第四十話 追跡者
羽黒レイの扱いは、想像とはまるで違った。
シャワーも、トイレも、見張りが付いてくるが自由だ。使用感の無い風呂場は広々としていて、数日ぶりのシャワーは格別だった。
新品らしきシャンプー、リンス、普段は使うものよりも幾らか値の張るものだ。
歯ブラシに歯磨き粉、フロス、剃刀にクリーム。準備の良さにレイは感心した。
そして、剃刀をも使わせる辺り、彼らはよっぽどレイを逃さない自信と根拠があるのだろう。
それに、今のレイに逃げ切る自信はなかった。普通に考えて能力で何か対策しているのだろうし、体の調子も万全ではない。
交渉も含めて、助けを待つのが現実的だ。
「……現実、なんだよね」
洗面台の鏡を見つめて、レイは上裸のまま呟いた。だが、鏡に問うまでもない。
その上体には事件の時の生々しい傷跡が残っているのだから。
そして、彼は身体をねじりながら自らの背中を見た。
鏡に映る背中には、翼はない。翼の生えていたはずの場所には痛々しい傷跡だけが残っている。
それからレイは人生で初めて、パーカーを着た。
普通の服、普通の姿。鏡で見てみると、これまでの唯一無二のシルエットはどこにもない。もし町を歩いているとして、レイをレイと気がつく知り合いがどれほどいるだろうか?……そもそも生きて帰れる保証などどこにもないのに、そんなことが気がかりだった。
その後、佐藤に呼ばれ、羽黒レイは浮かない顔つきで階段を登った。
冷ややかな電灯の照らす階段を少し登れば、景色が変わる。空気の温度も肌でわかる範囲で異なる。
上階の方が暖かく、そして、その光が暖かい。
あたたかみのあるのは、窓から差し込む日光のためである。
地上階に出たようだ。さっきまでいたのは地下室だろう。
レイは周りを見渡す。
高い天井、広々とした部屋、食欲をそそる何かの料理の匂いが充満する。
窓の外には自然が広がる。外に車が通りそうな様子もない。
携帯電話は電波が繋がるだろうか、微妙なものだ。出たところで逃げるのはほとんど難しい。
恐らく、ここはどこかの山荘。だが、場所は──見当もつかない。
「……」
そして、そんな部屋には佐藤とその他に屈強な男が三人と異形の恐らく体格からして男が一人。
計五人、各々がソファや椅子で寛いでいた。
彼らは皆、地上階に来たレイに一瞬視線を向けるが──それだけで、各々が元々していたであろう会話に戻る。
「どうも」
レイが軽く挨拶すれば、待っていた佐藤が声をかける。
「飯だ、食うか?」
佐藤はどこまでもフラットな態度だった。柔らかくも硬くもない自然体な表情と仕草で、まるで担任の教師にでも錯覚してしまう。
犬相手にでも仇敵相手にもこんな風に話しかけそうな、水道水のように色がなく、コピー用紙のように臭いの無い男だ。
「はい、いただきます」
レイも相手の事を信用してはいない。
だが、危害を加えるつもりならとっくに加えているはずで、人質にしては扱いが丁重過ぎる。
目的が全く見えないというのが、レイの正直な所だ。
男たちは二十代から四十代と広い年齢幅で、全員レイより一回り以上年上だった。中には異形の男もいる。
そして、レイは彼らと同じ鍋から全く同じビーフシチューと、そして同じバゲットから切り分けたパンを、同じ食卓を囲んで食事をした。
彼らはレイを自然と迎えていた。少なくとも、この食卓に異論を唱える者はいなかった。そして、敢えてレイのことを話題にあげる者もいなかった。
いいや、言及を避けているというのが、彼らの実際だろうか。
「そのうち六島さんが戻る」
佐藤は、異形の男と親し気に話していた。
「そうか。ドクは?」
異形は無口で、あまり多くを話さない。必要なことを淡々と語る、寡黙なタイプらしい。
顔も異形であるがゆえに、年齢はその容姿からわからない。
ガタイがよく、黒褐色の甲殻に両手は鋏のような大きな鋏じみた手で器用に食事を取っている。長い尾からみて──彼は、サソリの異形に見える。そういう異形だろう。
レイは異形など慣れっこの環境で過ごしてきたし、今はそうは見えないがレイ自身も異形である。なので、彼が異形であることに生理的嫌悪感はなかった。
「ああ、後で声をかけておく」
彼らの会話にレイの状況を推理するのに役立ちそうな情報はなかった。いいや、あるとしても断片的すぎてそうとわからないのが実情だ。
そんなことよりも、レイは空腹だったので夢中でビーフシチューを食べていた──当然だ。食べ盛りの十八歳である。
それに、このビーフシチューがやたらと美味だった。
牛肉は食べた途端ほろほろと崩れ落ちそうなほど煮込んであり、赤ワインの芳醇な香りと具材の旨味が調和した味付けは濃厚でいて、脂っこさや味の濃さを感じさせることもない、寧ろほっと身体に馴染むようで安心すらできる。
食べていると飽きるどころか、減ってしまうのが惜しい。
これが、各自の大皿になみなみと気取らず盛り付けられている。
当然、全員が実に美味そうに食べていた。
「あの……佐藤さん、おかわりしてもいいですか」
会話がないので、周りより一つ早く食べ終えたレイが、恐る恐る問いかけた。
「美味かったか」
佐藤が問うた。
「はい、美味しかったです」
微かな緊張感の中、レイは答えた。
「どう美味いと思った」
周りの会話の飛び交う中、佐藤が問う。
「えっと……多分、野菜を溶けるまで煮込んでこしてるみたいで、その旨みが赤ワインの香りとも調和してる、香りも赤ワインだけじゃない……香草なんかで丁寧に整えられてる感じがする……こんな丁寧なビーフシチューはそうそう食べられない。すごく美味しいです」
レイは、料理がそれなりにわかるし、嫌いではない。時にはそれなりに手間をかけたものを作りもする。
しかし、ここまで凝ったものは中々作れないものだと、彼は思うままの感想を率直に伝えた。
「そうか。おい、乗山。入れてやれ。パンもつけてやれ」
一番若い男に、佐藤が指示した。
「どれくらい食べます」
「じゃ、じゃあ……なみなみお願いします、バゲットも五枚お願いします」
乗山は景気よく、ビーフシチューを皿のなみなみに入れてくれた。
レイはこれを味わいながらも、最後はパンで器を拭うようにして文字通り平らげた。
食後、レイは乗山に案内されて、もう一度地下の部屋に戻ることになった。さすがに、外出まではできないようだ。
階段を降りる前に、レイは佐藤に呼び止められた。
「羽黒」
「は、はい。なんですか」
「持っていけ」
佐藤が、漫画本とグラビア雑誌をレイに押し付けた。
これは、退屈凌ぎには都合がいい。
「ありがとうございます」
「それから……」
次に佐藤はコインを取り出せば、上へ放り投げた。
「?……」
レイがそれを思わず、目で追う。
そして──次の瞬間、そのコインが宙で小さく煌めいた。そして、爆発音が響いた。
熱と衝撃が彼らの頭上で暴れ回る内に、佐藤は変わらない様子で言った。
「そのまま、大人しくしていろ」
落下するコインを掴み取れば、内側から破裂したように大きな口を開けた金属片になり果てたそれを、佐藤が翳した。
爆発させる能力……それを持つ佐藤は理性的で紳士的。しかし、甘い男ではないということだ。
「……そのつもりです」
あらゆる能力は思念力を基とする。だからこそ、人間……特に特殊体質者を相手にも同様に使えるのかは不明だ。
佐藤の能力が果たしてレイに有効なのか、ブラフなのかは試せばその時にわかる。
その後、レイは階段を降りて地下へ向かった。
途中、階段で乗山がレイに話しかけた。
「あのビーフシチュー、めちゃくちゃ美味かったでしょ」
「はい、すごく美味しかったです」
乗山に言われて、レイは頷いた。
「実はあれ、佐藤さんが作ったんだ。あの人、料理が趣味でな。それに、料理だけじゃない、一流のものに触れろっていつも言ってる。いいものがわからない奴は出世させられないってね。だから、こうやって勉強させてくれる」
乗山は自身の先輩のことを頗る自慢げに話した。
「素敵な人ですね」
とにかく、ここでの時間は頗る奇妙だ。軟禁されているのに、高級レストランで食べるような食事が提供される。
レイは乗山に監視されながら──監視と言っても、乗山はパイプ椅子に座っているだけだし、レイの行動はかなり自由がきくが──漫画本や雑誌を読んで時間を潰していた。
だが、時折、無い翼が痛むので、乗山に言って手鏡を持ってきてもらった。
何に使うのかと乗山は不思議がったが、レイは手鏡を使って背中を見つめて翼がないことを見て視認し続けた。
こうやって現実を確かにこの目で視ることで、脳が無い部位の痛みを告げることを辞めさせるためだ。
レイは変哲の無い普通の背中を見つめながら、思考した。
襲撃の際、黒翼の辺りも負傷したはずだ。恐らく、黒翼を切除したのは治療の折であろう。
だが、異形の部位を治すのに対処方法がなかったのか、困難な状況だったのか、あるいは飛行能力まであると軟禁が面倒だから切除したのか、それらの両方なのかはわからない。
第一、なぜ自身が狙われたのか?事件はそもそもなぜ起きたのか──わからないことは沢山あったが、わかることはまるでなかった。
だが、経過は最悪ではない。向こうに敵意らしい敵意がなく、話も通じそうである。
もちろん、希望的観測ばかりしていられないが。
レイは手鏡を下した。
ちらと視線を乗山の方へ移す。
「……乗山さん?」
そこに乗山はいなかった。
しかし、三十分も経過していない。交代の時間にしては早すぎる。
いつの間にか部屋を出たのか。
否、部屋の扉が開閉された気配はない。ゆえに、違う──とレイは直感して、本能的に息を殺した。
彼は静かに足音を密かにベッドから降り、部屋をまっすぐ進んだ。
外を伺おうと、金属扉に手を伸ばす──。
そこで、レイは手を止めた。
違和感の正体は、乗山がいないだけでも、扉を開閉された気配もないだけではない。
否、それだけならば、つい集中していて気が付かなかったで済むはずだ。
「──妙だ」
なのに、レイは異様に違和を感じていた。
それは、そこに置いてあったはずのパイプ椅子もなかったからだ。
部屋に始めからあり、出ていくときにわざわざ持ち運びなどしないはずのものだ。
何かがおかしい。
夢の中で夢を夢と気が付いたのに目覚められないようなときに近い、気色の悪い感覚。
その時はっと、レイが息を吞んだ──レイは違和を感じてから自身の背後を確認していない。
「……」
ごくりと生唾を飲んで、体の震えを抑える。
必要なのはひとさじの勇気であり、こうした予感は信用するべきだ、命の保証がない状況では尚更に。
彼はひとさじの勇気を飲み下せば、意を決して素早く振り返りながら戦闘態勢をとった。
「…………気のせいか……?」
部屋は何の変哲もなかった。
あるのは、ベッドとその上に置かれた読みかけの漫画本、グラビア雑誌に毛布。
あとは電灯の光が作り出した自分の影が壁に映るだけ。
いくら神経が過敏になっていても、さすがに自分の影に驚いて悲鳴をあげたりしない。
よくよく考えれば、この嫌な予感は思い違いで、乗山は能力か何かを使って移動したのかもしれない。
あまりに多くの事が起こり過ぎて、過敏になっているのだ。
そうして、レイがベッドに戻ろうと一歩、踏み出した時だった。
ぴちゃ。
「!」
見当もつかない何かの水分がレイの頬に滴った。それは妙に生暖かく、水と呼ぶにはぬめとした粘性を含む。
レイが、足を止めた。頬に垂れた液体を手で拭う。
ともかく、水道管の問題でないことだけは確かだ。
「はぁっー……はぁっー……」
レイは掌を見て液体が何か確認するような、悠長なことはしない。
彼がゆっくりと後退りながら天井を見上げれば、そこにあるものを、鳥類に並ぶ視力が捉える。
「!?」
天井のパイプに、何かがぶら下がっていた。
一見、奇怪なオブジェのようなそれは、確かにパイプ椅子に挟まれて身体を強引にくの字に折り畳まれた……人間である。
パイプ椅子の本来接地する部分がねじれて巻き付いており、首が真逆の方向に捩じられ、頭から血を流している。
苦悶の表情を浮かべる被害者は、壊れた人形のように力なく吊るされていた。
その被害者は、間違いなくレイを案内した乗山だ。
「何がどうなって……?!」
異常な殺人現場を目撃して吐き気がこみ上げるより先に、レイは身震いした。
犯人はここに確かにいるはずなのに、全く、その気配ひとつしないのだ。
「誰か──」
レイが叫ぼうとした次の瞬間。
その背中に強烈な衝撃が走る。一瞬の無重力の後、レイは床に叩きつけられた。
「……見つけた、回収する」
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血と排泄物、ぶちまけられた腸──新鮮な死体の臭いが部屋に充満する。
ぐちゃぐちゃの二人分の死体の転がる壮絶な殺人現場を足早に進むのは、二人の凶手。
足元まである長いローブを身に纏った、二体の異形。
「異能組合と言っても、所詮この程度か」
重量を感じさせるガタイに、甲虫特有の重厚な甲殻。そして、その中に筋肉の詰まっているのだろうがっしりとした腕に足、そして胴体。異形の顔面に、光る瞳が二つ。頭には昆虫特有の触覚。
そしてもうひとつ。頭に、一本角。
光沢纏った褐色の甲殻。
侵入者の一人は、それは誰もが知る昆虫の王様、力持ちの甲虫、カブトムシの特徴を持つ。
「油断は禁物だ、ビートル。清美様の教えを忘れたか」
もうひとりの異形が、囁いた。
そいつは隣のカブトに負けず劣らず、デカい。カブトムシが少し背の低い力士のような体格ならば、そいつはラガーマンのようなシルエットである。
鮮やかな緑色の体に、昆虫特有の複眼。そして、特に着目すべきはその下半身だ。衣服では隠し切れない、長すぎるほどの脚。そして、発達した筋肉。合う靴のないために剝き出しな昆虫の足。
その姿は、キリギリスという肉食昆虫に似る。
「まさか、油断などしていない。ホッパー」
ビートルが仲間の忠言に応じた。
そしてビートルは面をあげ、階段の側を見上げる。
「──お前たち二人は、もう少し骨が折れそうだ」
そこに立つのは、二人の男。
ひとりは、昆虫か何かの異形。もうひとりは異形ではない。
二人は、静かに相手を見ていた。
「勘崎、準備は」
男が問えば、腕に鋏を持った黒褐色の甲殻の塊が静かに頷いた。
「佐藤こそ」
勘崎の問いに、佐藤は応えなかった。いや、その必要がなかった。




