第四十二話 来る不幸に拳構えて
「クソ、手こずってるな」
ワイヤ使いの男の舌打ちが地下室に響いた。
「……っ」
そんな男を羽黒レイは見上げていた。
レイはついこの前から怪我人だが、慮られるどころか強固なワイヤでぐるぐる巻きにされていた。
異能組合が佐藤らなのであれば、このワイヤ使いは恐らく別の組織である。
なかなか、格好のつかない有様だ、攫われた先でさらに攫われるなど笑えない。
『これじゃ誘拐のギネス世界記録だ』──なんて、きっと友人ならレイを助けてから心無い冗談を飛ばすだろう……少なくとも、羽黒レイは今そんなことを心に浮かばせなければ、冷静さを保てないほど精神的に困難な状況であることには違いない。
しかし、心底からは希望を捨てていなかった。だが、諦めもあった。
希望を捨てなくてもワイヤは切れないし、佐藤の読んだ新聞が正しければ彼は死亡している。
半分は、折れていた。それでもレイは意志だけは確かに、機会を待っていた。
知りえないとは残酷だ、希望一つも捨てられないのだから。
そんなレイの諦めていない目が、優勢なワイヤ使いの襲撃者は苛立たせているのか。あるいは、ガード越しに貰った一発がまだ痛むのか。
上で何が起きているのかわからない不安をかきたてられたように、ワイヤ使いは神経質そうに靴を履いた片足で冷たい床をコツコツと踏み鳴らす。
静かだった。
だが、『それ』は恐らくレイにとっても、新たな誘拐犯にとってもずっと早くに起こった。
ワイヤ使いの舌打ちから数秒後のことだった。
文字通りに部屋が揺れ、バアーンという強烈な爆発音が地下室の静粛を破った。
そのまま地層の奥深くに沈んでしまいそうな威力の振動が突き抜けていった。
爆発は、ここでない。だが、かなり近い。
「なんだ!?」
さしもの男も怯み、レイは目を見開く。
爆発はこの一度ではない。男が声を上げた直後にも、バアーン、バアーンと起こっている。しかも──あまりに轟音なので気が付くのは難しいが──その爆発は、この地下室へと近づいていた。
鼓膜が無事である幸運の分、工事現場の二時間分の騒音が二人の頭の中まで鳴り響く。
そして、二人のどちらかが動くよりも早くに、天井にどでかい穴が空いた。
上から何かが降る。
「歓迎だ、馬鹿野郎」
そいつは瓦礫と共に落下しながら、一言そう吐き捨てる。
そして、彼の構えた得物は、能力か何かで相手の位置をハナからわかっていたかのように、既に睨むべき相手を睨んでいた。
ボーガンが火薬の衝撃にチカと瞬き、ドカッと爆薬が炸裂する音が響いて、矢は風切り音を慎ましく歌った。
「!──」
ワイヤ使いが目を見開く。豪速で迫る矢は、叩き落すには速過ぎた。
しかし、男は何も用意していないほど不用心ではない。手早く盾になるのは、ドームのようにぴんと張られたワイヤで編まれた布だ。
──結論から言えば、それは両者にとって期待できる結果にならなかった。
矢の勢いはすさまじく、事前に間に合わせで編んだ程度では盾としては厚みが足りず、貫通して、しかし、薄く硬い盾との衝撃のはずみで矢の狙いは急所から逸れる。
そして矢は見事にワイヤ使いの右前腕をぶち抜く。
皮を引き裂き肉をえぐり鮮血を飛び散らせながら深々と骨に食いついて、男をコンクリート壁に打ち付ける。
瓦礫が床に落下すれば、砂埃が舞い上がる。
佐藤はそのさなかに飛び込むように落ちてしまえば、敵手どもにとり、互いの姿形すら定かでなくなる。
「終わりだ」
佐藤は落ちると同時かそれよりもわずか先に指先をワイヤ使いの方向に突き出す、そうして明確な殺意を以て、そうあれと叫ぶ。
瞬間、ドッという轟音が響いた。
その威力は、先ほどから部屋の天井側から感じてきたものとは桁が違う。より直接的な地面の、壁の、空気の振動がレイの骨身を震わせて、臓物が確かに体内にあることをその振動が示す。
間違いなく、直撃を受ければ死ぬ。バラバラに吹き飛ぶ威力。
そして、それは男を縫い留めた矢、それ自体の爆発によって起きていた。
「……羽黒、無事だな。今、上に──」
佐藤は近くの羽黒レイに歩み寄れば、焦った様子で何か言いかけた。
その時だった。
次の瞬間、鮮血が飛び散る。
滴る血液は、艶やかな鈍い輝きに混じり、ただ冷ややかにそこに在った。
幾本もの悪意が、確かに佐藤の横っ腹を抉っていた。
「……く、そ……」
ボタボタと血が床に流れ落ち、落ちたボーガンのガチャンという重々しい金属音が鳴る
男がうめき声をあげながら、レイにすがりつくようにして、力なく跪いた。
それもつかの間、彼は力なく地面に倒れ伏した。
「!……」
佐藤を貫いた鋼線が、戻っていく。
それに従ってレイが振り返れば、土煙の中、鋼線を辿る先に佇むものを確かに見つけた。
爆発で粉々に吹き飛んだはずの男が、しかし確かにそこにいるではないか。
「……渡さない……絶対に……」
鋼線を辿る先で這いずる男は、確かに爆発を受けていた。
背面から右半身は吹き飛んだ瓦礫が突き刺さり、焼け焦げた体は赤黒く、頭から流れる出血といい、明らかに生死を左右する重傷と見える。
その上、右腕の肘から先を失い、その腕は傷口を鋼線が縫い留めていて火傷のような傷跡もない。
ただ、傷口を縫い留めてなお余る長々とした鋼線の先は、彼ではなく、佐藤の血に濡れていた。
「……」
レイは目を見開いた。
ワイヤ使いはあの一瞬のうちに片腕を自ら切り落とし、間一髪で爆発の直撃を避け、大量の出血を鋼線で縫い留め──ほんの数分、死を免れたのだ。
火傷のような跡がないのは、傷を庇いながら爆心地から離れたからだろう。
「二重体質者……」
しかめ面のワイヤ使いが呻きながらレイを見上げ、レイはワイヤ使いを見つめた。
必然的に二人の目が、合った。
男がレイをそうしたかは知らないが、レイの瞳は男を覗き込んだ。
その目を染めるのは憎悪に満ちた敵愾心でも、死への恐怖でもなかった。ただ、目の前の問題──羽黒レイ──をどうしてやろうかと、痛みに耐えながら、頭を悩ませているようだった。
「……やめだ」
ワイヤ使いが呟いた。
『やめだ』と、確かにそう言った。
しかし、その目にはまだ動く意思が宿っていた。寧ろ、今にも動き出さんばかりの闘志すら──。
「!?」
レイが「あっ」と声をあげるのもつかの間、バランスを崩したように地面に片膝をついた。
それは、レイを拘束するワイヤが急に重くなったからだ。加えて、そのワイヤは最後の力を振り絞らんばかりに、レイの胴体を締め上げ始めた。
体の自由の奪われたレイが睨んだ先、男の目は静かで、そしてもうレイの目など見ていなかった。
男の残っていない方の腕の傷口を結ぶワイヤの、余った部分が僅かに震えれば、鋼線を温かく湿らせていた佐藤の血が降り落とされた。
その鋭利な先端は間違いなく、レイの喉元を睨みつけていた。
レイが刃を睨み返す。目を逸らしはしなかった。
恐怖はあったが、それよりも、動き出そうと必死に藻掻いて、やはりなす術はない。
そして刃は走り出す。冷徹な視線と共に、レイを貫くために。
「こんな…」
レイは、それでも藻搔く。眼前に迫る死を直視していても。
勝利に必要なのは、どんな偶然でも揺るぎない状況を作るか、あるいは──どんな必然も打ち崩す偶然を生み出すことである。
「ところでッ……!?」
その刹那、爆音が響いた。それは──レイを拘束する鋼線が爆ぜた音だ。
転ぶくらいの勢いで前進して、刃が頬を掠めた。
想定外のそれに藻搔いていたレイは前につんのめったが、外側に向いた爆発の指向性は、レイを傷つけるどころか、前進させる助けになった。
そして、少年は敵前に立った。
「な……なんだ……」
驚き声をあげた男の前に、少年が立つ。
男が驚いたのは、脱出されたからに非ず。脱出に至るまでの過程だ。ただの一瞬も、最後の瞬間まで、悪足搔きではなく、心の底から全力を振り絞り、生にしがみついたからだ。
「その、目は……」
男は、今まさに目の前にいる標的が『一般的な感性を持ち合わせた少年』故に、『成績優秀』でもさしたる脅威でないという情報くらい得ていた。腕力こそあれ、恐れるべき難敵ではない。
殺人経験のない人間の、初めての実戦だ。例え本気でも、どんな人間でも初めては絶対にブレーキがかかるものだ。だから、大して怖くない。
「……」
だからこそ、男は彼のひどく穏やかな瞳に驚愕した。
ただ、死を眼前としていたにしてはあまりにまっすぐで、敵を視るにはあまりに慈悲深く、それでいて一切の隙はなく、そして、ほんのひと匙ほどの躊躇いもない。
「貴方を、殺す」
しかし、忘れてはならない。
本来、まともな人間とは、正当なる防衛を行使する勇気のない臆病者とは違う。
それは、その謂れを背負う覚悟のある者であり、生き抜く者のことを呼ぶ。
そして、動物としてのヒトが生まれ持つ暴力性を理性で以って正当に制御できる人間がいるとすれば……。
それこそがヒーローと呼ぶべきものだ。
レイが拳を振るえば、グシャッと腕力自慢がリンゴか何かを砕いたような音が響いた。
ヌルとした血と脂が手にこびり付いて、不快な感覚が彼にこびりついた。
「……思った通り、嫌だな」
決着を付けた拳は、重かった。
「……佐藤さん……」
レイが佐藤に駆け寄る。
彼は血まみれで床に倒れ伏していて、もう、出血量からして助かりそうになかったし、寧ろ、死んでいる方が自然な有様だった。
しかし、それほどの重症でも佐藤は鋼線に貫かれたあの瞬間、レイの拘束を壊すために彼にしがみつき、そして意志の力だけでレイを解放したのだ。
その目的がなんであれ。それは、レイにとって都合が良い幸運だった。
「……上に、異形……二人……」
佐藤は静かに、そして一方的に情報を語った。
「勘崎が……生きて…ら、逃げろって……伝え……」
そう言いかけて、佐藤は血を吐いて動かなくなった。
「次会った時は、下の名前くらい教えてください」
襲撃者や佐藤の、死んででもやるべきこととやらが何なのか。
レイには残念ながら標的という以外ではまるで関係のないことだったし、その目的も背景も何も知らなかった。
渦中にいながら、蚊帳の外という奇妙な状態。犯罪者の馬鹿馬鹿しい殺し合いに巻き込まれただけの、被害者だ。
そして、そんな被害者を誰かが助けてくれるほどツイてないようだった。
だが、戦い方は知っていた。
だから、レイは佐藤の落としたボーガンを拾いあげた。




