第三十一話 目を背ける
本当にとんでもないことになったら、どうなってしまうのか。
悪夢にまで見た嫌な想像、そんな事態を実際に引き起こしてマコトがわかったのは、何かをやらかしたという実感というのは、そのしばらくはあんまりないということである。
そういうものは、後から来るものだ。だが、それでもきっと人間はその苦しみのためには滅多に死ねない。だが、その苦しみは決して簡単に背負いきれるものでもない。
それは病室でテレビを見ていても、変わらなかった。
首都不明攻撃事件はひっきりなしにあらゆるニュース番組が取り上げていた。それがマコトに冷や汗をかかせることはなかったが、壁の染みを数える以上のことができなくなるくらいに気力を奪うには十分だった。
噓のように傷跡が治っていて目覚めたら数日も経っていれば、現実感は薄くなる。画面越しに見える破壊された街の跡は、まるで特撮映画の大掛かりなセットのようで、妙に欠けた現実感が一層に彼の罪悪感を鈍く切れ味の悪い刃物の様な収まりの悪いものにしていた。今、彼の記憶に現実感をまとってこびりつくのは、皮膚と肉を通り抜ける刃の冷たい感触と、その直後に訪れる燃えるように熱い痛み。
そしてマコトにはその記憶が自身の連続性を担保しているように感じられた。それ以外に、信じられる現実はない。スタジオで演出される現実の出来は些か滑稽だが、それほどまでに説得力があった。
呆然とテレビを眺めて、そして暫くして、マコトは大変なことをしたことをハッキリと自覚し、これはいけないと軽く錯乱し、そうしたプロセスを経て罪悪感という刃でその胸を張り裂かんばかりに深く抉るのだ。
マコトは逃げ込むように、風呂場に駆け込んだ。そして、患者衣を着たまま平静を取り戻すまで二時間もシャワーを浴びた。
普通ならば高額過ぎて受けられないような治療を受けた後は案の定に即座に退院させられるようで、もう明日には出ることになっていた。それについてはやけに準備が良く、着替えや学校の制服、通学鞄なんかが病室には置いてあった。そのまま登校できるようにという配慮だろう。
葛藤する暇がこれ以上ないのは、マコトには都合が良かった。
悩みや葛藤というのは良くも悪くも有意義な余暇のある人間の特権だ。苦痛に窮し、義務に向かう人間は、いつしか悩みなど忘れてしまう。
電車襲撃の時に助けられなかった命のことを、大して時は経っていないのに忘れつつあったように。
だが、マコトは退院までは確かに、手持ち無沙汰で、これは苦痛と同時に退屈でもあった。
そんな頃合い、看護師が来客を伝え、マコトはそれに応じる。
それは随分と意外な来客だった。
「もう退院だな、おめでとう」
病室を訪ねたのは、処理部をまとめる女傑だった。
「……鷲律さん」
サバンナのど真ん中を歩いているかのような隙の無い眼と、艶やかな金髪を備えている鷲律ユラナを前に、流石のマコトも背筋が伸びる。
「……なんと、言ったらいいのか」
そして、何と言っていいのかわからずに、まるで裁判所で言葉を選ぶ罪人のように、躊躇しながら少年は言葉を紡いだ。いつになく、弱気に見えたことだろう。
「そんな顔するな。頭にくる」
彼女が、憮然として鼻を鳴らした。
「最善ではなかったが、お前の選択は正しい。あのまま死ぬよりマシだ。少なくとも、お前にとってはそうだったはずだ」
「……はい」
「一度取り掛かった仕事は誰かがやり遂げる他にない。そして、その覚悟に揺らぎはないのだろう?なら、その考えを変えるなよ。仕事はまだまだ山積みなんだからな」
鷲律の口調は相変わらずで威厳すら纏っていたが、それでも普段よりは些か穏やかに感じられた。
「わかりました。そうえいば……あの後、月下と西田は、どうなりましたか」
マコトが肝心なことを問いかけた。
彼女の証言は今後の捜査に大きく影響する、それは羽黒レイの命に繋がる事だ。
「ああ、そうだったな。お前の報告まで確定はさせないが、今度ばかりは公安から情報が早く入ったよ」
いい知らせであるが、鷲律は何かに呆れているのだかなんだかわからない口調である。
普段の連携が悪いのだろうことが、古斗野病院のエレベーターホールに訪れた屈強な刑事の集団と相対したマコトにも想像に難くなかった。
「二人は恐らく死んでいないが行方不明だ。そうそう、お前の攻撃で死んだ奴のひとりが真理救済教の人間だった。目撃情報から月下ユウと戦り合っていたようだった」
鷲律が言った。
詠航マコトは敵もまた、実感のないところで殺していたようだった。
「それは……でも、一体なぜ?」
マコトがどこか気まずそうに問いかけた。
「月下ユウが真理救済教から離反しているか、見限られた可能性が高い──もしかしたら、月下ユウは岡田がああすることを知っていたのかもな。彼女の能力は、未来の推測だ。概念的だし、当人にしか見えない事だから、どこまで見えるかは把握できないが……その可能性はある」
「そうだったんですか……離反って……でも、レイはもう……」
既に羽黒レイが行方不明になってからでは、意味がないのではないかとマコトが溢す。
月下ユウと面識はあるが、マコトは特別に親しいわけではない。
付き合っていたことも考えれば、普通、羽黒レイを助けるはずだ。
「いいや……羽黒レイが狙われた時点で、何かしらの仕掛けをしていたのかもしれない。お前がいたのに、黙っていればそれで十分反逆だろう」
「……確かに……電車襲撃の直前も、月下ユウはいました」
マコトはそれもそうかと頷いた。
特殊体質者の能力は、他人に共感されにくい。正確に伝えるのも難しい。
それは目の見えない人間に赤がどんな色か説明するのと同じように、答えのない問題である。だからこそ、そうした特殊体質者は敢えて黙ることもできるのだ。
「理由を付けて、彼女の家族を警察が保護した。精神的に弱っているようだから検査したら、何か能力を受けていたらしく今は病院だ。彼女の家族は教団の信者だったようだが……言うことを聞かせるだけならば人質にとればいい。あえて動機を見る必要もない。ただ、良好な関係ではなかったとか、そんなところだろう」
鷲律がそういえば、肩をすくめた。その仔細を語ることはないが、その実際にどんなことがあったかは想像に難くない。
「まさか、そんなことが……」
マコトが言葉をこぼした。
月下ユウの持つ快活で明るいイメージからは、全く想像のつかないことだった。
「岡田の乗ってきた車には、もうひとりの標的、平柳もいたことが防犯カメラに映っていた。だが、奴は途中帰っている。それなら岡田ひとりで来ればいいし、仮に岡田に好きにさせるなら無理に西田にお前を襲わせる必要もないのに……だ」
「……岡田が独断専行した?」
「多分な。西田もそうかもしれない、個人的な因縁があるだろう」
「その線は……確かにある」
西田は、まかり間違っても善人ではないし良い奴でもなく、マコトとは相容れない人種である。だが、愚かでも弱小でも無能でもない。立派に脅威である。
だからこそ、その仮説はマコトの腑に落ちたし、実際に戦ってそうした何かを感じていた。自分の手で決着をつけることを、西田は望んでいた。
「やはりな。今回の事件、特に岡田と平柳、二人は内部の人間ではない。金にも困っていなければ、実力も確かだ。何か個人的な目的でもあるか、弱みでも握られていない限りこんな事に加担しないだろう……そもそも、この事件自体に意図がある。お前を殺すだけなら毒を盛った時でいいんだから」
鷲律が言った。
そう、それこそ致命的な矛盾点である。
「……でも、それならなぜ?俺、向こうにかなり嫌われてる自信ありますよ」
マコトが当惑した。それを言い始めたら仕方ないのだから。
「恐らく、岡田にお前が弱っているのを知らせずに殺させて、事件に巻き込んで戦力にするのが狙いだったんだろう。月下ユウに関しても忠誠を試すとか、共犯者にして逃げられないようにするとか……そういう意図があった……と思う、推測するしかないが」
鷲律ユラナはあくまで推測に過ぎないことを改めて言いながら、仮説を組み上げていく。
「……で、結果はこの通り。作戦は開始時点で滅茶苦茶になっていた。そして、その原因は状況と能力からして月下ユウの可能性が高い。あくまで推理になるが……こうなれば、毒で確実に殺す気でも、どのみち向こうはお前を殺せなかったかもしれんな」
「……そうですか」
筋は通っている。
岡田キョウタはマコトが弱ったところを狙うどころか、態々治した上に二人を相手してしまうような、常識ならば非合理なところに目的を置いていた人物だ。こういう、合理を弁えた上で非合理な目的を持つ人間が絡むと推理は厄介になり、事態の制御はそれ以上に厄介になる。
月下ユウのいた環境も考えれば、ありうる筋書きである。
「まあ、済んだことだ。報告書は書いてもらうが、頭を悩ませるのはお前の仕事じゃない。仕事も山積みとは言ったが、暫くは休め。流石に学校以外は外出禁止だが……落ち着くくらいはできるだろう。装備も楠木原に新しく調達させる、どこかで話し合っておくようにしろ」
「わかりました」
鷲律の簡単な命令を聞いて、マコトは隠すのも忘れてほっと安堵したような表情を見せた。装備を新調するのならば、お払い箱にはならずに済む。
「以上だ。荷物もあるし、金も多少置いてあるから問題ないだろう……ああ、それから、家のことなんだが」
「危険だから、帰るな──ですか」
「ああ、そうだ。次の住居の手配はこちらで済ませている」
鷲律の答えは簡潔だった。
「それはよかった」
「明日から私の家に住むことになった。また、迎えに行く。連絡するから見ておけよ」
「わかり……えっ?」
「じゃあな」
そう言って、鷲律は病室を出た。普通、「じゃあな」で締めくくるべきタイミングではない。彼女は確かにマコトを無視して出て行ってしまったのだ。
マコトは理解不能な事態に目を何度かパチクリとさせながら、閉まってしまった病室の扉を見つめていた。そして、その事態の恐ろしさに気づいた頃には、表情は苦虫を嚙み潰したようなものに変わった。
これは恐ろしい事態だ。やらかした子どもが、権力者の屋根の下で眠る。そして、これが庇護下なのか、あるいは支配下なのかは行くまでわからない。
事件についての話題と新たな情報のおかげで輪郭を取り戻していた今この瞬間の現実感は、再び曖昧な形に散逸していた。
そもそも正気か怪しい少年が、正気か怪しい美女と唐突に同棲するというのは、物語の中だから良いのであって実際にやるなんてのはたまったものじゃない。
マコトは考えることをやめた。その必要などなかった。元より、為せることも為すべきこともわかりきっているのならば、後は全てを受け入れる以外に選択肢はない。
ある時、マコトは、ふと不安になって病室の壁を見つめるのをやめた。あの時あの瞬間の自分の姿をどこかの誰かが撮影していないかと、場末の掲示板かどこかに証言者が現れないかと思ったからだ。
首都不明攻撃事件のネット記事は、調べればいくらでも出てきた。そして、イルミナティのメッセージだとか、666がなんだとか、どこかの誰かがこれを予言していただとか、一体何で飯を食っているんだかよくわからない連中の投稿がSNSを賑わせていた。
本当に深刻で複雑な……解決に膨大な労力を要する問題が起きている時、真相を知る者は口を閉ざすのが常だ。それに真実というのは、人間という生き物──特に現代人──とは、常に相容れない。歪んだ解釈と閉じた認識の内で生きる社会的な動物に、膨大な量の事実を消化する能力はない。消化しきれずにこじつけの妄想をひりだすだけだ。
無限に近い量のゴミ同然の情報と親和性が非常に高い頭の軽い多数の一般人こそが、高度な情報社会のボトルネックである。そして、マコトは本来、頭の軽い多数側をそれなりに楽しむか、そんな社会にろくに参加もしないつもりだった。
だが、気がつけば大衆にだけバレることなくこの騒動の中心に立っていた。飛躍した論理をだらだらと語る芸風の素人軍団に譲りたいくらいには。
結局、マコトが心配するようなものは見つからなかった。鷲律が登校しても良いと言ったくらいなのだから、真実は闇に葬られているのだろう。
真実は単純だ。刺客が強かったので加減の余裕などなく、致し方なく周りを巻き込んでしまった。爬虫類人間が世界を裏から操っている方がもう少しマシだと、マコトはネットサーフィンをやめた。
そして、マコトは気が滅入ることから一度離れた。
せせこましい病室から脱出し、院内を散歩してみればどこにもあるように自動販売機があった。
好みの飲食物を久方ぶりに味わうと、人は久しく会っていない旧友に再会したような気分になる。コーラという飲み物は彼にとって、その代表である。
小銭を入れてスイッチを押せば、ピッという聞き慣れた電子音が高鳴り音を立てて巣立ちした赤色の缶ジュースが取り出し口に転がり落ちてきて、少年は至高の一杯を取り出そうとかがみ、そして半ばで動きを止めた。
マコトがふと振り返る。
そこには少女が立っていた。その子は、無垢な顔つきで彼を見つめていた。
明らかに幼く、マコトよりずっと背が低い。小学校高学年あるかどうかというような様相であるが、周りには保護者らしき人物は見当たらない。しかし、真っ白いワンピースを着た姿からして患者ではない。
ただ、妙に現実感の欠けたまま、彼は少女と向き合った。
「……君、迷子じゃないよな。お父さんやお母さんは?」
そうやってマコトは話しかけてから、少しばかり眉を顰めた。
わざわざ話す必要などなかったからだ。
「うん、迷子じゃない」
「お兄さんこそ、大丈夫?」
少女が首を傾げた。
患者衣を着たマコトは妙に病弱に見える。それは、歳相応に未完成なシルエットと、儚く解釈されやすい瞳と髪の持つ色合いゆえだろう。
確かにそんな男に心配されるのは少女には不可思議でもおかしくなかった。
「ああ、大丈夫。もう明日には退院するから」
「うん、元気そうだね」
マコトの瞳を覗き込んで、少女は言った。
よくよく見るとその瞳は暗く燃えていて、儚いという形容は適さない。
「君、なんで病院に?」
マコトが問いかける。
「さっきお姉ちゃんに会ったの、久しぶりに会ったんだ」
「そうか。お姉ちゃんは、元気そうだったかい」
「うん、お話した。元気だったよ」
「それは……良かったな」
マコトが、微笑んだ。
「うん!」
「お兄さん、綺麗な目だね。でも、私は髪の方が好き」
少女の視線がマコトの極彩色の瞳からほんの微かに桃色のかかった白髪へと移った。
珍獣に向けるような好奇の視線ではない、洒落た女子高生が髪を明るくするのを見て羨むのと同種の目線である。
「……ありがとう」
マコトが微笑んだ。
「うちの犬みたい」
「犬て……」
マコトは苦笑しながら、少女から背を向けた。再度取り出し口から缶ジュースを取ろうと試みて、今度は問題なく手に入れた。
濡れた表面に、冷たい感触、そして重みは確かにいつもの炭酸飲料である。マコトは大きく息を吐いた。状況は悪化しても、これだけは変わらない。
少女はそれをぼんやりと眺めている。微睡むかのような穏やかな表情だった。
マコトは少女を一瞥すれば、缶ジュースを倒すように持ってその側面を指で軽く弾いた。側面は簡単に穴が空いた。そして、穴からジュースがこぼれないように口で抑えながら缶を姿勢とともに立てて、プルタブを開いた。そうすればジュースは空になるまで流れ続ける、ショットガン飲みという今時誰もやっていない飲み方だ。
マコトはそのまま350mlを飲み干した。そして、少女の方に視線を向ける。
「あれ?」
少女はもういなかった。
羽黒レイの通夜、そしてその付近で起きた事件から数日、休校を明けた古斗野高校だったが雰囲気はどこか重く、三年の教室では尚更で、羽黒レイのいた教室は殊更だった。
何人かが欠席し、出席した者も皆どこかうわの空で、教員たちも普段通りを装うがその表情はどこか疲れていて、元気がない。
「連絡もないなんて……ユウちゃん、心配だね」
山崎ルリが言った。
「……ええ、でも何かあったということではないのだから。ただ、今はそっとしておいてあげましょう」
牧野シロの表情がらしくもなく硬直して、ゆっくりと感情を嚙み殺す。
彼女はそう読み上げようと事前に決めていた定型文を出来の悪い機械人形じみた口調でただ追いかけた。
「……山崎さんも、大変だったでしょう。だから、暫くはゆっくり過ごして下さいね」
「ありがと、最近変な感じするし、シロちゃんも気をつけてね」
教室で二人の会話を盗み聞きするのは、普段通りの振りをして本を読むふりをする詠航マコトだった。
普段は快活で開けっ広げな女子の世間話すら格段に減っていた。もしも、何か話すとしても何かに見張られているのか、あるいは教室を図書室と勘違いしているかのようにひそひそと話すばかりだ。
その原因はわかりきっている。親愛なるクラスメイト、羽黒レイの通夜の直後に起きた大事件。それに連日の大事件を機に近くの公道で行われる特殊体質者の特権反対を平日の朝から主張するデモのせいでもあるだろう。
退院の後、マコトは結局、登校していた。今、籠るのは気が滅入ることで、そうしたところで何も解決しなければ早く次へ備えて英気を養わねばならない。だが、ひとりでの外出は禁止されていたので、致し方なくのことである。
いつも一緒に話す相手も今はいないものだから結局気晴らしにはなりそうにない。寧ろ、暫定で喪ったものの重さを嚙みしめながら、より惨めな気分でいるだけだ。
それに肝心の学校も悪い知らせばかりで暗いムードだ。だが──中にはいい知らせもあった。
「やあ、詠航」
富永が、席で本を読む演技に励むマコトに話しかけた。
「よう……この前はお手柄だったな。新聞にも載った」
文庫本を置いて、マコトが応えた。
「そんないいもんじゃない、偶然だよ。咄嗟に体が動いただけだし……それに、山崎さんもいた、ひとりじゃ上手くできなかっただろうし。残念だけど、助けられなかった人もいた」
富永は、誇ることなく首を横に振った。
大手新聞社によれば現場に偶然居合わせた二人の古斗野高校生徒が、どのヒーローが到着するよりも早くに救助活動を行ったという。もちろん普通は避難すべき事案だが、爆発が遠ざかっていることから安全だと判断して現場で救助活動を行った。
数少ないできることであったヒーローの誘導や数人の要救助者の把握と情報共有だったが、その結果、迅速な作業の手助けになったという。
「……そうだな。でも、そう簡単にできることじゃあない。いいだろ、それで」
マコトは目を伏せて言った。
「それはそれとして、何か用か」
「あの色紙、今持ってる?他の子に回したくて」
「ああ、あー……色紙……色紙か。悪いな。あの日、雨ひどかったろ。それで車に派手にひっかけられてさ……そりゃもうあんまりひでぇから捨てちまったんだ。ごめん」
富永が言う色紙とは、羽黒レイにあてた寄せ書きである。
もちろん、それどころではなかったマコトはそんなものすっかり忘れていて、彼は苦笑いながら咄嗟に言い訳した。
「そう……家には持って帰った?まだあるなら、後輩に直せそうな子がいるから」
富永が改めて問いかけた。
「ごめん。あの日は疲れてたし、色々あり過ぎて記憶が曖昧で……多分、道かどこかに捨てたと思う」
噓は言っていなかった。どのみち、確かめる術はない。
「わかった。まあ、気にしないでいい。そういうこともあるし、また書き直せばいい」
「そうだな、まあ悪かった」
富永の言葉にマコトは狡猾に笑う。
「もうひとつ、個人的に頼みたいことがある」
「なんだ」
富永がマコトに頼みと言った。これは、過去に例のないことである。
「一応、生徒会に参加してるのは知ってるよな。副会長二人あるうちの片方が俺で、もう一人が羽黒だった。最近はみんなかなり忙しくしてる。知ってるかもしれないけど、文化祭の準備で、今は一番踏ん張りたいときなんだ……羽黒は副会長として事務やりながらみんなを引っ張っててくれてたし、正直かなり助かってた。だから、いなくなってみんな元気をなくしてる。なんとか終えられそうではあるけど」
羽黒レイと親しかったにも関わらず、生徒会の活動のことをマコトはよく知らない。そうなのだろうとわかっているからか、それを前提に富永が説明する。
「そういえば、あいつ最近そんな感じだったな。まあ、大変だな」
マコトはどこか他人事で、いかにも早く話を切り上げたいという風だったし、実際にそうなのだろうと推察するのは富永にも簡単だ。だが、その理由やマコトの気分とやらは事情を知らない富永にはわからないことである。
「ああ、それで、ちょっとした仕事の手伝いを君に頼みたい」
「……俺の評判は知ってるだろ、他の子達が受け入れてくれると思えないし……そういうのが向いてるヤツはいっぱいいる。それなのに大丈夫なのか。それに、牧野はなんて?生徒会長だろ」
生徒会長を通さずに言っていること、周りの賛同もないだろうことを、暗に責める言い方であり、そうである以上はまず話のスタートラインにすら立っていないという論法であった。
事情を知る牧野シロならば、こんなことはまずすぐに伝えるはずであるというマコトの慧眼であった。
「実は牧野さんにはまだ聞いてない。けど、みんなは大丈夫だ。昔に色々あって、学校も変わった。けど、それを感謝してる子はいる。後輩たちだって気にしない」
「……まあ、嫌ならいいんだ、あんな事あったし。ただ、頼むと言っても少しのことなんだ」
形勢不利な富永はどこか居心地悪そうに言った。
「そうかい」
どこ吹く風でマコトは返す。
「生徒会で劇をやるって話で、その台本は羽黒が書いてくれてた。それも、もうほとんど完成してたんだけど……最後の少しが書ききれないというか、どう手を加えればいいのか、正直わからない。詠航、仲良かっただろ?」
「……まあ、そうだな。考えとく」
富永の言葉を聞いて、マコトは一拍ほどの時間を置き、ゆっくりと答えた。
「そうか……」
富永が、俯きながら言った。
「で、どんな台本なんだ。それ」




