第三十六話 抱擁して
フラッシュ・サーファーは、戦いを理解している。
相手の能力を冷静に分析し、生ずるはずの隙を確実に突く。あるいは、その隙を作りだす。確実な経験に裏打ちされた実力をその的確な判断能力が担保する。
極寒の殺戮空間でも、最早震えはなかった。感情がそれを凌駕したのだ。
今まさに、短刀を邪魔者の急所に目掛けて叩き込むはずの刹那まで、そうであると自負していたし、確かにその通りだった。
「?………」
その時、倍川は眉を顰めた。
押し込んでいるはずの短刀が、牧野シロに到達しないのだ。
まるで、巨岩でも押しているかのような、あるいはずっと遠く手の届かないものに刃を突き立てているかのような錯覚が、男を惑わせていた。
「…………ああ」
あるはずのものがない、あるいはないはずのものがある。仏に魂が宿っていないような、あるいは蛇に足があるときに誰しもが感じる感覚。
そうだ。
必ず通る攻撃は存在しない。限りなく防がれにくい攻撃が存在するだけだ。それは常に決定的なピースが欠落している推理小説。ページを捲るまで、その真相が明らかにならない。後出しの真実だけがそこに転がっている。
完全なる攻撃は、しかし完了して始めて完全であるか評価に値する。一般常識とは所詮、信用できない語り手に過ぎない。
少なくとも倍川が知っているのは、そんな折には大抵の決着は付いているということで、残りは他愛ない後日談でしかないということだ。
その時、じゃくともじゅくともつかない、肉を刃物が抉るときの独特の感触が走った。
その感覚を彼らは知っている。少なくとも、この学び舎には相応しくないものだ。
倍川が数歩、後退る。
「…………くそ」
体の震えは止まっていたが、しかし男の顔色は青白く、息は浅く早い。その足にはほとんど力がこもっておらず、階段を数歩下る。そして、彼は倒れ込むように壁に身を預けた。
典型的な深刻な低体温症の症状は、既に始まっていた。
それこそが力で勝てず、刃が届かないその真相だ。そして、その有様で牧野シロの確実な反撃を避ける術はなかった。
倍川の胸には、自身が振るった短刀が突き刺さっていた。
だが、流血も痛みもその凍えも男にはどうでもよかった。倍川はまっすぐに仇を睨み、手を伸ばす。
「ああ……」
その全身に満ちる感情を形容する言葉はない。
その時、足音なく忍び寄る人影が、倍川の視界を遮った。
「…………光への変換による自分自身というエネルギーの伝達」
倍川を見下ろすシロは、どこまでも冷静に、用心深く周囲の安全を確認しながらも、倍川にも注意を払っていた。
「だが、百パーセントの効率でエネルギーは伝えられない。能力はそれを思念力で補っていた。普通ならば、低温下でも問題はなかったでしょう」
エネルギーの変換、反射、伝達。それらには必ず散逸する部分が生まれる。
「だが………思念力は思念力に干渉する」
始まりは、溶けかかっていたあの矮小な氷の刃である。
光の吸収率は、色による。わかりやすい話だ。黒ならば光を反射しないので太陽光で温まりやすく、無色透明では光を透過し、温まらない。氷もまた光を反射するために、通常はほとんど温まらないはずだ。
その上、氷に倍川が干渉したのは極一瞬のこと。
なのに、すぐさま溶けだしていたのは何故なのか?そこがミソだった。
「普段の貴方ならば、気が付いていたでしょう」
通常の物理法則との収支を自在に叶える思念力の作用……例えば、倍川は思念力によって熱量は熱量のまま維持しているだとか……なんであれ、冷やす、温めるという関係が成立する可能性が極めて高いと解釈できる。
倍川もまたそれに気が付いていたのならば、恐らくは牧野シロに勝ち目はあっただろうか。確実に言えることは、同じ結果になった可能性は低い事である。
しかし、倍川は気が付かず、シロは気が付いた。
身体能力も含めれば、技術は拮抗している。能力の相性は煩雑だった。
勝負を決定づけたのは、やはり精神的な──。
「………」
倍川から、返答はなかった。
ゆっくりと力なくその手を下したまま、苦しげに俯いていた。
もう、勝負は決していた。
「……」
シロは冷静に、男を真正面から見据えていた。そして、手元に氷柱を紡いだ。
倍川の怒りは正当であり、絶望である。彼の恋人を誰も守ることはできなかったし、彼の事を守る者もいない。それでいて、彼らを殺める咎人は万人と同じ朝日を拝むのだ。
「……ああ……」
眼前の気配に倍川が見上げれば、シロと目が合う。男のまつ毛は凍り付き、その瞳は混濁していた。
男は冷え切った体をぐったりと壁に凭れかけさせながら、ゆっくりと……仇ではなく、彼女に手を伸ばした。
「恨んでください」
牧野シロは一切目をそらすことはない、その視線は確実に急所に狙いを定めて、凶器を握りしめた手がしっかりと構えられる。
人間が復讐しない理由の大半は、復讐が何も生まないからではない。
ただそれを実行するだけの力を持たないからである。人が残酷な過去を受容できるのは、受容せざるを得ないだけである。
対応できる者に、復讐しない理由などない。
「なんだ……そこにいたのか…………」
倍川は毒気の抜けた表情で、彼女に微笑みかけた。
「よかった…………」
心の底から安堵したような顔で倍川は言って、彼女を優しく抱きとめた。
……後に残るのは透明な静粛、どこまでも変わらない学び舎と人の気配だけ。
どこまでも加害者であることが強いことだと人間の持つ心根は認識する、それが生き物だからだ。そんな力の論理は力で押さえつける以外に否定する術はない。それもまた同じ論理、使い古された平行線の議論。
そこに結論はない。だが、真実はある。そして真実は、最後に立つ者が紡ぐ。
なぜ、牧野シロは唇を嚙んで男の死体から目を逸らすことすらできなかったのか。
彼女はなぜ涙を浮かべながら、詠航マコトのもとに駆け寄るのか。
それは、誰も知る必要がない。
地下深くの秘密基地。日本の非公式組織、特務機関Vの一室。
処理部責任者の椅子の上に座るのは鷲律ユラナだ。
彼女は今、任務をやり抜いたエージェントの報告を聞いていた。どんなスリル満点の体験も、報告書形式にすれば味気がない。ぶっ飛んだ任務も伝達事項と無数のタスクに切り分ければ、地道で無茶な作業の連続にしかならない。
映画ほど格好よくはいかないものだ。
「何はともあれ……詠航マコトは一命を取り留めた。追加の刺客も背後に組織もなし。お手柄だったな、牧野」
一通りの報告もまとめて、鷲律が牧野シロに労いの言葉を掛けた。
「……私がもう少し気を配っておくべきでした。けど、ありがとうございます」
二人きりの部屋では、ほっと安堵のため息も吐けない。それでも、シロの表情が少しだけ柔らかくなった。
「相手が相手だ、よく生き残ったものだ……しばらく休むといい」
それから「後はやっておく」と鷲律が付け足した。牧野シロが行ったのは少々の報告だけだが、今日はもう帰ってよいという彼女なりの労いである。
しかし、シロはすぐさま退室しなかった。
「……あの、鷲律さん。彼のことは、はどう報道されるんですか。事件の処理は」
フラッシュ・サーファーは有名人である。そんな彼の関わるこの事件について馬鹿正直に表に出すはずもなく、どのように出すのかの裁量は彼女が持っているに等しい。
特務機関Vとは管理者に多くの裁量を与えられる組織で、柔軟な対応力にこそ秀でている。同時に暴力とは権力だ、処理部の頂点に立つとは相応の権勢を持つにも等しい。
「ほう……興味を持つとは、らしくもない。同情でもしたのか」
鷲律が興味深そうに、シロの目を覗き込んだ。その口調はわざとらしく、あえて踏み込んでいるようにも聞こえるがその真意の程は知れない。
「それは……」
シロが柄にもなく動揺した様子で咄嗟に口を開く。そして、何か言おうとしたが、その意図を語れずに、言い淀めばそのまま俯いてしまい何か語ることもなく、彼女は押し黙ってしまった。
こんなことは珍しいことだったので、鷲律も少し驚いたような表情でそれを見ていた。だが、鷲律が、「言ってみただけだ」と彼女の沈黙に助け舟を出すように言って、言葉を続ける。
「気にするな。見立てが甘い私にも責任がある、お前たちは悪くない。……見張らせておいたのは念の為だったが、まさか役立つことになるとはな。結果的に何とかなったがお前には、嫌な仕事をさせてしまった。……この件は、まさに全員にとって不幸だった。何もできず、すまない」
今回の件は全く予想していなかったらしく、鷲律には珍しく歯切れの悪い言葉が続いた。そして、彼女はシロに自身の責任を詫びれば、一旦、その言葉を切った。
「彼は、同僚に退職届を預けていたらしい」
鷲律が説明を続ける。曰く「古斗野高校に訪れた日。同行していた本田と言う人物に預けた封筒に、退職届が入っていた」というようなことで、そう難しいことでもなかった。
「……そう、ですか」
その時には、既に覚悟していたのか。あるいは、始めから辞めるつもりだったのかは、もう誰にもわからない。
「フラッシュ・サーファーは電撃引退で表舞台から忽然と姿を消す。そして、それ以上のことを世間が知ることはない。社会的な影響や遺族の意向もあるからな。倍川アキラが交通事故で亡くなったことは公表されない。知るのは関係者だけだ」
鷲律が簡潔に説明する。何か変哲はなかった。
「わかりました。ありがとうございます」
牧野シロはどこか安堵したような表情で言えば、礼を言った。鷲律はそれを神妙な面持ちで聞いていた。
「そういえば、詠航君は」
「……わかりやすく落ち込んでるよ、傷ついてる。それから、お前のことを心配していた。無事だとは伝えておいたが」
鷲律は少々、困ったように言った。
戦力としては申し分ない能力を持つ彼だが、精神的には不安定にもなるだろう状況や事件ばかり続いている。こればかりは天下の鷲律でもどうにもならないことだった。
「わかりました。今、何号室にいますか?」
シロが言った。
「会いに行くのか?退院には早いし、寝ているかもしれないが……」
行ったところで話せるとも限らないと、鷲律が困惑気味に言った。
「仕事の成果を確認して、帰ります」
シロが答えた。今度は冷静だった。
「………そうか、そういうものか。それなら仕方ないな」
真剣に語るシロの表情を見て、鷲律は納得したように頷いた。そして、彼女にマコトのいる部屋を伝えた。
シロはその情報を手に入れれば「ありがとうございます」と「失礼しました」を手早く言って、足早に部屋から退出した。そして、大急ぎでこの馬鹿げた秘密基地から抜け出した。
走って病院に入れば、そこでは鷲律の計らいか受付にまできたシロは院内を案内された。
なんであれ、彼女は気がつけば目的の病室に入っていた。
そして、目の前にはベッドから起き上がった患者衣姿の少年がいた。
「牧野……」
ふんわりとしたゆるいカーブのかかった薄い桃色がかった白髪はくしゃくしゃで、物憂げな翳を纏う極彩色の瞳は一瞬彼女と目を合わせれば、すぐさま申し訳なさそうに俯いてしまった。
「………迷惑かけて、すまないな」
マコトがか細い声でそう言ったのも束の間のことだった。仕事の成果にシロが一気に歩み寄る。
何か言いたそうだが、しかし何も言わず、近寄ってくる彼女を前にマコトは不思議そうに首を傾げる。
「っ……」
シロが、マコトを抱きしめた。
「よかった…………」




