はおよそ検討もつかない。
ふっと、そいつがゆっくりと緩慢な動きでその錫杖を振り上げれば──。
シャンッと振り下ろすままに音が響く。
途端、屋内に突風が吹き始め、台風じみた風速がレイたちを殴りつける。
突風が天狗を中心に渦巻く。
これは単なる風ではない、思念力に由来を持った確かなエネルギーだ。
レイは吹き飛ばされぬよう踏ん張りながら、万一に備えてボーガンを構えた。
勝てぬとも、やる他にはない。
「来るかッ……?!」
力は旋風と化して、力場じみたエネルギーの塊が明白な螺旋を描く。
よもや予想だにできない状況を前に、レイは渦巻く力に吹き飛ばされないようにするのが精一杯だった。
レイの目にさえもその姿は映らない。あるのは確かに不確かな揺らぐ空間だけだ。
そして、収縮。
旋風が収まり、圧が消える。
気がつけば、そいつは姿を消していた。
「何が起こって……」
当惑の中、レイが溢した言葉に応じる者はいない。
竜巻は去り、静粛だけが残されて、ただ、勘崎の微かな息だけがレイの耳に届く。
少年は佐藤が床にぶち抜いた穴に足をかけ、地下へ飛び降りた。
降下してグッと重力のかかる感覚を、レイは恐れることはない。
しかし、翼を失った今、今後は恐れるべきだろう。
微かな電光の灯りの照らす穴の中、発破されたコンクリートの地盤だけが続く。そうして、薄闇のトンネルを抜けた先、地下一階のほとんどは、変わらぬ有様に見えた。
頭のくだけたワイヤ使い、橋本だった物。横っ腹に大穴を空けられた佐藤、瓦礫の降りかかった、パイプ椅子に絡みつかれた乗山だった物。
だが、確かに変わったのは、饒舌に不快なゴキブリの怪異生物の頭部の──砕けたもの──そして、封鎖された扉側に、生きた男が一人。
レイのボーガンを持つ手が僅かに力んだ。
「誰だ」
レイが、着地と同時にボーガンを構える。
「おっと……君は、羽黒レイか」
男はチラと背後のレイを視認すれば、両の手を上げながら、ゆっくりと振り向いた。
眼鏡をかけた、30代半ばかもう少し老けて見える男だ。
オフィスにでもいるようなシャツにベストというような服装だが、シャツの袖を捲り、瓦礫から出た鉄パイプを握りしめていた。
レイがボーガンで即席の武器を指して捨てるよう促せば、彼は大人しく従って鉄パイプをゆっくりと手放した。
「僕は知らないな」
「医者だ、少なくとも敵じゃ……おい、それ勘崎か、そうだな」
男はレイの言葉に応えれば、その背中に背負われた異形に気がつく。そして、彼は得物を向けられていることにも構わず、レイに数歩歩み寄って、確かに勘崎を見た。
「……彼が地下に連れて行けと」
レイが眉を顰めた。彼は食事の際には見なかった。しかし、佐藤らが何か会話で他に誰かいるような、あるいはそんなことを微かに記憶していた。
「君はどうしたいんだ、要求は?」
医者を名乗る男は勘崎とレイの目とを交互に見て問いかけた。
勘崎は瀕死、男は──恐らく、歪に閉鎖された金属扉をこじ開けることも、穴を登ることもできない彼は──丸腰で隙だらけ。
しかし、どうやってここに現れたのやら、不信極まりない。
殺すには容易く、レイにその理由はある。
「彼を死なせたくない」
レイは、淀みなく答える。
「信じよう、着いて来い」
医者を名乗る男は扉とは真逆の壁に向かって早足に歩き始め、レイはその数歩、後を追う。もちろん、ボーガンは医者の背中を睨みつけている。
「上にいた他の者は?」
男がレイに問いかける。しかし、少年は医者を名乗る男を追いながら、ただ首を横に振った。
「六島め、見誤ったな」
医者はふと呟けば、たどり着いた壁を蹴りつけると同時に迷いなく壁に突っ込むように歩を進める。だが、間抜けな犬のように壁に衝突する羽目にはならない。
それは、蹴りつけた壁が、ガチャンと音を立てて回転扉のよう壁がぐるりと回転し、その先には薄暗い通路があるからだ。
古典的な隠し扉である。
「……なぜ、出てこなかったんです」
レイが隠し扉の前で問いかけた。
「私は特殊体質者じゃない、足を引っ張ることならできたがね」
医者が肩を竦めた。彼の態度はつまり殺し合いでは全く無力でその主導権なくただ状況に適応している者のそれであり、彼に選択肢はなかったわけだ。
「そうですか。なら、あの怪異生物は、貴方が?」
レイには、ワイヤ使いのハシモトが持ち込んだあの醜悪な怪物を殺した記憶はない。
そんな暇はなかったし、誰かが直接殺したこともないはずだ。
「いや、天狗の仕業だな」
男が薄暗い通路に入りながら答える。
「まさか、怪異生物と取引を?」
「さあな。だが、その割にはこのザマだ」
レイの問いに、男は皮肉めいた口調でぼやいたのだった。




