第三十話 後始末
ふわふわとした印象の薄い桃色がかった白髪は枕の上に深く沈み、ありとあらゆる宝石を削ってひとつにしたような極彩色の瞳は瞼の中に隠されていた。
少年はどこまでも無垢な寝顔で、すうすうと眠りこけている。
その病室の外、古斗野病院の一室にて手術を終えた彼を慮る女が一人。否、二人。
「容態は?」
長い金髪にネコ科の猛獣じみた眼を携えてスーツを身に纏う女が問うた。
それはあくまで事務的な、もしくは挨拶的な問いかけのようにも見える。なんであれ、深刻な事態ではないだろうという確信の下、彼女は問うていた。
「それは問題ない。だから残念ながら、また任務に行く羽目になる」
弦村が答える。
「そう、それこそが一番の問題よ。ユラナ」
そして、その女医は言葉を続けた。
「いい加減、外してあげて。この子はまだまだ若いし、責任を感じてる。今回の事もそう、民間人が大勢亡くなった。この子はそれを背負わなきゃならない。いえ、背負うわ。そうしながら戦う。でも、そんな残酷なこと、すべきじゃないわ」
相変わらず、詠航マコトの肉体に問題はなかった。
だが、問題があるのはその精神である。ああまで派手な出来事は隠し切れないし社会的な影響も大きい。途轍もない、直視しがたい苦悩がこの先あるはずだ。
その重圧や罪悪感もわかっていて、それがわかる正気の人間であるとわかっていて、戦う場所を用意するということの残酷さを、その医師は責めているのだ。
「だからこそ、無理だ。その責任と何より親友のために詠航は勝手に動きかねない。暫くは大人しくてもそれは時間の問題だ。野放しにはできないし、今度こそ庇いきれなくなる。何かさせる方がマシだ」
否、鷲律は首を振った。
彼を守っているのは彼自身の責任である、任務、Vの権限、国家にとって共存の到底望めぬ凶悪な敵がありその鉄火場に身を置くからこそ、権威と大義が公正と公平から彼を守れるのだ。
「学生なんだから、学校にいさせればいい。言って聞かせて、監視くらい付ければ問題ないわ」
「手間暇かけて置いておくことに意味はない」
「だから利用するの?」
鷲律の言葉を聞いて、弦村が眉を顰めた。これは、彼女には許容できることではなかった。
「人聞きが悪いな。当然、本人の意思は尊重する。……それより、要らないことを吹き込んだな。残り三年だと?大袈裟な事を……人格くらいでなんだ。ヒーローになるのだって命懸けなんだ、それくらい当たり前だろう。今更、大袈裟に何を吹き込んで、どうするつもりだ」
憮然として鷲律は答えた。どこか不遜だが、どこまでも強気に言い返した。
「例え望みが薄くとも、生き続けられるかもしれない希望があるからこそ人は生きていけるものよ。それに私は私の見解を話しただけ、普通はそうなるとね。それを伏せておくわけにはいかない……あなたこそ、何か隠してるでしょ」
弦村が指摘する。その言葉は当てずっぽうとは思えない、確信じみたものを持っていた。
「仕事は黙ってやるものだ。お前もただ、黙って仕事をすればいい。」
どうやら鷲律は、その意図を見せるつもりはないらしかった。
「医療者の仕事は患者のためにある、あんたや上の謀のためじゃない」
弦村が静かに言葉を紡ぐ。その口調はあくまで冷静で、だからこそ明確な意思を示していた。
「そうだ、医療者の仕事は患者の相手、私への説教じゃない」
鷲律が言い返す。ヒポクラテスの誓いは、しかし、絶対的な権力をどうにかする術はない。
「……ねぇ、ユラナ、何かあるんでしょ。言わなきゃ何にもわかんないわ。話してよ」
弦村はため息を吐けば、根負けしたように、もう何か待ちきれないというように、白衣のように窮屈な言葉を脱ぎ捨てた。彼女が聴きたいのは取り繕った言葉でない、本音なのだ。
「心配はいらない、何もないから」
弦村の言葉を、鷲律はさらりと流せば背を向けた。
「……なに、もう行くの」
「どこかの入院患者のお陰で仕事が山積みなんだ」
肩をすくめれば、鷲律は立ち去った。結局、彼女は本音を溢しはしなかった。
そのまま彼女は足早に病院から出た、そして、大きなため息をひとつ吐いた。
「普通か」
鷲律が、ふと立ち止まって呟いた。
ひどい雨は、まだ降りやまない。
「生憎、縁がないな」
どこか遠くで、雷鳴が轟いた。空はまだまだ、荒れそうだった。
緊急会議は、首相官邸で行われていた。その中の様子を知れるのはほんのごく限られた人間である。そして、その終了を外で待つ人々がいた。
警察にヒーロー、防衛関係……各勢力の大人物の直属の人間たちであり、彼らもまた、ボディガードであれなんであれ、同室はできずとも外で待機なんて扱いにはならないはずの只者でない集団である。だが、例外はなんにでも──例えば一部の人間以外には極秘の特務機関が参加しているだとか、その機関こそが議題の会議だとか、場合によっては殺し合いになりかねないだとか──起こりうる。
そう、特務機関Vにとっての失態は、事によれば組織の露見や警察権力との衝突になりかねない。その時、Vはただ黙って言うことを聞くような組織ではない。
これは、彼らの重大な仕事を単なる待機時間に変えていた。ある意味では、幸運である。荒れに荒れる会議での、どうしようもない頭痛のタネは彼らが悩むことではないのだ。
本来、ぼんやりとさせるには勿体ない待機組のほとんどは車内に籠っていて、外の空気を吸うようなものはいなかった。これは、ひどい雨のためだ。
しかし、そんな雨の中、真っ黒な傘を片手に火の灯る煙草を咥える男が一人いた。スーツ姿の至って普通の三十代男性に見えるが、よく鍛え上げられていなければありえない体格のシルエットが、彼が常人たることを否定していた。
そんな男は憂鬱な表情で、首相官邸を見守りながら煙を吐き出した。
「よう、重川。火貸してくれるか?」
そんな男の背後から、親しげに話しかける男がひとり。
同じく真っ黒な傘を片手に煙草を咥えて問うた。
頼まれた男は答えることもなく、ライターの火をつけて松田に貸してやった。松田は煙草越しに火を吸い込んで煙を取り込めば、実に美味そうに息を吐いた。
「……変わらないな、松田さん。禁煙は?」
その様子を見て、男は言った。
「禁煙は飽きたから辞めた。にしたってライターはないだろ、あのバイオレンスレッドだぞ」
松田が言った。
「今どきコンプラがうるさくて、街中じゃそう気軽に使えない」
松田の言葉に、バイオレンスレッドもとい重川が言った。
「なるほど……そうか、それは大変だな。そういえば、バイオレット・フライはいるか?一緒に来ていると読んでいるんだが」
「ああ、いますけど……何か?」
「少し、用があってな。すぐ済む、簡単なことだ」
「バイオレット・フライ。お客だ」
重川は、装着したインカムから一声そう言った。返事は軽いため息と了解の一言だった。
「すぐ来る」
重川が言えば、二人は駐車中の車に目を向けた。どの機関の人間がどの車に乗ってきたかというのは、大抵が似たり寄ったりなもので当てるのは難しいものだが、その中に一つ異色のものがあった。それは、大型のトラックじみた大きさの特殊部隊等で運用される装甲車であり、謂わば、実戦用の車両。
これは大柄な異形を乗せる機会と荒事が多いからだが、ヒーロー以外にこんな車両を普段遣いするような常識を持ち合わせはしない。
そんな車両の扉が開くと、真っ先に彼らの目に入るのは鮮やかな青紫の蝶の翅であった。次に注目すべきは腰にまで届きそうな艶やか長髪とそれを揺らす長身と翅との完璧なシルエットだろう。
オオムラサキの異形は車から降りて、傘を開いた。それは独特の大きな楕円形をなしている。これは、翅を濡らさないためだろう。蝶ゆえに鱗粉が水を弾きはするが、意味もなく濡れることを嫌うのは誰しも当然の話である。
バイオレット・フライはそのけだるげな表情を隠さないまま、招いたつもりのない来客を捉えれば、つかつかと一直線に向かった。
それを眺める最中、松田は煙草を地面に打ち捨てた。
「どうも、初めまして……何かご用ですか」
バイオレット・フライは身に覚えのない人物からのご指名に、そう問いかけた。
「初めまして、バイオレット・フライ。公安の松田だ。さっきは部下が世話になったからその礼を……それにあなたも災難だった」
松田が自己紹介しながら、名刺を渡す。そこには松田というフルネームと連絡先、所属が記されていた。
「生憎、今は名刺がないので……カラーズのバイオレット・フライです。あの時の部下の方、ご無事でよかった」
バイオレット・フライは、一応の自己紹介ながら名刺を受け取った
「まあ、あの件はもう済んだことだ。そう、気にしないでくれ」
「……それで公安の人間が、一体何の用で」
バイオレット・フライが問うた。
「いや、そう固くならなくていい。これは、至極簡単なことで……つまり、サインをお願いしたい」
松田が言った。
「来てるかもしれないから、今日は待機しに来た。ここだけの話、娘がファンで」
バイオレット・フライが目的できたんだと、彼は懐から色紙と油性ペンを取り出した。
「なるほど……そういうことで。娘さんのお名前、書きますか?」
バイオレット・フライの持つ傘を重川が代わりに持って差してやれば、彼が松田から色紙とペンを受け取る。
「それなら……そう、みっちゃんで」
「どうぞ」
バイオレット・フライが慣れた手つきでサインを記す、そして松田に渡した。
「……おお、どうも、ありがとう。来た甲斐があった。あの子もきっと喜んでくれる」
松田が礼を述べれば、会釈した。
「それは良かったです。みっちゃんにいつも応援ありがとうとお伝えください」
バイオレット・フライの対応は丁寧だった。そうして思わぬサイン対応を終えれば、彼はふと夜雨に浮かび上がるような官邸を眺めた。
「……そういえばですが……例の少年、どうなると思う?」
バイオレット・フライが松田に問いかけた。
「……不問だろうな。いくらでも揉み消せる。最悪死んだなんて言えばいい。だが、そう言われると厄介だ。先行で不問にして、最低限の形だけの監視として落ち着ける。報道は規制され、すぐにでもカバーストーリーが流布される」
「……真相は闇の中、か」
「始めからそのつもりだろう。だが、別にヒーローが気にすべきことじゃない。そういうのは我々が気にするさ」
ヒーローに詳細を話すことはない。今、どこでどんなことが起きているのか、捜査に関することは極秘事項であり、松田自身も知らされていないことは数多いのだから。
「そっちこそ、あの少年に対面してみてどう感じた?」
逆に松田が問う。詠航マコトはどんな奴だったかと。
「さあ、ほとんど会話していないから正直どんな人間かはわからない……ただ、あれはサイコパスとかそういうタイプじゃない。あれは覚悟を済ませているタイプだ。自分可愛さでやったことじゃないと思う。きっと、他人や自分の命よりも何か目的を優先したんだろう。それが、正しいかはわからないが……ああいう土壇場で、決断できる、そういう人間だ」
選択し決断する、過去も今も未来もすべてを賭けることができる人間であり、ゆえにこそ強烈な存在だ。そして、強烈な存在は、もはやそうであること自体が災いになることもある。
「ただ、少なくとも事態が最善の方向に転ばなかったことは確かだ」
バイオレット・フライが締めくくった。
事態が最悪かどうかは、結局かの少年がどんな任務を帯びていたかによる。もしかしたら、そうせねばそれ以上の人間が死ぬ可能性が十分にありうるような、その視点では致し方ないことだったのかもしれない。
だが、決してこれは最善の顛末ではない。そう断言した。
間違いなく、これで良かったとは言えないのだ。
「娘がろくでもないバンドマンじゃなく、今をときめくヒーローのファンになった礼に言っておく。この件もあの少年も、関わるのはやめておけ」
松田が警告した。
話せないこと、話すべきでないこと、そしてそれが何であれ。松田にそれ以上を伝えることはできない。
「それは……どうも」
少しの沈黙を経て、バイオレット・フライは端的に応じれば、それ以上、その話題を掘り下げることはなかった。
「……会議も終わったみたいだ。それじゃあ、また機会があったらその時は」
官邸から、浮かび出るような人影が彼らのリーダーや上司が出てくるのを見て、松田が会釈した。バイオレット・フライと重川ことバイオレンスレッドは松田に軽い挨拶をすませれば、彼の後ろ姿を見守った。
「……今の人、いつの知り合い?」
「昔の知り合いだ。まあ、色々あるんだ」
後輩の質問を、重川ははぐらかした。そして、聞き分けの良い後輩はそれ以上、松田についても、この件についても詮索することもなかった。




