第三十五話 報復
講演の仕事を終えた客人は、古斗野高校の広い敷地を徒歩で移動していた。彼らが車まで向かう、その時だった。
男が立ち止まり、本田を呼び止めた。
「……本田さん」
フラッシュ・サーファーに呼び止められて、本田が立ち止まる。
「なんだ、倍川」
問いかける本田に、倍川と呼ばれた彼は懐から一枚の封筒を出した。
「これ、戻ってくるまで預かっててください」
そして、彼は封筒を本田に差し出した。
本田は封筒を預かれば、その裏や表を確認する。倍川が押し付けた封筒は、宛先も何も書いていない。白紙で記されたものだった。中身は封が閉じていて、確認もできない。何か大切な書類に違いなかった。
「どうした、いきなり」
何を持ち歩いているのやら、本田は困惑気味に倍川に問いかけた。
「なんでもないですよ、ちょっとした忘れ物を取りに行く。ただ、これは落としたくなくてね。念の為に持っていてほしい」
倍川はそう言うなり、腕を振って軽く準備体操を始めた。
「能力か?」
本田は受け取った封筒を懐にしまいながら問うた。これは、能力を使うのか否かという意味ではなく、使っても果たして問題にはならないのかという意味である。
比較的安定した平和な世の中の問題は、それまで些細だったものが問題視され、気にしてこなかったことがやり玉に挙げられることである。コンプライアンス、ヒーローの能力使用の範疇の是非等に世論がうるさければ、関係者は慎重にもなる。
それを聞いたフラッシュ・サーファーもとい倍川は、にかりと笑って問題ないと頷いた。
「その方が速い。大丈夫、古斗野は大目に見てくれるし、わざわざ言いもしない」
古斗野高校は、斯様な思想や風潮を無理に取り入れることはない。実利重視の世界では、その程度の些事を問題にしていては何も進まないからだ。
「確かに、ここは広すぎる。車で待ってる」
本田が能力使用も致し方なしと苦笑した。
古斗野高校のやたらめったら広い敷地面積は笑い話でよくいじられる。地下に巨大ロボットでも隠しているんだなんてオチが定番である。しかし、その広さは客人には少し不便だった。
彼等にもそれは同じだったようで、本田は特段、何か怪しむこともなく了承した。
「別に待つようだったら、先でもいいです。すぐ追いつく……それじゃあ」
倍川はそう言いながら、踵を返して手を振った。
「まあ、ちょっとくらいは待ってやるよ」
本田もそれに手を振って、見送れば振り返り車へ向かおうとした。しかし、振り返る途中、ふと本田が足を止めて、背中を見せる倍川に声をかけた。
「おい、倍川、お前そういえば今晩空いてるか?」
それを聞いて、倍川は足を止めた。
「いえ、今日は空いていないです」
倍川がそう言った。
「そうか。じゃあ、また今度、久々に飲みにでも行かないか?最近は……色々あった。お前も、そろそろ休みでも取って息抜きしたらどうだ」
首都不明攻撃事件以来、フラッシュ・サーファーはその関係の仕事もそれ以外のことにも相変わらず忙殺されていた。そのことが本田の頭に入っていないわけもない。
日本人の一般的な勤勉さと真面目において、ヒーローの職務は神経をすり減らすものである。そして優秀なヒーローの大抵は皆、ひときわ勤勉で真面目である。だからこそ思い詰めて壊れてしまう。
もしも、フラッシュ・サーファーは大丈夫でも、倍川は大丈夫ではない。
「じゃあ。また、今度の休みに」
案ずる本田を安心させるように、倍川はにこやかに答えた。
倍川が詠航マコトについて調査したのは、現場に転がっていた色紙から始まる。
富永から彼が持っていたと現場で知った情報、前々から聞いていた強いという噂、エピソードは破天荒でいてそれ以上の情報は全くなかった。にも関わらずどこにも就職は決まっていないどころか、その噂すら聞きもしない。能力の高さと首都不明攻撃事件の状況と流れから、権力の介入の可能性が十二分にありうると倍川には不幸にも理解した。
富永、詠航、山崎らのクラスメイトであり、特に詠航マコトと親しかった羽黒レイが不幸にも犠牲となった電車襲撃事件にも、不自然な点が多すぎることは倍川の疑心を一層深めた。
男は、愛しい恋人が一体なぜ死なねばならなかったのか。ただ、真実を渇望していたのだ。
人間は過去を引きずっても生きてはいけるが、生きられる現在は唯一つだ。彼はこの事件を己の過去にせんと努力した。
そうして倍川は、唯一浮上したの容疑者に問い詰めた。その時、詠航マコトの言葉を聞いて彼は納得し、それ以上をやめた。それは、少年の言葉に噓偽りがなく、その言葉の中にある思いに深く同意したからだ。
倍川がそれでも尚、詠航マコトを監視したのは疑ったからに非ず。
彼は、ただ自分の中で確立した不確かなアリバイを基に、詠航マコトという容疑者の可能性をゼロということにしたかったのだろう。
あてのない犯人捜しを諦めることで、己の中でこの事件を過去とするために、ヒーローに戻るために、最後に彼を見に行ったのだ。
──だからこそ、許せなかったのだろうか。気がつけば、男の足元には瀕死の重傷を負った少年が力なく倒れていた。
殺人はおよそ二種類に大別される。
ひとつは衝動的殺人、もうひとつは計画的殺人である。
ぶちまけられた少年の血が、階段を真っ赤に塗りつぶす。短刀を握りしめたその手は、微かに震えていた。だが、それも数秒すれば収まった。
血の独特の臭い、そしてポタポタと血の滴る音、男の手にまとわりつくぬめりとした生暖かい感触が、この非現実な様子がいかにリアルな現実であるかを突き付けていた。
「……ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ」
「まさか」とでも言いたげな表情で男は数歩後退って、五感の感じ取った情報から我に返った。
それから数秒の間、呆然と倍川は立ち尽くしていた。
ここまで来て倍川が詠航マコトを生かす選択肢はなかったが、生憎足元で血を垂れ流す少年はまだ微かに息があった。
流れ出る血の量がいつの間にか抑えられ、こぼれ出てもおかしくない臓物はその頭すら見せない。少年は、腹にその手を当てて、苦し気に呼吸する。
何の仕掛けか、能力か、自力で持ちこたえているようだった。
普通、これ以上やる必要もない。しかし、詠航マコトの持つ異次元な能力、国家権力がわざわざ保護する存在であることを考慮すれば念入りに殺すべきであった。
「……化け物が」
最初で死んでくれれば、倍川にはどれだけ楽だったろうか。
階下の教室からは、生徒たちの話し声が聞こえる。男は、一度は懐かしんだ雰囲気に恐怖した。そしてその恐怖が、彼に焦りと僅かながらの平静さを与える。
倍川はその平静さでもってして、護身用の短刀を握り直し構えた。
「頼む、死んでくれ」
その時だった。ヒュンと唸る風切り音を認めるよりも先か後か。
倍川の眼前に何かが迫る。それは、高速で迫る半透明な何かだった。
だが、確かに飛来すること以外、倍川にはわからなかった。
「!……」
倍川が視線を階段の下側に向ける。そこには、飛翔体による攻撃と同時に接近する少女の姿があった。
得物を高めに投擲して視線を誘導しながら、階段をギリギリの低姿勢で疾走し、凄まじい身のこなしで音もなく、彼女はもはや一歩と言う距離まで一挙に駆け上がっていた。
一方で倍川は、動揺と少年に気を取られていたせいですべてへの反応が遅れていた。
飛翔する攻撃は目と鼻の先に迫り、躱す猶予も守る猶予もない攻撃を前にして、倍川は咄嗟に能力を発動する。
その刹那、彼が発光した。
迫る刃もまた照らされて、一瞬複数方向に光線を反射する。それと全く同時に倍川の姿は消えていた。
そして、倍川は扉のガラスの中から、淡い光とともに弾きだされるように現れる。屋上側から、彼は襲撃者を見下ろした。
「一緒にいた生徒だな……」
倍川の見下ろす先、その眼前には、黒い眼を見開いた制服姿の生徒がひとり。頬に小さな傷を持つ女いた。
彼女は長い黒髪を揺らし、足元で死にかけている詠航マコトを守るように男の前に立ち塞がる。冷静沈着に構える姿勢には熟達の達人すら思わせる凄味があった。
何よりもこの状況で、その瞳に激情や動揺が一片たりとも映らない。
「異常だ」
彼女を見て倍川が呟く。
フラッシュ・サーファーとして現場で活躍したプロですら気圧されるほど隙が無かった。いくら倍川と言えど、たかが学生と侮れる相手ではない。
「退いてください」
彼女、牧野シロが冷ややかな警告を放つと共に密室空間の気温が一気に低下した。
同時に詠航マコトの足の傷跡がピンポイントで凍結された、止血である。腕や足を喪っても、治す技術のある時代だからこその荒療治だ。これ以上、大量の血を喪う方が体の一部に凍傷を負うよりも致命的と彼女は判断したのである。
そして更に、マコトのもとに、砂のように細かな粒子の塊のような氷が積もり覆う。謂わば、ミニサイズのかまくらが、彼を保護していた。
特殊体質者、牧野シロの思念力を氷に変換する能力の応用である。
……氷で覆っては普通、体温が下がると考えるが、逆だ。空気を多分に含んだ雪は高い断熱効果を持つ。
例えば雪山で吹雪にあった際、雪の中に穴を掘って無暗に動き回らないことが最も生存率の高い行動であるように、北海道などで見られるかまくらやエスキモーのイグルーのように、それはむしろ保温の意味合いを持つ。冷たいが、彼は毛布をかぶっているのに近い状態にある、
能力で守りながら、外気によって失う体温を減少させたのだ。
これらは字にすれば多くの意図と意味を含むが、それ自体は瞬く間の対応であった。故にこそ、それを見た男は固唾を飲んだ。
表情に先ほどまでとはまた異なる緊張が走る。プロが舌を巻くような素早すぎる判断能力は、齢十八のうら若き乙女がいかに天才的であるかを存分に表していた。
「事情は知っているだろう。この傷だ。言い訳は付く。苦労して助けるような相──」
言い終わるより前に、倍川は違和を感じた。
「なっ……!?」
その違和とは、痛み。そして冷たさだ。
背後から伸びた氷柱が、彼の背中を抉っていた。振り向けば、壁には始めに投擲された冷たい凶器が突き刺さっていた。
透き通るようで視認性の悪い刃には、細長く小さいこともあってか、溶けかけているものもあった。だが、そのうちの一本が細長い氷刃へと成長していた。
単なる攻撃でなく、次なる攻撃への布石でもあったのだ。
「粛清します」
牧野シロは、生憎わが身可愛さに任務に手を抜きはしない。侮るなとでも言わんばかりに彼女は冷ややかに告げた。
彼女の顔に映る感情は透明だった。
覚悟を既に済ませた者にしか持つことのできない、一切の感情を殺し切った双眸が男を見据える。
「こいつ……」
背後で、ぽたぽたと背後で溶けかける氷が滴る音が響く。しかし、それは見捨てられた小さな刃、倍川の背を抉る氷に溶けるような気配はない。
倍川の背に血が滲んでいく。男は思わず身を捩った。
だが、それは痛みにではない。牧野シロの鋭すぎる殺気を前に、鋭敏に研ぎ澄まされた感覚が反応し、身を捩らせたのだ。
死を予感させる次の瞬間。
倍川がチカリと僅かに光を放った──かと思えば、その姿が完全に消失した。
「!」
男は、踊り場の窓から弾き出されるように現れる。
倍川の気配に、牧野シロは振り向いた。
「良い兵士だ……」
踊り場に立つ倍川は、屋上に至る扉からくる日光の眩しさに眉を顰めた。
倍川が見上げた先、光を背に、女は構える。彼女の瞳の奥は、依然変わりなく凪いでいた。
「命令に従順で冷静、かつ優秀……」
倍川がつぶさにその光景を観察しながら、肩を回す。
背中に空けられた穴から血が流れだしていた。
彼女の背後には、氷で紡がれた雄大かつ繊細に紡がれた薔薇の花弁が花開き、その一枚一枚が日光を反射して美しく咲き誇っていた。
「そして、躊躇がない」
僅かに血を滴らせたその花は開くように咲いていた。
対怪異生物でも中々見ないほどに殺傷能力が高い。残虐無残な、相手を必ず絶命させるための技だ。
そう語る僅かに男の指先が震える。その原因が緊張か、興奮か、あるいはこの寒さからか。彼には分らなかった。
気がつけば、彼の吐く吐息は真っ白になっていた。冬の寒さとすら比較にならない極寒の環境。普通ならば息をするのすら苦しい寒さだが、雪女にはそんな様子はない。
彼は白い吐息を吐きながら、懐から道具を取り出した。
それはちょうどトランプほどの大きさの、幾枚もの鏡である。男はそれをばらまくように投擲した。
それは大きな音を立てない、しかし割れることもなかった。それでいて思念力を纏ったそれらは相応の切れ味を持つのか、壁や天井に突き刺さった。
高度に硬質かつ割れにくく軽量で、歪んだ鏡像を映し出す。専用の武器。
倍川の能力は、一言で言うのならば鏡面から鏡面への移動。自身を光へと変換させ、鏡面上や鏡面間を光速で移動する。彼は、光そのものだ。
「助けは呼ばない……いや、呼べないようだな……当然だ。呼べば、残念だが……犠牲が増える……それは避けたいだろう」
倍川に焦る理由はなかった。
肝心の仇は仕留めたと言っていいほどの瀕死である。
再度の接近さえ叶えば、必ず仕留められる。何なら、放っておけば死ぬ。
死人も同然だった。
「……」
押し黙ったまま、牧野シロは倍川を睨んだ。とうに覚悟を済ませた、まっすぐなその目はどこまでも現況だけを見据えている。
指摘通り、彼女は確かに助けを呼べない。判断の争点は、脅し文句に実際の殺意があるか否かではない。助けに現れるだろう親切な級友たちは、しかし万に一つもこんな状況を覚悟していない、この状況ではパニック状態に必ず陥る可能性が非常に高い。そして、その隙を突かれては詠航マコトも級友も、そして彼女自身のことも守ることができない。
彼女は自分の足元、階段の隅で即席のかまくらの中で体を丸める詠航マコトを守り切り、同時に彼が死ぬ前に、この光速で飛び回る相手を仕留めねばならない。
条件のみで見るのならば、倍川の方が有利だった。
「理解れとは言わない……だが、そいつが踏み潰したのと同じように、死んでもらう」
倍川が再び光を纏った。暖かな光が鏡面間を絶えずに飛ぶ。その時にはもう、あらゆる誰もがその動きを見失っている。およそ秒速30万㎞──瞬間移動と大差ない──の、動きに追いつくのは、不可能だ。
「させはしない」
牧野シロが呟いた。彼女は構えまがら背中を壁に預けた。
ばら撒かれたミラーカードの無数の選択肢の中から、いずれの位置に現れるのか。それを予測することも、現れてから対処することも困難極まりない。
だが、壁を背負い、倍川の現れうる位置や方向全てに注意を払えば不可能ではない。……少なくとも、理論上は。
「だが──ハードですわね」
彼女は、分の悪すぎる勝負にぼやいた。
刻一刻と時は過ぎ去り、無数の永遠のような一瞬の重なりの最中、殺気の充満した階段の気温は低下し続ける。
そして、静粛にて、ただ彼女はその瞬間を待つ。
今宵、ここは地獄。息すら困難な極寒が猛威を振るい、氷河の底で怪物は眠る。
光放つ凶刃が暴虐なる怪物を葬るか、極寒は光すら捉えるか。
詠航マコトが彼岸に至るまで、時は長く残されていない。膠着が続けば、彼は死ぬ。
だが、倍川にも問題はある。
消耗がある以上、能力は永遠には使い続けられない。その多寡は当人しか知りえないことであるから、牧野シロから期待できるほどの要素ではないが。
幾枚ものミラーカードが光を反射し、その鏡面上を光が通過する。
倍川が光と消えて数秒後。
倍川はシロの正面上側より降った。
光を纏う人影は猛烈な勢いで迫り、振るわれる短刀が牧野シロの頭部を両断せんと迫る。その尋常でない勢いは全体重を乗せるどころではない。倍川は重力に落下すると同時に天井を蹴り飛ばすことで急加速したのだ。
上乗せされた威力は頭蓋を一撃で破壊するには十分すぎる。
「!──……」
真上から振り下ろされる必殺に相対するは牧野シロ。しかし、彼女はあろうことかその寸前で腕を上げてその刃を真正面から受け止めにかかった。しかし、これは当然、その程度で止まる攻撃ではない。
咄嗟の無駄な抵抗か、腕ごと断ち切ることには間違いない致命的な次の瞬間──。
「!?」
倍川が驚愕に、目を見開いた。
腕をぶった切り頭蓋ごと破壊するはずの刃は、その腕に触れればガキンという音を鳴らしたからだ。
しかしながら、それも当然、短刀が触れたのは柔肌に非ず。
制服の下に着こまれた、凍てつくような硬質の装甲であった。
「……」
シロはしなやかに体を動作させる。
その仔細はその動作を一目見て理解し、解説できる知識を持つ人間はこの世には稀である。
脱力の中、彼女は体勢ごと腕を正確に振るう。同時に刃の衝撃に抵抗せず、体勢を逸らす。
刃の持つ力やそこで齎した衝撃も利用して受け流す合気じみた技術だ。その技は、刃の斬撃の軌道を逸らすという明白な結果を得た。
牧野シロはその眼前にて刃が空を切るのをあくまで冷静に見切れば、迎撃が始動する。
「ッ」
迎撃の鉄拳。鮮やかなる反撃が、空中で身動きの取れない倍川に迫る。
予想外の対応に、攻撃の失敗を悟るのに遅れた倍川はその対応に間に合わない。シロの拳が腹部に触れる。その拳が深く腹筋に沈み込み内臓まで凍り付かせるような一撃が炸裂する瞬間──…倍川が再び、光と共にその姿形を消失した。
拳が空を切る前に、彼女の足がその動きを強引に止めた。食いつく勢いで致命的な隙を晒すことは避けられたわけだ。
そして次の瞬間、階段の下側から倍川が現れた。シロの側面にて、その人影は光を纏う。
白い息を吐きながら、間合いのギリギリにまで男が迫る。シロは即座に捉えていたが、しかし動かずに待っていた。
彼女は相手に意識を向けながらも、あくまで視界全体を捉え、常に別方向も意識する。そんな状態を維持せねばならないが、それでも彼女には隙は僅かほどしかありはしなかった。
「──…………」
牧野シロが息を吐く。その次の瞬間には、シロの反応したのとは逆側、屋上側で閃光が閃いた。
現れた倍川が屋上側、階段上側から踏み込んだ。倍川の短刀の反射する光が、シロの意識の外で閃いた。
それは足音を潜ませ、息を殺し、忍び寄る。
針の穴を通すような隙に、確かに男は通してみせた。
シロの死角から、その柔らかな首元に刃のその切っ先が迫る。その表皮に、刃の切っ先が触れ、プツリと切れて真っ赤な血液を流させながら、肉を深く抉らんとする──その寸前。
「っ!?」
間一髪、シロが咄嗟に上体をそらして躱した。
短刀は揺れる黒髪に僅かに触れて、数本の髪の毛を散らすという成果を得た。
そして閃光が、シロが次に動くより先に瞬く。
次はどこか──各方向を警戒するシロの眼前で、煌めくものが唯一つ。
それは持ち主を喪った短刀である。
そして、短刀が落下するよりも、シロに思考する余裕も、構え直す暇もないほど、ずっと早く、短刀の煌めきより倍川が姿を現した。
短刀の表面もまた鏡面。それを利用したのだ。
倍川が現れたのは、至近距離かつ真正面。これはリスクが非常に高い選択である。
しかし、お忘れではないだろうか。
牧野シロは、周りのミラーカードも含めすべてに注意を向けねばならず、そして、それをやってのけてみせている。
ここで既存の鏡面が持つ機能は、注意の分散だけではない。「これらいずれかから来るだろう」という無意識下での先入観を植え付ける──謂わば、ブラフとしての機能だ。
咄嗟の瞬間、短刀を利用した移動への反応は必然的に悪くなる。
もちろん、至近距離かつ真正面からでは相応のリスクも存在するが。
「!──…」
牧野シロが気がつく。その時、男はもう既に駆け出していた。
その掌に再び短刀は収まり、男はその両の手で十全の具合で得物を握りしめ、真っ向から体勢を崩した牧野シロに向かって踏み込む。
必殺の間合いにおいて、十分に力と勢いを乗せた刺突がシロの首元にめがけて放たれる。
想定外の事態に反応が僅かに遅れた彼女には、それは避けるにも、迎撃するにも、速すぎた。
だが──
「っ……」
──少女はそれでも反応してみせた。
彼女は歯を食いしばり、迫る刺突を止めようと両の手で抑え込もうと踏ん張った。
「くっ──」
だが、彼女の抵抗虚しく、倍川の勢いまま簡単に壁に押しこまれる。
特殊体質者とて、人間。体質故の特別な身体機能の向上がない場合、男女での膂力の差は歴然である。それは生物学や医学において既に解明されている事実であり、骨格単位で搭載できる筋肉量が異なるという覆らない現実。訓練ではどうしようもできない差。
冷静に満ちる牧野シロの瞳には今や対処困難な脅威への解決は、円周率を計算し続けるコンピューターの解と全く同じものに映る。無限小数と同じ。決して変わらない現実を収束させる明確な解決策は存在しない。それはそういうものなのだ。
「……」
倍川は、息を吸っていなかった。呼吸を止め、あるいはただ吐き出すだけだ。シロの至近は空気を下手に吸い込めば肺が破壊されるほどの低温環境であるから、これは正しかった。
震えるなんてものじゃない寒さの最中、凍結しそうな眼球に生気はない。それでいて、怒りに満ちていた。
倍川の腕には、きっと彼にも経験のない感覚が走っていた。それは冷たいというようなものでない、それは痛みである。能力を使った牧野シロの超低体温が原因だ。
能力とは大抵そうであるように、直接触れているのならばより早く強力に扱える。ゆえに彼女に触れられていることは、望ましい状況とは言えない。人体を破壊するのは守るより遥かに容易い。……しかし、倍川が相手の虚を突き、あまりに咄嗟かつ瞬間的な反応を強制することで、能力に有効な指向性を持たせるよりも先に致命傷を負わせることができるのならば、話は別だ。
振るわれない剣も、引き金の引かれない拳銃もただの置物である。何一つ恐ろしいことはない。
「終わりだ」
息すら凍てつき、肺の凍り付かんばかりの寒さの中、その惨劇は加速する。
倍川に躊躇はない。
彼は壁に追い詰めた牧野シロ目掛け、ただ全力で短刀を押し込んだ。




