第四十三話 飛翔
佐藤が「下」へ向かってから、二十と数秒を経た頃のこと。
山荘の地上、一階。そこに生き物の気配はなかった。そこにあるのは、ただ揺るぎない悪意により散乱した肉塊だけだ。そして、そこに時折、山荘を解体でもしそうな轟音が響く。
そんな一階から、生き物の気配を辿れば、そこには手すりの壊れた階段が辛うじて機能を維持していて、その先の二階廊下では、鋏・尾・黒褐色の甲殻を持った異形が、辛うじてその機能を維持していた。
──勘崎は今、山荘の暖かみのある手触りを実現する木製の壁に、その背面から沈み込むように体を突っ込んでいた。だが、彼には別にそういう習慣はない。
勘崎が力強く素早く壁から脱すると、バラバラと割れた木材が床に散らばり、壁には大きな窪みができあがった。
「ッ……」
勘崎は健康的な生活と裏腹に、ひどく体の調子が悪かった。右腕の骨が軋むような痛みを発し、視界がグラグラと揺らぐ。
しかし、揺らぐ視界であろうとも、厄介な現実は変わってくれない。
そこには相手取るべき難敵──キリギリスとカブトムシの二人──が、勘崎のもう六、七メートル先に、すぐさまに襲い掛かってくるだろう殺気を携えているのが映る。
そう、痛みと眩暈の原因は彼の食生活や入眠時間の問題ではない。
それは、つい五秒ほど前にキリギリスの蹴りを右腕で受け、カブトムシの拳を頭に喰らったのが原因だ。
勘崎はタフネスならば、一般的な特殊体質者を──特殊体質者に一般的というのも可笑しいが──ともかく、黒褐色の甲殻を纏うその異形はそれなりにタフネスには自信があったのだが、しかし、相手が悪かった。
勘崎に立ちはだかる両者は、十分に訓練を受けていて、人を殺す事に躊躇がなかった。
「……長すぎたか」
勘崎は一分持たせることを佐藤に了承したことを、少々軽率だったと苦笑する。
「早いとこ潰すぞ」
カブトムシの甲殻は、勘崎には硬すぎた。
蹴りも拳もまともに通らず、それでいて筋力もあって打たれ強いものだから逃げ腰での打撃技は有効打にならない。
「ああ、わかってる」
そして、キリギリスの脚力による蹴りは勘崎には、あまりに速く、あまりに重い。
一度蹴りを受けた右腕の甲殻は歪み、骨に罅が入ったほどだ。もろに受ければ異形とてただでは済まないだろう。
「……」
勘崎は静かに構えた。
先ほどの防戦一方な攻防にて、彼が意識を落とさずに済んだのは──先ほどから階下から感じる強烈な爆音──交戦中の佐藤の能力のおかげだ。
佐藤が下に向かった際、二人の異形は勘崎をすぐさま倒すことを選択した。
既に異能組合のほとんどがやられている現状では、正しい選択だ。
佐藤相手に安直に追うのは反撃の可能性が高く危険。そこで特殊な逆転要素の乏しい異形を地力勝負で倒し、あとは能力の割れた佐藤を二対一で押し込む。
勘崎を素早く倒せば勝ちは揺るがず、仲間がやられても、数の利は維持して佐藤を相手に二対一で勝負する。
勝算は相手が遥かに高く、勘崎らはその逆だった。だからこそ両者の攻撃は苛烈で──同時に焦りも垣間見えた。
「…下の、異形じゃないな」
ポツリと勘崎が呟いた。その言葉を聞き、敵がピクリと反応する。
「なぜわかる」
ビートルが問うた。
「…見たままだ」
時を稼ぐのが、勘崎の目的である。これ僥倖と男は答えた。
しかし、返事はない。
その手には乗るまいと、キリギリスが強烈な飛び蹴りを勘崎にぶち込んだからだ。
「!」
キリギリスが、その複眼を見開く。
煙をあげるほどの威力の蹴りだが、倒れるはずの勘崎は、確かに両の足で立っていた。
あろうことか、そこではキリギリスの剛脚が鋏で正確に捕らえられていた。
「……仲間意識か」
それは最も持つべきものであるが、同時に対等な狩人同士の戦いでは最も気取られてはならないものである。自らを駆り立てるものの正体を気取られることほど、危険なことはない。それが、浮足立った勝ち戦ならば、尚更だ。
窮鼠は猫の隙を伺うものだ。そして、それが鼠である確証などない。
ギリギリという音が、木製の壁や床に反響する。それは万力のように鋏を占める音である。
それに合わせて、キリギリスの悲鳴がデュエットを奏でる。それは「ギャアアアアアアアアアアア」とも何とも文字では表現しがたい音をしていた。少なくとも、壮絶な、心底からの苦悶の叫びには違いない。
「こいつッ」
焦ったカブトムシが咄嗟に近づこうとするが、勘崎が捕えたキリギリスを盾にするように振り回せば、彼は仲間に邪魔されて近づけない。
狭い室内ならば、大柄な異形の動きは尚更に鈍る。
だが、キリギリスもやられるだけではなかった。
強烈な身体能力と筋力で以てして、幾度も幾度も地面を踏みしめるように、自由な脚で以って蹴りを破壊的な蹴りを、勘崎目掛けて放つ。
万全から放たれる蹴りではない。とはいえ、急所でなくとも、防御していても、ひとたまりもない威力の必死の連打だ。
「ぐッ……」
ドッと、蹴りが一発突き刺されば、勘崎の甲殻が軋み、肉を越えて骨まで響く。
それが幾度も突き刺されば、甲殻がひび割れ、肉が裂け、血が滲む。
強烈な打撃音は、しかしアニメーションのように爽快にはならないものだ、実際に皮と肉と骨で構成されたものを幾度も打った音は、その実鈍くて不快だ。時折、グシャリとでもいうような背筋に悪い効果音が、キリギリスの苦悶の叫びと不協和音を紡ぐ。
だが、勘崎は離さなかった。あろうことか、勘崎は蹴りを何度も受けながら、もう片方の鋏でも忌々しいキリギリスの脚を捕らえた。
ダメージは期待できるが、完全なノーガードになる。
キリギリスの抵抗は、さらに強烈になっていく。
その上で、勘崎は両の鋏で握り込んだ。
「……ッ」
血を流しながら、それでも勘崎は立つ。
勘崎の握力では捕らえはできても流石に千切るのは難しく、命には届かない。
それより先に、蹴りで勘崎の倒れる方が先だ。
それでも──まず楽には死ねなくとも──勘崎はチャンスの無い二対一に期待してやり込められ続けるより、こちらの方が数秒長く稼げると踏んだのだ。
山荘に打撃音の連打が響いた後、それ相応の質量の物体が壁に衝突しただろう音が響いた。
下の階から鳴っていた爆発音ともまた異なる鈍さを伴った衝撃だ。
「……ご……う…」
絶え絶えに息を吐きながら、勘崎は今壁に身を預けていた。
そうすることで、辛うじて立っていたのだ。
彼は自らの体表を血が流れる感覚を認め、じっと敵を見つめた。
「ハァッー…ハァッー……」
そこには、荒い息を吐くキリギリスがいた。
キリギリスの犯した僅かであり致死的なミスに、勘崎が突け込んだあの一瞬から、どれだけの時間が経ったのか。痛みと共にある時間ほど、遠大な瞬間はない。
「ッ、こいつ……」
キリギリスの憎々し気な視線が、勘崎を捉えた。
勘崎にはどうでもよかった。地面が僅かに揺れた。
それは一手遅れながらも、カブトムシが猛然とこちらに迫るために床を蹴る振動が床を伝って壁越しにまで感じているのだ。
これは、少々困ったが。しかし、どうしようもなかった。
「五十……九……秒……」
遠大な時間の中、勘崎がうつむく。
階下に至る突貫で作った穴は、いつの間にか眼前にあった。
その奥底の様子は見えない。だが、途中で何度か下より感じた「爆発」に彼は安堵する。
少なくとも、仕事は済んだわけだ。
「すぐに、下だ」
カブトムシが拳を振り上げた。
そのまま、勘崎の頭を目掛けて撃ち抜こうというその時だった。
「!?」
春の爽やかな空気が訪れたように、それは明白に現れた。
ただし、それはそよ風ではない。
春雷だ。
「貴様はッ……!」
キリギリスが叫び。全員が、目を見開いた。
穴の底から飛び出したのは羽黒レイだ。
翼がなくとも、人は飛べる。まあ、跳べるともいうが。
なんであれ、少し登ればレイには容易い高さである。
「喰らえエエエエッ!」
ドンッと硬く重いものを叩きつけた音が響く。
飛び出した勢いでの蹴りがカブトムシの腹にねじ込まれた音だ。
「やったな、橋本を!」
カブトムシは思わず仲間の名を叫ぶ。
さすがは甲虫の異形。蹴りに怯みながらも踏ん張って、カブトムシは反撃しようと構えるが──。
「これ以上、やらせはしない……!」
羽黒レイが吼えれば、手に持った得物の切っ先を押し付ける。
「何ッ!?」
それは対特殊体質者及び怪異生物用の、火薬式ボーガンである
それを目にして甲虫の異形が声を上げる。
それと同時に、ズガッとでもいう爆音が鳴った。
確かに羽黒レイの手に発射の反動の感覚が伝わり、痛恨のゼロ距離射撃にカブトムシがくだりの階段まで吹っ飛んで、騒々しく転げ落ちていく。
「……この程度で死ねはしない」
レイが呟いた。
訓練などでそれなりに体験する加減の効くその手で殴るのと、引き金を引くでは心理的なハードルが異なる。しかし、蹴った時の岩を蹴ったような感覚のために、レイは寧ろ、躊躇なく引き金を引けた。
あまりに、そいつは硬かったのだ。
「……ッ」
キリギリスが足を引きずりながらも、その隙を見て飛びかかる。
だが、その相手はレイではない。──狙いは満身創痍の、勘崎だ。
脚力自慢の異形なら、健全な片足一本で命を奪うことなど容易い。
それは、常識ではありえない動き。片足で跳ねて、同じ足で蹴るという曲芸じみた、しかし確かに致死的な跳び蹴り──それが勘崎の頭をぶち抜こうと狙い定めて放たれる。
──しかし、その前にレイが立ちはだかった。
彼は、瞬時に照準の間に合わないボーガンを手離しながら勘崎の前に躍り出る。
そして、その致死的な蹴りに立ち向かうように、構えていた。
「なッ──」
それを見たキリギリスは思わず声を上げた。
「ッ」
レイは蹴りを睨む、猛禽の瞳がそれを捉える。
彼は横から振り上げるような蹴りの力に逆らわない、構えた腕の肘を的確にぶつければ──その軌道が変わる。
それは一種の柔術や合気道に似る動きだ。もちろん、全ての勢いを殺しきるわけではない。
その証拠に彼の両の足は確かに大地を頼りとして、ぐっと踏ん張っていた。
その頃、空ぶった蹴りの勢いのためにキリギリスは宙で一回転する。レイの微かな隙を突くべく駆動すべきキリギリスのもう片足は、今は動かず、それどころかその刹那、振り回されるままに宙を漂っていた。
そして、それは羽黒レイが渾身に握りこぶしを腰だめに構えるには十分過ぎた。
「しまっ──」
最後の「た」を発音する暇なく、キリギリスが表情を歪めながら吹っ飛んだ。
その後には僅かに震える拳を確かに強く握りしめ、渾身の一撃を振り切った少年の姿があった。
……そして、周りを警戒しながら彼は未だに震える手で素早くボーガンを拾い、その重みに震えを預けるのだった。
程なくして、そこで満身創痍の異形の、うめき声が響いた。
それに気づいて、思い出したかのようにレイが駆け寄った。
「勘崎さん、他に敵は……」
「…あの二人しか俺は……佐藤は?」
勘崎がレイに掠れ声で問うた。
しかし、レイは首を小さく横に振った。
「そうか……だが、なぜ、俺を助けた……奴を殺せるチャンスでもあった……」
血みどろの異形が問うた。
「佐藤さんが、勘崎さんに逃げろと伝えてくれと」
しかし、羽黒レイにその選択肢は初めからなかった。
まっすぐな眼で勘崎を見やって、伝えるべきを伝えた。
「……助けろとは、言って……そんな義理は…………」
苦悶を耐え忍んだ男は、しかし問う。
理解しがたいものを見たように、その目は命の恩人に向けるにはあまりにも当惑に満ちていた。
「けど、殺す義理もない」
もしもこれが平時ならば、彼は静かに寂しく思っただろう。
それは実に勝手な感傷で、あまりに一方的な理性だ。けれども、人の想いが一方的でない瞬間などあるだろうか?
仮にあるとすれば、それは幸運で、大抵の好意とは片思いなものなのだ。
「それに──」
いつかどこかで助ける義理のない、ほとんど話もしない級友を助けるために体を張った少年がいた。
彼ならばこんな時どう決めてくれるだろう?
「──そういうのには借りがある」
なんて、言うだろうか。
どこか寂し気に、レイは言った。




