第三十四話 目
この頃、詠航マコトは毎朝走っていた。朝早くに起きて顔と歯を洗った後は、牛乳を一杯飲んでから走るのだ。
特務機関Vのやたらと設備の揃ったジムにて能力抜き、20分ノンストップで走り、それから筋力トレーニングを行う。もしも能力をこっそり使えば、鷲律の拳骨が飛ぶし、手抜きはなしだ。どうやっても能力の使用がバレるので、マコトは三日でズルを諦めた。
鷲律曰く「能力は向上の余地こそあるが文句なし。体術も能力を鑑みれば、及第点。一番は体力がなさすぎること」だそうで、それはもう徹底的に追い込まれていた。
そうしてからシャワーを浴び、鷲律に持たされた弁当をかっくらう。朝でも食べやすいようにあまりしつこくない味付けの朝飯にデザートの果物は、格別だった。
学校では絶えず睡魔に抗う。学食を大盛りにして食べて、それを毎回写真に撮って鷲律に送る。でなければおしかりが飛ぶ。
放課後には、トレーニングに追加で体術の基礎稽古、そして能力の訓練を行う。
特に、体術の基礎稽古──この相手は、鷲律ユラナ直々に行う──が、基本彼女は容赦がない。マコトは模擬戦に明け暮れていた頃の倍の青あざを毎日作る羽目になった。一、二晩寝れば、それくらいは治るマコトだが、問題なく次の日には満遍なくあざだらけだ。
能力については、万全の状態での精度は問題ないと太鼓判を押されていたのもぬか喜びに終わった。
いくら彼でも、疲れて集中力が欠けた状態では当然能力の精度は落ちる。毎日、最後は高難度の射撃や技を成功させるか、鷲律が良しと言うまでは、やり続けるのが定番となっていた。
お陰で詠航マコトの授業態度は悪化していたし、この頃はよく眠っていた。
こういうのは、普段の授業ではまだいい。三年も後半で成績を気にするタイミングでもなければ、マコトは受験生でもない。それなりに聞いて、それなりに寝ればよい。
しかし、事に及んで、有名人を招待しての講演会のようなものはダメだった。
首都不明攻撃事件の後、休校を挟んだ古斗野だったが、よりにもよってその後はやや遅れたカリキュラムを取り戻すような生活に追われた。これは、講演会──ほとんど就職者を求める事務所にヒーローチームによる宣伝活動、体験談のような──のようなカリキュラムも同様だった。
「ええー……というわけでね。レギオンチームのフラッシュ・サーファーさん!サポートの本田さん!本日はありがとうございました」
壇上で司会の教師がそう言った。
「皆さん、今一度拍手をお願いします」
マイクを通してそう伝えられたのを機に、講堂は生徒たちの拍手で揺れる。
その騒ぎで、極彩色の瞳は開眼し意識は覚醒する。
周りに座った生徒たちをまねるように拍手をして、聞いていましたというような顔で前を向くのだ。
どうせ、明日には書いてこいという感想文が課題のようにわいてくるのだろう。マコトはうんざりしてそんなこと言われる前から、課題をうっかり忘れようと心に決めた。
講演会が終われば、生徒たちは教室に帰っていく。同時に帰すのでは混雑するので、毛帰っていくのはクラスごとだ。配置の関係か、マコトたちのクラスは、最後だった。つまり、それなりに前の位置でマコトは爆睡をかましていた。
さすが古斗野高校の生徒らしく、皆統率が取れて……はいなかった。講演会が完全に終了すれば席から立って駄弁ったり、勝手に他のクラスと帰ったりと、皆好き好きに振舞っている。
レイのいないマコトにはこうした時間が一々、手持ち無沙汰だった。そういうわけで彼はぼんやりしていたのだが、彼はそこでスーツ姿の男が富永と話しているのに気が付いた。
スーツを着たその男は、壇上で何か話していたであろうフラッシュ・サーファーその人である。大抵のヒーローがそうであるように、彼はマコトたちよりいくつか年齢が上の、古斗野の卒業生でもある。
フラッシュ・サーファーは首都不明攻撃事件の際にはいち早く現場に駆けつけたひとりだそうで、富永や山崎ルリとも面識があるようだ。
そんなことをぼんやり、マコトは眺めていた。すると、すたすたと富永が涎を垂らして爆睡でもかましそうなマコトのもとに歩いてきた。
「ちょっと来てくれ」
富永は言った。
「……俺?……なんで?」
マコトは少々の困惑と焦り──この目立つ容姿で思い切り寝ていたのもあって──を隠さずに、富永に思わず聞き返した。
「勧誘じゃ?」
「いや、なんで俺のこと知ってんだよ」
富永の希望的観測に、マコトが突っ込みを入れる。
「みんな古斗野のことはよく知ってる」
どうこうかして調べをつけた事務所に勧誘されることは頻繫にあることだった。もちろん、そんなことは誰もが欲しがる優等生相手にやるものであって、詠航マコトのような一癖ある使い難い問題児を欲しがることはめったにない。
事実、マコトに鷲律ユラナ以外にそんな声がかかった経験はなかった。
「わかった。行く」
マコトはううんと伸びをして、それから席を立った。
ゆるゆると人をかき分けて、マコトは男の前に立つ。
「君が詠航マコトか、初めまして。私は、こういうものだよ」
フラッシュ・サーファーは丁寧に挨拶すれば、名刺をマコトに差し出した。
テレビ越しでは彼は、爽やかな美丈夫といった印象だったが、実際近くで見てもその通り、今時流行りの俳優のようなビジュアルのイケメンであった。
「ありがとうございます」
マコトがそのイケメンから受け取った名刺には、ヒーロー名、所属の事務所及びチームと連絡先、そして洒落たロゴが適切に配置されていた。
日乃宮事務所のレギオンチーム、業界でも最近勢いのあるチームである。
SNSを活用した巧みなマーケティング戦略から始まり、チームの実力も評価されている。中でも彼、フラッシュ・サーファーは新進気鋭のレギオンたちの主力の一人である。
「……初めまして。あのどうして俺を、一体何か用で?」
どうして、今をときめく人気者に声をかけられたのだろうかと、何者でもないことを自認する少年は困惑気味に問いかけた。
「強いんだって、君有名だからね。後輩たちから聞いたことがある」
人気者曰く、認知はすでにしているという。
目の前の少年に心当たりがなくとも、こうした業界では評判と言うのはすぐに広まるもので、何がどうかと言えば古斗野高校でそれなりに目立ったマコトには心当たりがあった。
「それは、どうも」
気まずそうにマコトは苦笑した。なぜならこの噂は、きっと名誉なものではないからだ。
噂とは常に尾ひれのつくものだ。そして、マコトの強さを示す刺激的かつ代表的なエピソード──西田や彼に依頼した連中とのひと悶着──は、彼の人格もまたよく表している。いくら若気の至りで確かに事情があったとしても、その時の振る舞いは紳士には程遠い。
「さっきも上で話したが、今のヒーローはタレント性第一の、人気商売なんて言われている……確かに、そういう面も否めない。タダでは装備も、スタッフに給与を支払うこともできないからね」
そう言ってフラッシュ・サーファーは背後をちらと見た。
壇上で話していた、もう一人、本田という男が古斗野の教師と話していた。彼は、フラッシュ・サーフ、ァーよりもずっと年上で、脂の乗った40代というような電車に乗っていてもわからないくらい普通のサラリーマンというような風貌である。
「うちなんて私の給与は下げれても、本田さんの給与は下げられない」
フラッシュ・サーファーが冗談交じりに言った。
目線の先の男は、ヒーローではないが、マーケティング戦略、装備更新や技術をチェックしたり、新人の勧誘を行ったり……等様々なことに関わるという、そんな人物だ。
いずれのチームにもこうした実務屋はいる。そして、ヒーロー業界では、こうした実務屋の能力は現場の発揮できるパワーに関わり、ひいては人の生死に直結する以上、常に優秀である。
「しかし、一番人気達のカラーズは名実ともに最強だ。伝統あるグレートチームも業界、随一の武闘派。人気のあるところは結局、強い。だから、強い子は結局、重宝される」
昔ほどではないが、と彼は付け足した。マコトはそれを、黙って相槌を打ちながら聞いていた。
「就職先、まだなんだって?興味あったら、うちの事務所においでよ」
彼の勧誘は、予想外だったのかマコトは少しばかり驚いていた。
そして、どのように言葉を発するべきか少し考えてから口を開いた。
「お誘いいただき、光栄です。けどそっちには昔、揉めた奴が沢山いる。生憎ですが、遠慮しときます」
マコトは丁重に断った。
「そうか……それは残念だ。業界が同じなら、いつか現場で会うかもしれない。その時は頼りにしてるよ」
ヒーローはにこやかに言った。
その頃にはもう、講堂には人がほとんど残っていなかった。話しているうちにみんな帰ってしまっていた。
話し終えた頃、本田がこちらに歩いてきて、フラッシュ・サーファーに「どうだった」と、恐らくは勧誘の成否を問うたのだろう。ヒーローは「フラれちゃった」と冗談めかして言えば、追って、「もう少ししたら出るから先に出てくれ」と本田に伝えた。
そして、再びマコトに話しかけた。
「ああ、それから最後に……君の落とし物。この前、現場で拾ったよ」
すっかり忘れていたとでも言いたげに、フラッシュ・サーファーは言った。
「落とし物?」
予想外の言葉に思わずマコトが聞き返す。
「色紙だね、これくらいの大きさの」
彼は、そう言って大きさを手で示す。
もはやマコト自身も記憶から葬っていたものであった。
「ああ、富永から聞きましたか。車に水ひっかけられて……嫌になって捨てて帰った奴ですね」
マコトは思わず目をそらした。
「油性ペンで書いたものなのに?……知り合いの能力を頼ったり、拭ったりなんとでもできる。それにあれは、友達にあてたもので、簡単には捨てられるものじゃないだろう?」
フラッシュ・サーファーの目は、変わらず笑顔だった。あるいは、笑顔を装い続けていた。
マコトは、唾を飲み込んだ。嫌な予感を抑え込む。重い息とともにゆっくりと言葉を吐き出した。
「あの色紙、嫌だったんです」
それを聞いて、フラッシュ・サーファーは首を傾げた。
「嫌?」
彼は、言葉を続ける。
「その友達と結構……いや、俺にとっては一番仲良かったんです。これまででも正直一番くらいには。……こうして言葉にするのは癪ですが」
マコトは、寂しそうに笑った。
「だから、亡くなってすぐにそんなの書こうって発案されて……それで書くのは、いなくなったのを簡単に受け入れたみたいな、それ許したみたいな……」
そう言って、少年は一度言葉を切った。
フラッシュ・サーファーは、面食らったようにそれを黙って聞いていた。
「第一、なんで俺以外の奴が先に書いてんだよなんて。お前らそんな話したことあんのかって……そんな気がしたし、ムカついて……だから理由付けて、捨てたんでしょうね。それ全部書いて出したら、本当にいなくなっちゃったみたいで」
マコトは、羽黒レイの生存の可能性を知る数少ないひとりであるが、実際には半ば死を受け入れることも求められている。期待のできなさは、誰にでもわかる状況だ。
だが、それでも尚、感情は宙吊りでそこに行き場はない。
ただ、行き場を求めているからこそ、今こうして心臓を鼓動させ、これまでの比にならない訓練をこなし、自分の命よりも仕事を優先させて打ち込めるのかもしれない。
「そうか」
感情を押し殺したように、フラッシュ・サーファーは言った。
彼は暫し口を閉じ、再び口を開く。その時の一瞬、二人の目が合う。しかし、二人は互いを見てはいない、二人ともどこか遠くを眺めているような目をしていた。
「わかるよ」
彼はそう一言だけ言い残して、去っていった。
マコトはその後ろ姿をしばらく見ていたが、じきに講堂から出た。古斗野高校の講堂はやたらと巨大で独立した別館となっており、教室に戻るまでは少し距離があった。
講堂は大抵でそうであるように、出口から出てすぐに外ではない。古斗野ではピロティのようになっていて、ここもまたやたらと壮大だった。
「なに話してた?勧誘?」
そこには富永がいた。周りに、他の生徒はいない。
「世間話。……つーか、お前なんでいんだよ」
皆はもう帰ってしまったのにと、マコトが言った。
「閉めたり、色々やる手伝い頼まれたんだ。詠航こそ、早く教室に戻りなよ」
確かに富永はそういう手伝いをよく教師に頼まれるので、マコトは納得したように頷いた。
「はいはい」
そうしてマコトが建物の外に出ようとした時、ガラス張りの扉越しにフラッシュ・サーファーの後ろ姿が見えた。まだ、そんなに遠くには行っていなかったので、そうとわかった。
マコトは、それを見てつい立ち止まった。
「俺はフラッシュ・サーファーさんに現場ですごいお世話になったから、レギオンチーム就職すればよかったなと思った。勧誘されたならラッキーだな」
富永はまだ帰らないマコトに眉を顰めたが、扉の向こうのフラッシュ・サーファーを見つけてそう言った。
「やっぱりすごかったか。強いもんな、それに頭も良いんだって?」
富永の言葉は上の空でヒーローの小さくなっていく背中を見つめながら、マコトは言った。
「ああ……それもあるけど、やっぱりプロは違う。精神力なんて特に」
富永はマコトの隣に立って、同じくフラッシュ・サーファーを眺めながら言った。
「精神力?」
普段あまり聞かない表現にマコトが思わず聞き返した。
「ああ、いや……あんまり報道もされてないけどさ。実はあの事件、あの人の恋人も巻き込まれてて……あの時、それもわかってて、それでも救助活動を優先させた……」
富永は言い淀んでから小声で話した。内容が内容だからだろう。
そうして彼が言い切ってから、しばらくマコトから返答はない。押し黙ったまま、もう外のフラッシュ・サーファーが見えなくなっても変わらずぼんやりと外を眺めていた。
「……それで、その恋人は」
そうして、しばらくしてから、マコトが問いかけた。
その問いかけに、富永は小さく首を横に振った。
「残念だった」
その答えは、マコトの期待に反するものだった。
「……そうか」
マコトは気まずそうに俯いて言った。
「本当に、気の毒だ。そんな中でも、講演に来てくださったんだから」
「ああ」
マコトは感情を押し殺したように言った。そして、建物から出た。
足取りは重いが、それでも心なしか早くに歩いていた。彼が向かうのは教室とは別の方向、客人が向かったであろう方向だ。しかし、そちらへ向かい出してすぐ、マコトを呼び止める声がひとつ投げかけられた。
「詠航くん」
マコトが振り向けば、そこには牧野シロが直立していた。彼女は、いつもと変わらない。長く美しい黒髪を僅かに揺らしながら、良い姿勢で、一糸ほどの隙も感じさせない立ち姿だった。
彼女はマコトの極彩色の瞳を見据え、なだめるような声音で彼の名を呼んでいた。
「なんだ」
マコトがぶっきらぼうに問いかける。
「ダメですよ」
一言だけ言えば、彼女は踵を返す。そして、転んだ幼子が立ち上がるのを待つように、ただマコトを見つめていた。
「何が」
牧野シロの言葉の戒めるような言葉に、マコトは何もわからない風に答えた。そして、彼女についていくように、その隣を歩いた。
少しして、マコトが口を開いた。ほんの小声で、ささやくように話し始めた。
「……わーってるよ。犯人だなんて馬鹿正直に白状しないさ」
大きく息を吐き、疲れきった吐息交じりに陳列される彼の言葉は、どこか自嘲気味だった。
「……周りに聞かれます」
シロはマコトに目もくれず、ただ、無感情に諌めた。
「……俺は大丈夫だ。ただ───」
マコトの言葉を、シロが彼の口元で人差し指を立てて中断させた。
「わかってます。けど、譲ってください。私まで戻るの遅れちゃいます」
そうやって、彼女は説得よりも情動的な納得を求めれば、その人差し指を下した。さしものご機嫌斜めなマコトも「わかった」と頷いて、一応は納得した素振りを見せるのだった。
それから二人は移動した。そこで校舎の入り口を前にして、マコトがふと口を開いた。
「……あのスパルタゴリラにでも言われたんだろ。けど、俺もお守りの要るような歳じゃない」
彼はベクトルを変えて放言した。
「全部聞こえてますよ」
「……全く、これは、誤解のないように、ああユラナちゃんのことじゃないってな。単なる冗談みたいなもので、実際、俺は特別美人で素敵な女性だって思って」
そして、彼は放言を即座に懺悔した。もちろん、普段下の名前でなんか呼びはしないし、ましてやちゃんなんて付けはしない。
即ち、冗談交じりというわけで、しかしここで冗談を交えることで前半の失言もまたそのような意味合いで言ったのであり、決して悪意のあるという訳ではないという意図が滲んでいる。
当然、何を言おうが関係なく、彼女の上機嫌そうなにやけ面と実に優しい言葉が返ってくるだろう。
「今のは冗談です」
シロがくすくすと小さく笑っていった。
「本当か?」
「本当ですよ」
「寿命が縮んだ」
どうやら、鷲律の上機嫌そうなにやけ面は拝まずに済むらしいことの確認を経て、彼は胸をなでおろした。
そして、校舎に入れば、階段をのぼりながら、シロがさっきよりも些か真剣な口調で、同時に他人の耳に入っても問題のないように単語を選びながらマコトに話しかける。
「みんなマコト君が思うより、心配してるんです」
階段を登りながら、彼女はそう言った。
「わかった。懲りとくよ」
彼は、素直に受け入れた。
「……今、マコトって」
それから思わずシロの方を見て、呆けた面で言った。
そして、彼のこの馬鹿みたいな、驚いた表情を見て、シロは──彼女自身意外だったろうが──ため息を吐いた。
「お守りしてるんですから、これくらい良いでしょう。それとも、ダメですか?」
どこかその口調は厳しい。
「別にダメなんて言ってない」
今度はなぜか責められているのか、何か反発でも買うようなことを言ったのかと、驚いただけのマコトは困惑しながらそう答えた。
「とにかく、今日はもうおしまいですし、教室戻りましょう」
二人は階段を登る。だが、マコトはひとりクラスの教室より上の階へ向かって階段を登っていく。
彼がそうやって踊り場にまで来て、更に進もうとしたのを見かねてシロが下の階から声を掛けた。
「……あの、マコト君。一体どこに?」
「最近、どこでもダメなんだ。だから、ちょっと一服」
鷲律は喫煙を許してくれない。学校くらいなものだが、この頃は疲れ切って吸ってもいない。
マコトは暫く、禁煙状態だった。
もちろん、当人曰く辞めようと思えばいつでも辞められるのだが、辞める理由がない。
それに、命がけの任務を受けたり、命を狙われる羽目になったり、挙句の果てに体質上先が短いと言われてしまった彼が一々健康に気を使ったり、自分を丁寧に扱うのは馬鹿馬鹿しかった。
「ダメです」
子供をしかるような口調でシロがそう言えば、マコトは「え~」と声を上げてどこかわざとらしく聞き返した。
「……ダメ?」
それを聞いて、さっきのセリフをリピートするように、言い聞かせるようにシロが言った。
「ダメ」
そして、シロは半ば呆れたように言った。
「先、教室行っちゃいますよ」
「はいはい……」
マコトはそう言いながらも階段を上がった。その先は、長らく行っていない屋上だ。
一番上の扉のガラス越しに、日光が差しこんでいた。
マコトはその眩しさに思わず目を顰めた。扉を手にかけたが、やめた。
彼は踵を返して教室へ向かおうと階段に足をかけた。
その時、背後から差し込む光が、何かに遮られた。そして、やはりその光は遮られままだった。
それよりも先に、マコトは階段を降りようとする足を止めていた。
彼は密かにガンフィンガーを作りながら、踊り場、そして教室までの距離と背後の気配との距離とをあらゆる行動にかかる時間とを計算し、次に行う行動を迅速に決定する。
逃げるには、余りにも背後の気配は近すぎる。
だが、迷いはない。
「……ッ」
そいつは、振り返るまで動かなかった。
振り返り、マコトが構える。
「やれ!!」そう告げる本能的な指令と鍛えあげた反射神経、判断能力が攻撃へとその身を突き動かすその直前、何か異様なものが彼の射撃と防御をほんの一瞬、鈍らせた。
詠航マコトのすぐ目の前には、同じ目をした男がいた。
その男は悲しみに満ち、どうすればいいのか、途方に暮れた顔をしていた。
導き、あるいは人生や青春、夢を失った者の目だ。彼はまるですべて失ったかのような悲嘆に満ちていた。
マコトはその目を見て、思い出してしまった。
そして、驚愕した。極彩色の瞳は見開かれ、その表情は動揺に満ちていた。……だが、それは襲撃にではない。
彼が驚いたのはただひとつ、迷いで自身の手が鈍った事実に驚いたのだ。
その間、わずかとてこの至近では余りに隙だらけだった。
気がつけば、男の振るった短刀がマコトの腹に深く沈み込む。体勢を崩したマコトの腸を刃は数回刺し、加えて太股を幾度か抉った。
普段、誰も来ないような屋上へ続く階段で、少年は倒れ伏した。




